その①、その②、その③、その④の続き
第二の文書は、1918年11月27日、ロンドンで行われた戦時内閣東方委員会の会合を逐語的に報告したものである。座長は枢密院議長を務めるカーゾン卿。委員会はシリアについて論議してから、パレスチナに議題を移そうとした。カーゾンはこう口を切っている。
-パレスチナの位置づけはこうなります。もし我々の公約事項を審議するとすればまず第一に、1915年10月に、フサインに与えた一般的誓約があり、それによればパレスチナは、将来はアラブ人のために独立させるとの宣誓をイギリス帝国自身が与えた地域に含まれています…
「恐らくこれ以上に決定的な言葉はないであろう。イギリスはいかにも心得顔に、パレスチナがアラブ人の独立地域の一部とすることを、まず約束したのである」と、この文書を評した人もいる。初めにフサインに“公約”を与え、その後破ったということだ。カーゾンは帝国主義外交官の権化のような人物であり、彼のインド総督時代に起きた大飢饉では610万-900万人とされる餓死者を出し、ベンガル分割令を発動、歴代で最も憎まれた総督である。そんなカーゾンが、委員会で上記の発言をしていたのは興味深い。
どの国でも省庁間の縄張り争いがあり、イギリスも中東政策で外務省とインド省はしばしば対立していた。前者がフセイン一族を支持したのに対し、フセイン一族の宿敵イブン=サウード(サウジ初代国王)を支援したインド省。アラブに接近、利用した外務省に対し、トルコとの同盟を望んだインド省。英外務省も一枚岩とは限らず、それが「三枚舌外交」と呼ばれる場当たり外交を展開することになる。
オスマン帝国滅亡後の領土取り決めを定めた「サイクス・ピコ協定」にも、英国伝統の反仏感情と不信感があり、この協定を骨抜きにしようと画策する動きがあったのだ。もちろんアラブのためではなく、中東でのフランスの覇権拡大を阻止するためである。イギリスがシオニズムに好意的だったのは、資金面だけでなく、その活動がフランスへの牽制になると考えていた節もあった。19世紀末、ドレフュス事件を起こしているフランスよりもイギリスの方がユダヤ人には活躍しやすかったはず。
それにしても、フセイン・ファイサル父子共にパレスチナに入植してくるユダヤ人への好意的解釈と発言は、部外者からすれば不可解極まりない。ユダヤ人の豊富な資金力と経済支援は魅力的だが、相手側も善意から援助するはずはない。アラブに土地を買い占めるユダヤ人への警戒感が決定的に欠けていたのは悔やまれる。フセイン父子にはイスラム帝国やオスマン帝国時代の中東世界で、アラブ人と平和に共存していたユダヤ人のイメージがあったのだろうか。元から中東に住んでいたミズラヒムなら問題なかったが、入植者は欧州系のアシュケナジム、同じユダヤ人とは思えないほど異なった集団である。現にアシュケナジムはハザール人の末裔説が絶えない。
アラブと好対照なのが第一次世界大戦敗戦後のトルコ。トルコ革命を断行、徒手空拳で祖国を再生させる。いかに苦しくともトルコの経済再建は自分達で行う、というのがケマルの方針だった。「外国からの借金はするな」がケマルの国是であり、オスマン帝国末期のように結局は欧米による支援とは経済支配に他ならないことを熟知していたのだ。そんなケマルを再びイスラム世界の盟主と担ごうとするアラブ人もいたから呆れる。そして、外貨導入をしないケマルに苛立ち、不満分子を焚き付けクーデターを画策したユダヤ人政商もいたのだ。
対ドイツを睨み時にアラブ人を懐柔、味方に付けようとするイギリスの姿勢は、パレスチナに入植したユダヤ人の信頼も失わせる。ユダヤ人独立国家を目指すシオニストは政界工作をアメリカにシフトさせ始め、パレスチナへの移民を管理する権限をユダヤ機関が握ろうと働きかけた。シオニストのアメリカでの活動は概ね実り、第二次世界大戦後まもなく、イギリス駐留軍との戦闘を激化させたユダヤ人過激派に手を焼いたイギリスはパレスチナでの委任統治権を放棄した。
現時点で土地を売ったアラブ人不在地主を責めるのは容易だが、民族意識に乏しかったアラブと、民族主義の権化で圧倒的な経済力のあるユダヤでは端から勝負はついていたと思える。日本人も含め非ムスリムは過激派といえば真っ先にイスラムを連想するが、テロと暴力で建国したのこそイスラエルである。旧約聖書の聖絶を思わせるデイル・ヤシーン事件を知っている日本人が、どれだけいるだろうか。これは突発的事件ではなく、ユダヤ人過激派がアラブ系住民が住む村々に入り、見せしめに虐殺や強姦を行ってパニックを引き起こし、住民を大量追放する計画の一環でもあった(ダレット計画)。
目先の経済利益のために土地を外国人に売却するケースは、パレスチナのような遠い場所の遠い時代の出来事ばかりではない。やたら経済的効用をがなり立て、根拠もあやふやな皮算用を謳うマスコミ、多文化共生が平和と安定に貢献すると主張する経済人や文化人と、かつての「アラブの売国奴」が重なって見えるのは、たぶん私だけではないだろう。国内外ともに警戒を怠れば、パレスチナの悲劇はいつの時代も起こり得るのだ。
■参考:『中東戦争全史』(山崎雅弘著、学研M文庫5-1)
『アラブが見たアラビアのロレンス』(スレイマン・ムーサ著、リブロポート)
『アラビアのロレンスの秘密』(P・ナイトリイ&C・シンプスン著、ハヤカワ文庫NF12)
◆関連記事:「戦争の一種」
「ユダヤ人テロ組織」
「ケマルとユダヤ人政商」
よろしかったら、クリックお願いします
第二の文書は、1918年11月27日、ロンドンで行われた戦時内閣東方委員会の会合を逐語的に報告したものである。座長は枢密院議長を務めるカーゾン卿。委員会はシリアについて論議してから、パレスチナに議題を移そうとした。カーゾンはこう口を切っている。
-パレスチナの位置づけはこうなります。もし我々の公約事項を審議するとすればまず第一に、1915年10月に、フサインに与えた一般的誓約があり、それによればパレスチナは、将来はアラブ人のために独立させるとの宣誓をイギリス帝国自身が与えた地域に含まれています…
「恐らくこれ以上に決定的な言葉はないであろう。イギリスはいかにも心得顔に、パレスチナがアラブ人の独立地域の一部とすることを、まず約束したのである」と、この文書を評した人もいる。初めにフサインに“公約”を与え、その後破ったということだ。カーゾンは帝国主義外交官の権化のような人物であり、彼のインド総督時代に起きた大飢饉では610万-900万人とされる餓死者を出し、ベンガル分割令を発動、歴代で最も憎まれた総督である。そんなカーゾンが、委員会で上記の発言をしていたのは興味深い。
どの国でも省庁間の縄張り争いがあり、イギリスも中東政策で外務省とインド省はしばしば対立していた。前者がフセイン一族を支持したのに対し、フセイン一族の宿敵イブン=サウード(サウジ初代国王)を支援したインド省。アラブに接近、利用した外務省に対し、トルコとの同盟を望んだインド省。英外務省も一枚岩とは限らず、それが「三枚舌外交」と呼ばれる場当たり外交を展開することになる。
オスマン帝国滅亡後の領土取り決めを定めた「サイクス・ピコ協定」にも、英国伝統の反仏感情と不信感があり、この協定を骨抜きにしようと画策する動きがあったのだ。もちろんアラブのためではなく、中東でのフランスの覇権拡大を阻止するためである。イギリスがシオニズムに好意的だったのは、資金面だけでなく、その活動がフランスへの牽制になると考えていた節もあった。19世紀末、ドレフュス事件を起こしているフランスよりもイギリスの方がユダヤ人には活躍しやすかったはず。
それにしても、フセイン・ファイサル父子共にパレスチナに入植してくるユダヤ人への好意的解釈と発言は、部外者からすれば不可解極まりない。ユダヤ人の豊富な資金力と経済支援は魅力的だが、相手側も善意から援助するはずはない。アラブに土地を買い占めるユダヤ人への警戒感が決定的に欠けていたのは悔やまれる。フセイン父子にはイスラム帝国やオスマン帝国時代の中東世界で、アラブ人と平和に共存していたユダヤ人のイメージがあったのだろうか。元から中東に住んでいたミズラヒムなら問題なかったが、入植者は欧州系のアシュケナジム、同じユダヤ人とは思えないほど異なった集団である。現にアシュケナジムはハザール人の末裔説が絶えない。
アラブと好対照なのが第一次世界大戦敗戦後のトルコ。トルコ革命を断行、徒手空拳で祖国を再生させる。いかに苦しくともトルコの経済再建は自分達で行う、というのがケマルの方針だった。「外国からの借金はするな」がケマルの国是であり、オスマン帝国末期のように結局は欧米による支援とは経済支配に他ならないことを熟知していたのだ。そんなケマルを再びイスラム世界の盟主と担ごうとするアラブ人もいたから呆れる。そして、外貨導入をしないケマルに苛立ち、不満分子を焚き付けクーデターを画策したユダヤ人政商もいたのだ。
対ドイツを睨み時にアラブ人を懐柔、味方に付けようとするイギリスの姿勢は、パレスチナに入植したユダヤ人の信頼も失わせる。ユダヤ人独立国家を目指すシオニストは政界工作をアメリカにシフトさせ始め、パレスチナへの移民を管理する権限をユダヤ機関が握ろうと働きかけた。シオニストのアメリカでの活動は概ね実り、第二次世界大戦後まもなく、イギリス駐留軍との戦闘を激化させたユダヤ人過激派に手を焼いたイギリスはパレスチナでの委任統治権を放棄した。
現時点で土地を売ったアラブ人不在地主を責めるのは容易だが、民族意識に乏しかったアラブと、民族主義の権化で圧倒的な経済力のあるユダヤでは端から勝負はついていたと思える。日本人も含め非ムスリムは過激派といえば真っ先にイスラムを連想するが、テロと暴力で建国したのこそイスラエルである。旧約聖書の聖絶を思わせるデイル・ヤシーン事件を知っている日本人が、どれだけいるだろうか。これは突発的事件ではなく、ユダヤ人過激派がアラブ系住民が住む村々に入り、見せしめに虐殺や強姦を行ってパニックを引き起こし、住民を大量追放する計画の一環でもあった(ダレット計画)。
目先の経済利益のために土地を外国人に売却するケースは、パレスチナのような遠い場所の遠い時代の出来事ばかりではない。やたら経済的効用をがなり立て、根拠もあやふやな皮算用を謳うマスコミ、多文化共生が平和と安定に貢献すると主張する経済人や文化人と、かつての「アラブの売国奴」が重なって見えるのは、たぶん私だけではないだろう。国内外ともに警戒を怠れば、パレスチナの悲劇はいつの時代も起こり得るのだ。
■参考:『中東戦争全史』(山崎雅弘著、学研M文庫5-1)
『アラブが見たアラビアのロレンス』(スレイマン・ムーサ著、リブロポート)
『アラビアのロレンスの秘密』(P・ナイトリイ&C・シンプスン著、ハヤカワ文庫NF12)
◆関連記事:「戦争の一種」
「ユダヤ人テロ組織」
「ケマルとユダヤ人政商」
よろしかったら、クリックお願いします


1.土地買い占め
土地の買い占めにより民族浄化を図るという手法は、実は社会主義時代のコソボ共和国でも、着実に起きていたことです。恐らくは、アルバニア人社会も、シオニズムの教訓を真似したかも知れません。ムスリムのアルバニア人達が、シオニストの真似をした、と言うのも不思議なことですが。
小生の記憶では、80年代初頭には、既にコソボにおける地価は、ユーゴスラビア全土の中で、農地価格が他の地方に比べて、3倍ほども高かったのです。
この理由は、アルバニア人達が、外国への出稼ぎで貯めた外貨などの資金を元に、セルビア人農民・地主らから、高額で農地を買い取ったからです。
コソボ共和国における人口比率としては、既に80年代前半でも、80%くらいは、アルバニア系となっていたと思うのですが、更により完全にセルビア人達を追い出し、アルバニア人のみの土地として、この共和国をユーゴからやがては独立させる方針だったことは明白でした。
2.ミロシェヴィッチの力の政策が破局を導いた
ミロシェヴィッチは、このようなアルバニア系人口比率の増大、土地のアルバニア人への移転に不安を覚え、中央政府の支援を要請した在コソボセルビア系住民の声に答えて、セルビア軍治安部隊を追加派遣し、時にはアルバニア系住民らを集団虐殺するなどの蛮行まで行ったので、コソボ紛争に米軍が介入する事態にまで発展しました。
3.民族浄化は、むしろ多数派のアルバニア系住民が先に考えた
とはいえ、元々、80年代初頭、まだユーゴ解体前で、社会主義の時代から、アルバニア系住民は、ユーゴ全土においても異常なほどの高価な価格ですら、農地を買い占め、セルビア人農民を追い出し、土地の多くをアルバニア系で占め、コソボの人口比を益々アルバニア系の純度を引き上げ、民族浄化しようとしていた、と言う歴史もあるのです。その上、アルバニア解放戦線という、民兵組織もあって、軍事的にもベオグラードからの独立戦争に備え、軍事訓練も行っていました。
4.セルビア警察による長い迫害の歴史
もっとも、ユーゴ連邦の中で、コソボのアルバニア系住民は、チトーが統治していた時代ですら、治安維持に当たるセルビア人警察、セルビア系軍人達により、要警戒民族として、厳しく統制されていました。小生も観光で現地に入った(68年頃)ところ、我々外国人が、ムスリム系のアルバニア系住民と会話することすら、セルビア人警官によって阻害され、他のユーゴ国内(警官の介入はほぼ無く、自由な雰囲気だった)とは異質な地方でした。つまり、アルバニア系は、秘密警察、普通警察などから、日頃から迫害されていました。
5.民族自決>独立は仕方なかった
世界の歴史では、どちらが善人で、どちらが悪人と、はっきり言えない事例は、ほんとうに多いというか。とはいえ、小生は、コソボの独立を非難する気にはなれない。長い歴史からみて、アルバニア系住民には、セルビア系による圧政で受けたひどい屈辱があったから、独立まで突っ走るしかなかった、とも言えるから。
コソボでの土地買い占めのことは初耳です。コソボ紛争の背景で興味深い情報を教えて頂き、有難うございました。これはかつてのパレスチナやコソボに限らず、日本でも十分あることだろうし、既に起きているかもしれませんね。
たぶん『文明の衝突』(ハンチントン)だったと思いますが、コソボのアルバニア系ムスリムを批判し、先にセルビア系に対してテロを行っていたと書いていました。アルバニア系を挙げて、ムスリムは何処でも異教徒と平和に暮らすことが難しいと言い、米国の軍事介入を疑問視しています。
アルバニア系を支援したのが中東のムスリムであり、産油国なども積極的に援助していたそうです。コソボには中東からの武装民兵も駆けつけ、「ジハード」を煽っていたとか。アフガンやカシミールと同じく、主にアラブから来たムスリムに原理主義を吹き込まれ、過激化していった面もあるそうです。コソボ紛争後、アルバニア系花嫁が中東に渡ったケースもあるとか。オスマン帝国時代にもアルバニア系が中東に行くのは珍しくなかったし、歴史は繰り返すのか、と感じました。
私はセルビアの歴史はまるで無知ですが、彼ら自身もムスリムに支配されたという恨みもあるはずですよ。キリスト教徒セルビア人がムスリムに迫害されていたとは思えませんが、「圧政で受けたひどい屈辱」も感じていたのではないでしょうか?それがアルバニア系住民に対する迫害に繋がった?社会主義時代のブルでトルコ系が差別されていたように。
バルカンの歴史は、ややこしいのです。コソボだけをとっても、長い歴史から見ないとならない。平凡社版『東欧を知る事典』(93年12月)によると、そこの辺が書かれています(少し小生の文章に手直ししています、また番号も付加しました)。
1.コソボの長い歴史
(1)セルビア人がイリュリア人を追い出した
先住民は、イリュリア人で、この民族は現在のアルバニア人の一部を形成したと思われる(小生注:普通には、イリュリア人は、アルバニア人の祖先と言われている)。その後ローマ帝国、ビザンツ帝国の支配下に入ったが、後者の衰退に伴い、12世紀末セルビア人が占拠し、住民をアルバニアに追い出した。セルビア人は、この地に、中世セルビア王国を築いたが、オスマン帝国軍がバルカン半島に進出してきて、1389年「コソボの戦い」で敗北し、以降500年にわたりオスマン帝国の版図となった。
(2)オスマン帝国時代に、アルバニア人の方が支配的地位についた
オスマン時代、アルバニア人の多数がイスラム教に改宗し、オスマン帝国の中で軍人などとして出世したアルバニア人が、キリスト教徒としてとどまったセルビア人に対する支配者として、故地に戻りつつあった。
(3)17世紀末に、セルビア人達がボイボディナ地方へ集団移住(逃亡)した
17世紀末には、セルビア人達が、どういう訳か(迫害と言うより、キリスト教宗教指導者の扇動があったらしい)オスマン帝国から逃げようと決意し、ハンガリーとの国境地帯にあるボイボディナ地方へと、集団移住し、コソボの地は無人化した。18世紀、人口が激減したコソボの土地に、アルバニア人が大挙移住してきた。
(4)第一次バルカン戦争(1912年)で、セルビアが再度コソボを占領
セルビアは、1918年にユーゴスラビアを建国し、この地をコソボ地区として統治。
1945年、社会主義のユーゴ連邦では、コソボ・メトヒヤ自治区として、セルビア共和国内で一定の自治を認める地域(ハンガリー人の多いボイボディナ自治州とともに)とした。63年の憲法改正では、コソボ社会主義自治州に昇格。65年に、「新経済」政策が導入され、海外への出稼ぎが承認されると、コソボからの経済移民数は、ユーゴ国内でも最高の比率となった。(小生注:アルバニア人は多産で、出稼ぎで確保した外貨を持って帰国し、コソボ州内で農地を買いまくった)。
自治州とはなったが、分離独立権も保有する「共和国」の地位を求めるアルバニア系住民と、これを認めない連邦政府との間では、論争が続き、「コソボ問題」と呼ばれる一種の民族紛争として、社会主義時代においても、問題が深刻化した。高い失業率と極度の貧困(小生注:社会主義時代においても、ユーゴでは、共和国間の経済格差が簡単には縮まらず、コソボでは「失業」問題すら深刻だったのである)は、アルバニア系住民には、「民族的差別」であると見なされ、「共和国資格要求」が民族主義のシンボルとして暴動が頻発した。
(5)チトー没後
80年にチトーが死亡し、翌年の81年には、コソボの暴動・デモに対して、初めて軍隊が出動し、戒厳令が布かれた。この際のアルバニア人の犠牲者数は、死者11人、負傷者50--60人と発表されたが、実数はこの100倍に達するとの説もあった。
他方、ユーゴ政府は、格差縮小を目指して80年代には、多額の開発基金を計上し、首都プリシュティナには、モダンな高層建築が林立するようになった。
(6)ミロシェヴィッチの登場、コソボ紛争の勃発
87年ミロシェヴィッチがセルビア共和国幹部会議議長に就任すると、同人はセルビア民族主義に荷担する形で、また自己の人気取り(政治生命強化)の意図もあり、89年には74年憲法を修正して、共和国側の権限を大幅に強化し、コソボ平原にて「コソボの戦い」600周年行事を大々的に開催し、50万人のセルビア人を前に、「コソボを奪回する」と宣言して拍手喝采を浴びた。もちろん、アルバニア系住民は、猛烈に反発した。
91年10月、「コソボ共和国」議会は、「独立主権国家宣言」を採択し、92年5月には「共和国」議会、大統領選挙を一方的に実施するなど、アルバニア人側も、独立に向けて、紛争をエスカレートさせていった!
98--99年には、本格的な武力闘争があり、米軍まで介入。その後、NATO軍が治安維持部隊を展開。
2008年2月に、コソボ共和国が正式に独立を宣言した。また、2010年7月には、国連国際司法裁判所(ICJ、ハーグ、裁判長=小和田恒)が、独立を合法と判断した。
2.コソボの戦い
この項では、『事典』には、次のように書かれています。
セルビアの有力者ラザル公(Lazar)が、ボスニア王トブルトコ(Tvrtko)やワラキア公ミルチャ(Mircea)らの支援を得つつ、コソボの平原で、ムラト一世のオスマン軍と戦った戦闘。
セルビアが敗北したが、その要因としては、西欧キリスト教諸国からの支援がなかったこと、バルカン半島諸国内部での封建社会の停滞性、政治的・宗教的分裂などがある。宗教的分裂とは、当時キリスト教から別れた異端派のボゴミール派(若干共産主義に似ていた)の活動がバルカン地方では盛んであった。
この戦いの後、セルビア、ブルガリア、マケドニアなど、ドナウ川以南の大部分がオスマン帝国支配下に入った。オスマン支配は、その農村政策や、宗教政策の面で、むしろバルカンの民衆にとって「解放」を意味する側面があった。また、レバント貿易の安定的再開をもたらし、経済面でも朗報であったという側面にも注意を向ける必要がある。
長々と『事典』から引用したり、コソボ紛争の最終局面は、ニュース記事(Google検索による)などからも追加情報を入れて、コソボの歴史をまとめてみました。
長い歴史を見渡すと、アルバニア人の祖先であるイリュリア人が、南下してきたスラヴ族のセルビア人によって、12世紀末にコソボから追い出され、アルバニアの地に逃げ、18世紀には再度戻ってきた、しかもオスマン帝国側にたつムスリムとして戻ってきた、という歴史が浮かび上がります。
もちろん、コソボに住んでいたセルビア人にとっては、コソボの戦い後、しばらくは、オスマン帝国の中で、比較的静穏な日々が続いていたはずですが、オスマン側がウィーン攻撃に失敗するなど、西欧との戦いで劣勢になり始めると、セルビア人の間ではオスマン帝国から逃れようという運動が起こって、ハンガリーに近い土地(ボイボディナ)まで集団移住して逃げ出した(17世紀末)のですから、セルビア人側も、ムスリム統治、アルバニア人軍人統治などに、やはり耐え難いほどの「圧政の屈辱」を感じたのかもしれません。そこの処は、十分な史料がないし、小生は基本的にはブルガリア歴史しか勉強していないので、きちんとした答えは出せません。ただし、民族紛争は、どっちもどっちと見るべき、相互の言い分は、ほぼ平行線を辿るということは、覚悟すべきで、どちらが正義とは言えないはず。
とはいえ、世界史では、どうしてもキリスト教徒の言い分が尊重されることが多い。むしろ上記のように、アルバニア人の方が、コソボの土地に関しては、歴史的思い入れも、執着も強かった、と見るべきでしょう。日本でも、コソボの地に残る修道院とか、宗教的聖地とかの関連で、セルビアびいき的な情報が氾濫しがちです。
また、アルバニア人の場合、ムスリムとはいえ、あまりベールもかむらないし、酒もバルカン半島ですから飲むし(トルコ人もそういえば、酒を飲むと思うけど)、外見的にも青い目、金髪などの純粋の白人的風貌が多いし、やはり特殊なムスリム達とも言える。もっとも、その社会は、部族社会として、極めて旧式という側面すらある。理解が難しい民族です。
独立後のアルバニア本国に関しても、ほとんどメディア報道が無く、どの程度経済的に改善されているのか、実はほとんど小生すら知らない。もっと色々報道して欲しいものです。
コソボの歴史を詳細に解説して頂き、有難うございました!バルカンの歴史は複雑ですが、コソボも長く複雑な歴史が続いたようですね。まずセルビア人が、先住民でアルバニア人の祖先とされるイリュリア人を追い出したけど、オスマン帝国時代には支配関係が逆転する。民族と宗教が複雑に入り混じるバルカンでは、このような歴史が繰り返されてきたのでしょうね。これだけ根深い民族対立があるなら、共存はまず難しく、民族自決に至るのも無理はない。
一般に私も含め日本人にユーゴはなじみの薄い国だし、チトーの死後、あっけなく崩壊した印象がありますが、彼の生前もかなり無理を重ねて連邦共和国を維持していたことが、やっと分かりかけました。冷戦時代、チトーの手腕を讃え、多様性のある国として讃える日本の知識人もいましたが、「多文化共生」など不可能な夢物語なのが、コソボの典型でしょう。
14世紀のコソボの戦いでは結局西欧キリスト教諸国からの支援が得られず、セルビアは敗北しましたが、20世紀末も同じことが繰り返されました。ロシアはセルビア寄りでしたが、介入はしなかった。NATO軍が空爆をしていた時、セルビアの老婦人がТVカメラに向かい、「私たちはキリスト教徒なのよ」と言っていたことを思い出しました。
オスマン帝国支配は圧政と搾取どころか、農村政策、宗教政策、経済面でもバルカンの民衆にはプラス面も大きかったそうですね。ただし、バルカン諸国の歴史教科書には、さぞ「悪の帝国」に描かれているかもしれません。アラブもそうですが、ブルの歴史教科書ではトルコは悪く描かれているはずですよね?
トルコ人は本国でも酒に寛容で知られています。国営ビール工場まであるし、オスマン皇帝の大半はアル中でした。だから臣下も盛大に飲んでおり、「トルコ人は堕落したムスリム」とそしるアラブ人もいます。まして、バルカンのトルコ系民族なら、もっと大っぴらですよね?
3年前のNHK仙台で、東北大のボスニアからの女子留学生のことを取り上げた番組がありました。彼女もムスリマ(イスラム女性)ですが、外見は紅毛碧眼の白人そのもので、ベールも被っていませんでした。
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/dc29b8b7cae6c418a67ed0ee480d4465
ユーゴさえ一般日本人にはなじみが薄く、ましてアルバニアとなればさらに分からないと思います。そしてアルバニアはバルカンの国にも関わらず、冷戦時代は鎖国さえしていましたね。国旗を見ると双頭の鷲が描かれており、かなりイスラム的でない。日本のマスコミでセルビアに偏った情報が見られたのも、元からキリスト教贔屓の背景があるのかもしれません。
幾つか思いつきで書き連ねます。また長くなってすみません。
1.対トルコ感情
ブルガリアの教科書で、どの程度トルコのことを悪く書いているか?案外難しい問題です。小生が読む限り、オスマン支配時代に関しては、その当時の専門家が書いていて、当然というか、トルコ語、ギリシャ語などの文献も読める人々が書いているせいか、一部日本の隣国のように滅茶な捏造歴史はないように思います。
むしろ、歴史の教師とか、普通のインテリとかが、何故ブルガリアが欧州の後進国となったのか、それを説明する際に、手っ取り早く、全ては長すぎたトルコの圧政のせいだ、と口で教えているとか、共産主義政権時代に、上手く経済成長できないのも全てをトルコのせいにして、責任転嫁する議論が増えたというか、そういう口先の議論として、トルコの悪口が多かったと言えます。
ブル人市民とたわいない会話をすると、トルコ人が全て奪ったから我が国は貧しい、美人も全てさらっていったからブスしか残っていないとか言いながら、他方で、昔は我が家柄は、大地主でワインも製造して売っていたとか、曾祖父の時代は、商人としてイスタンブールに支店を持っていたとか、オスマン時代には裕福だったという自慢話になったりして、支離滅裂というか!
しかし、学問的には、さほど極端な歴史の捏造は成されていないように思う。何しろ、オスマン帝国時代に、結構経済的には、自作農が育ち、手工業分野、商業分野でブルジョア的な成功例も多かったし、そういう過去のオスマン時代の経済成長につき、教科書でも言及している。だから、必ずしもオスマン時代を悲惨な時代とばかりは主張できません。むしろ、前にも書いたけど、独立後に、オスマン帝国の、北アフリカ、小アジア半島、シリア方面などの広域市場を失って、ブルの絨毯工業、バラ油(香水原料)産業、オスマン軍へ納品していた軍服業、トルコ服の帯製造業、短刀製造業、なども倒産したりして、ブルガリアの手工業部門が大打撃を受けたのです。このことも教科書に書いてある。
それに、2回にわたるバルカン戦争のせいで、領土的に大損したので、怨恨感情は、むしろ隣国のセルビア、ルーマニア、ギリシャに対して厳しくなり、トルコに対してはそれほど悪くもない、という密かな国民感情(必ずしも大きな声で、何時も主張されはしなかった)はあったように思う。
国内のトルコ系も、80年代に悪者にされたけど、それまでは、ポマック、ロマ達と同様に差別対象で、気の毒ではあったけど、トルコ人への敵意というほどではなかったように思う。ギリシャでは、トルコ・コーヒーと呼ばず、グリーク・コーヒーと呼ぶほど、トルコへの怨恨感情があったけど、それはキプロス問題のせいもある。ブルでは、トルコとの領土問題も深刻ではなく、「トルコ・コーヒー」と平気で呼んでいた。
とはいえ、オスマン帝国の封建体制が長すぎて、オスマン・トルコは西欧より遅れた、そのせいで、自分たちも西欧より後れをとることとなった、という感覚で、トルコを後進国と見なすという、差別感情は強かった。
自由化後は、トルコが安い観光地として脚光を浴びていて、結構大勢のブル人が出かけているはずです。食べ物、風俗など、よく知った相手ですし、特に食べ物では、トルコの方がバルカン料理の本国で、良質のものが安いから、ブル人なら大いに楽しめるはずです。
2.アルバニアの「鎖国」
アルバニアは、ホッジャという独裁者が長く政権を独裁していて、最初はスターリン主義者として政権を取ったし、政権奪取の戦いにおいては、ユーゴ共産党(チトー)の支援も得たのですが、チトーがモスクワと対立すると、すぐにユーゴとの関係を切り、更に、ソ連でスターリンが死亡し、フルシチョフがスターリン批判をはじめると、激怒してソ連とも断交します。ソ連と断交後は、毛沢東の中国と手を組み、バルカン半島における親中政権という、不思議な様相となりました。
こちこちのスターリン主義的共産主義をずっと貫き、中国からの経済援助のみに頼り、米国と仲良くするユーゴを警戒して、反米主義宣伝をずっと国内でやっていました(米国は、小国として相手にもしませんでした)。
中国からは、工業面でも支援を受けていたようですが、我々在ブルガリア在住者が喜んだのが、中国が支援して、アルバニアで植えた柿の木から収穫され、輸出された柿の実が、クリスマス時期にブルにも大量輸入されたこと。冬の果物が、リンゴくらいしかないところに、渋柿が安値で大量に売られます。我が家では、5kg、10kgと、何度か大量に買い込み、ヘタの処をウォッカに漬けて、それから数個まとめてビニール袋に入れ、室内暖房の温水ラジエーターの上の板の上にのせておきます。2--3日で発酵が進み、甘くなります(この段階では、まだ実は堅く、普通の甘柿のように食べられます)。その後は、ラジエーターから下ろして、涼しいところに置き換えますが、5--6日目頃には、熟して皮の中身がどろどろに崩れ、甘みが更に増した、あまーい柿を楽しめました。
脱線してしまいましたが、我々がアルバニアへの中国援助で得したと思ったのは、柿くらいですから。
ともかく、ホッジャという偏執狂的な、北朝鮮の独裁者そっくりの人物が、「鎖国」体制を敷いて、外国との接触をほぼ無くし、国民には、それこそもっとも貧しい共産主義国という状態を作り出していました。中国が、ニクソンを受け容れて、対米友好路線が始まると、中国とすら喧嘩別れ状態となり、援助してくれる国は皆無となり、益々貧しくなった。ホッジャは共産主義者ですから、もちろんイスラム教も弾圧され、無神論だったはずです。アルバニア大使館員の小生の知人は、アル中でした。
3.コソボのアルバニア人
コソボのアルバニア人の間では、もちろん「大アルバニア主義」の感情があり、ユーゴ連邦の中で、人口数が少なくとも150万人(或いは、200万人)もいて、少数民族とも言えないほどのアルバニア人が、何故他の主要民族同様の、「共和国」の資格を得られないのか、それが大きな憤慨の元であった。アルバニア人主体の、「コソボ共和国」として、他の主要民族と対等の権利が与えられるべき、というのは、社会主義のユーゴ時代も、正論でした。しかし、ユーゴで、「共和国」の資格を与えられ得たのは、結局、南スラヴ族と見なしうる、スロベニア、クロアチア、セルビア、ボスニア、マケドニアの5民族のみで、隣国アルバニアと同じアルバニア人には、「共和国」を認可するわけにはいかない、という論理も、まあ分からないわけではない。
また、コソボのアルバニア人にしても、貧しすぎて、更に、既に親戚もあまりいない、本国アルバニア人と合体して、一つの国になるという、大アルバニア主義の正統なやり方には、必ずしも多くの市民が賛成なのかどうか、疑問でもあります。もちろん、本国の経済水準も、徐々に改善されていけば、海港を持てるという利点からも、合併の可能性はゼロではないとも思いますが。
なお、大アルバニア主義の立場からは、マケドニアの西部地域のアルバニア人地区も、合併の際には、残しておきたくない部分です(一緒に合併したいはず)。
他方、アルバニア人の多数が、ムスリムであるということ、貧しすぎると言うことは、EUへの加盟の大きな障害であり、今後ともアルバニアは、欧州における孤児のような存在であり続ける可能性が大きいと思う。
ブルでの対トルコ感情の詳しい解説を有難うございました!拝読致しましたが、日本の一部隣国のような歴史捏造はさほどないようですね。それでもてっとり早く安易にトルコに責任転嫁するらしく、トルコの悪口を並べることになった。これもアラブに似ています。トルコの歴史教科書で、アラブやバルカン諸国をどう描いているのか不明ですが、こちらも結構「悪口」を書いていたりして。トルコでは何しろ「アラブの反乱」を「アラブの裏切り」と呼んでいるそうです。「アラビアのロレンス」は「英国の密偵ロレンス」だし、この表現だけでトルコ人の感情が知れますね。
オスマン帝国時代のアラブ人神学者など、イスタンブールで「エフンディ」として重んじられていたし、大モスクに務める知識人層でもあったのです。隣国ペルシアがシーア派化すると、ペルシア人学者よりアラブ人を招へいしたりもしていますが、アラブ民族主義からすればそれも近代化を阻害した原因とされるのでしょうね。
アルバニアの独裁者ホッジャの名はエンヴェル、この名からしてムスリムの家系ですが、無神国家を宣言し、徹底して宗教を弾圧した人物でしたね。ホッジャのような人物が支配したアルバニアも興味深いですが、バルカン型支配者としては異質でしょうか?ジフコフも強権的な支配体制だったし、バルカンには独裁型指導者が生まれる風土がある?
貴方の柿のエピソードは面白かったです。ブルはともかく、欧州には柿の木は少ないのでしょうか?wikiで見たら、柿は東アジアの固有種と書かれていました。
コソボのアルバニア人が必ずしも本国アルバニアとの統合を望んでいるか疑問、というのは意外でした。経済が改善されれば、また状況は違ってくるでしょうね。欧州でもムスリムの民族はアルバニア人くらいだから、「大アルバニア」となったところで、EUへの加盟は難しいし、またも孤立主義を貫く?
オスマン帝国から独立後のバルカン半島の歴史では、基本的にどこの国でも、指導者は独裁型、ワンマン型です。
オスマン時代に、イスタンブールのスルタン、或いは、宰相が独裁的に全てを裁断していたように、国家の指導者たるもの、全てを自分の判断でやる、と言うスタイルになるのかなーーと想像するのですが。
ブル人に言わせると、個人としての英才は輩出するけど、チームプレーというのは苦手、と言うのが国民性に関する自己診断でした。他人の意見に耳を貸さない、自分の意見に固執する、自分の才能に自信を持って、力づくでもやり抜く・・・こういうタイプの指導者が多いのです。いやバルカンでは、ほとんどの個人が、そもそもそういうタイプに見えます。
そういえば、前にも書いたような気もするけど、ブルガリアのVarna市(黒海沿岸の港町)で、自由化後に勃興した新興財閥のTIMグループは、TIM=teamと主張し(ほんとうは、主要ボスの頭文字がTIMと噂されているが、対外説明はteamとしてグループを運営するから)、数名のボスがそれぞれの分野を分けて担当し、企業群を共同経営する、また自分らの妻達にも、会社の経営権を与えて、多数の会社を「連邦経営」する、と言うスタイルの珍しいグループだった。おかげで、ボスが複数いるので、一人を消しても、何の影響もないから、グループが壊滅することはあり得ない、と言う、ヤクザ社会の中では、突出して有利なグループだった(今も存続)。
自由化後のブルガリアでは、ロシアとか、他の東欧と同じく、国営企業の民営化とか、色々の形で、法律の隙間をついて、マフィア企業が誕生したのですが、TIMの場合は、ボスを暗殺する、或いは誘拐するという、そういう普通のヤクザ手法が効かない、チームプレーで、しかも女性の才能まで動員して、高度成長し、首都ソフィアにも大きな事務所を構え、銀行、保険会社、航空企業、ワイン工場、農産物販売企業、ラジオ局、テレビ局などなど、財閥として多数の企業を抱えていました。
彼らのチーム精神は、主要ボス達が、元海軍特殊部隊(一種の海兵隊)所属の「極真空手」道場の空手の猛者達、という、共通点を持ち、友人・仲間として、団結心が強かったことが、商売でも役立ちました。(日本の極真空手の技術を、欧米で出版された解説書などで、自己流に勉強して、教えた特殊部隊の先生がいたそうです)。
もちろん、自由化後の、ブルのマフィア・ボス、新興企業の経営者達の多くが、元来格闘技系のマッチョ達(怖い顔の人々=ムトリ)が、まず暴力団として「起業」して、それからビジネスマンとしても成功していったという、共通点を持ちます。スポーツ系のマッチョ達は、社会主義時代には、軍人、警察官、などの「公務員」でしかなかったのですが、自由化後は、混乱期に、腕力で問題を解決しつつ、金を稼ぎ、レストラン、観光施設、国営企業、などを乗っ取って、ビジネスマンとなっていったのです。スポーツ系のマッチョ達こそは、ある程度チームプレーが出来たとも言える。序列が初めからはっきりあるし、友情もあるし、彼らの間にしか、チームプレーなど無かったと言えるのかも。とはいえ、TIMのように集団指導体制をきちんと組織化したグループは、他にはありません。
なお、現在のボリーソフ首相も、警察官→暴力団→警備会社社長→内務省官房長→政治家→首相という経歴で、まさにスポーツ系マッチョの典型の一人なのです。彼も、カリスマ的な独裁者タイプといえるでしょう。
柿に関しては、西欧では渋柿ではない、甘柿も商店で売られています。しかし、20年ほど前から、売られてはいるのですが、どこの国で生産しているのか??もちろん、日本から種が入ったことは確実です。
ブル語では、rayski yabqlki=天国のリンゴと呼ばれていましたが、普通の欧州ではカキ=kakiと日本語で呼ばれているから、日本から種を入れて、どこかで生産しているのでしょう。サツマと呼ばれる、温州ミカンは、日本から種がスペイン、およびトルコ、ギリシャなどにもたらされて、これらの国で栽培、生産しているらしいし、kakiもどうやらトルコなどでも生産されているようです。
ただし、英国のスーパーで売られていたkakiに関しては、リンゴのFujiとともに、中国からの輸入品という感じでもあった。
やはり4世紀に亘るオスマン帝国の支配の影響もあり、バルカンの支配者は総じて独裁型、ワンマン型だったのですね。たとえトルコが支配せずとも、独裁型指導者が生まれる風土があったのかもしれません。さらにバルカン気質として、「個人としての英才は輩出するけど、チームプレーというのは苦手」「他人の意見に耳を貸さない、自分の意見に固執する、自分の才能に自信を持って、力づくでもやり抜く」…
これって、日本人とは正反対ですよね。良くも悪くも日本人は協調性が重んじられ、「和の精神」が第一です。バルカンの人々が上記のような気質を有しているならば、日本人としてはかなり付き合いにくいタイプとなるでしょう。日本人よりも我の強いはずの西欧人でも苦手かもしれません。
そんなブルの中で、新興財閥TIMグループは異色のようです。元海軍特殊部隊上りということもあり、これは一種のエリートですよね?日本の極真空手の技術が使われたとは、日本人としては喜ぶべきか、、、
自由化後のロシアや東欧圏ではマフィア系企業や財閥が台頭しました。頭と腕のたつ連中にはわが世の春ですが、そうでない一般市民が秩序のあった共産主義時代を懐かしむのも、無理もないかもしれません。
ブルの現首相ボリーソフの経歴もスゴイ。混乱期には才能があり気を見るに敏な人物がのし上がりますが、日本も含め欧米諸国ならこのタイプの政治家はまずトップにはなれない。今の混迷した日本の政界を見ると、ボリーソフのようなカリスマ的独裁者が少し羨ましく感じられます(笑)。