その①、その②、その③、その④の続き
宗教の根幹になるものは何か?ズハリ言えばご利益であり、それがあってこそ宗教が成り立つのだ。こんなことは大学で宗教学や歴史学を学んでも教官は言わないし、耳障りのよいことを並べる宗教学者なら、まず口にもしないだろう。ご利益は何も出世や富、健康、良縁の類の現世利益に止まらず、来世、つまり死後の世界での利益の期待があってこそである。何時の時代も不幸な人間は絶えず、この世ではまるで報われぬ生涯をおくった者でも、死後は天国で安らかな暮らしが保証される利益(幻想)にありつこうとする。俗に英雄を必要とする国は不幸と言われるが、宗教を必要とする者もまた不幸なのだ。不幸な人間ほど宗教にすがるのも、現世では頼る人間もないため神頼みをする外なく、それが狂信に繋がる。
様々な迫害を受けても己の信仰を捨てぬ宗派の人々には私も感心するが、彼らもまた死後の“ご利益”、つまり天国入りの特等席を目指す点では変わりない。棄教はそれまでの功徳が全て帳消しとなる恐怖もあり、宗教が自らのアイデンティティーとなった者に僧侶も信徒という扶養人を確保するため、手段を選ばない。
「ローマ帝国の国教となったキリスト教の本質」という見事なブログ記事がある。また、「キリスト教は貧困ビジネス」と喝破したブロガーの視点も鋭い。「人々の不幸を取り除くことは、教会のもっとも深い利益に反することだった。というのは、教会は不幸を食い物にしてきたからである。それどころか、教会は不幸を創造してきた。自己を永遠ならしむるために…」の指摘にも唸らせられた。仏教学者・ひろさちや氏は「インチキ宗教が多数の信者を獲得するセールスポイントは貧・病・争の三本柱」だと言われたが、カルトに限らずどの宗教も如何わしい面がある。人種や文化圏は違っても経済や健康、人間関係に恵まれた人ならば、さほど宗教を必要としないのだ。
拙ブログにもカトリックを自称する「パウロ」氏が興味深いコメントをされていた。氏は自分を「以前から、マザー・テレサの施設でのボランティア経験について披露する知人たちの話に欺瞞を感じてしまう人間」と言い、「考えるにマザーは良心あるシスターの面と、経営者としての狡猾な面と清濁併せ持ったすぐれたベンチャービジネスの先駆者のような方だったのでは?と思います」と書く。そして、カトリック内部の諸問題を指摘した後、次のように述べた。
-今では、創世記を信じている信者やシスターはほとんどいないし、信じないと救われないと思っている人も少ないと思います。聖書講座でもそういう思想を教えたり強制はしないんですよ。教会にもよりますが。「信じるものは救われる」という教義は、そういうことにしとかないと信者が増えないから仕方ないんでしょうね。商売と同じだと思います。
自分はキリスト教徒でもそのシンパでもないと自称する者に対し、率直にカトリック内部の問題を認めた「パウロ」氏のコメントは、とても好感を覚えた。何もカトリックに限らずどの宗教も問題を抱えており、生臭坊主でない日本の仏教僧など皆無に近いではないか。妻帯肉食で飽き足らず、愛人まで持ち、海外旅行をする破廉恥坊主もいる。
「パウロ」氏は「自分は狂信的に神を信じて、負の面を見ない人間にはなりたくない」と言われる。クリスチャンの意思表明としては立派だが、残念ながらそのような信者ばかりではない。宗教組織も巨大化すればビジネスが最優先され、信者への締め付けと資金を求めて布教活動に血道をあげるようになるのだ。
「ヴァチカンの大罪「暴食」その1」「ヴァチカンの大罪「暴食」その2」という、イタリア在住の日本女性ブロガーの素晴らしい記事がある。歴代法王たちの暴飲暴食ぶりが詳しく紹介されており、現代のグルメ真っ青の健啖さ。初期は質素だったと思いきや、「教会内で行われる宴の豪奢は、皇帝の宮殿内のそれをしのいでいる」と、4世紀の法王庁についての記録もある。中世では権力者に愛された女たちが主催する宴会も多く、美女と美食を満喫していたのだからスゴイ。
昨年、拙ブログに「村社会と街のペテン師」のタイトルでのコメントがあり、「ユウスケ」氏は「儒教もキリスト教も都市部の金持ち学者が田舎者に信じこませて発展・拡大させてきたわけで、本質的には街のペテン師と変わらない」と皮肉げに述べている。イスラムや仏教も同様に発展・拡大してきた。だから、ペテンに気付き抜けようとする者を許さない。
昨年秋頃、ネット検索をしていたら「ここがヘンだよキリスト教」というブログがヒットした。管理人は訳あってプロテスタントを棄教した女性で、キリスト教への反論や批判を記事にしている。その「反響の多さに驚いています」での一文、「私のブログを批評なさる方へ。私のブログが幼稚だとか内容が薄いとかいろいろ書いてくださるのは結構ですが…」からも、クリスチャンからかなり非難を受けていることが知れる。宗教とは入信するのは容易だが、脱会がいかに難しいか、浮かび上がってくるではないか。
その⑥に続く
◆関連記事:「マグダレンの祈り」
「ある神父の私生活」
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宗教の根幹になるものは何か?ズハリ言えばご利益であり、それがあってこそ宗教が成り立つのだ。こんなことは大学で宗教学や歴史学を学んでも教官は言わないし、耳障りのよいことを並べる宗教学者なら、まず口にもしないだろう。ご利益は何も出世や富、健康、良縁の類の現世利益に止まらず、来世、つまり死後の世界での利益の期待があってこそである。何時の時代も不幸な人間は絶えず、この世ではまるで報われぬ生涯をおくった者でも、死後は天国で安らかな暮らしが保証される利益(幻想)にありつこうとする。俗に英雄を必要とする国は不幸と言われるが、宗教を必要とする者もまた不幸なのだ。不幸な人間ほど宗教にすがるのも、現世では頼る人間もないため神頼みをする外なく、それが狂信に繋がる。
様々な迫害を受けても己の信仰を捨てぬ宗派の人々には私も感心するが、彼らもまた死後の“ご利益”、つまり天国入りの特等席を目指す点では変わりない。棄教はそれまでの功徳が全て帳消しとなる恐怖もあり、宗教が自らのアイデンティティーとなった者に僧侶も信徒という扶養人を確保するため、手段を選ばない。
「ローマ帝国の国教となったキリスト教の本質」という見事なブログ記事がある。また、「キリスト教は貧困ビジネス」と喝破したブロガーの視点も鋭い。「人々の不幸を取り除くことは、教会のもっとも深い利益に反することだった。というのは、教会は不幸を食い物にしてきたからである。それどころか、教会は不幸を創造してきた。自己を永遠ならしむるために…」の指摘にも唸らせられた。仏教学者・ひろさちや氏は「インチキ宗教が多数の信者を獲得するセールスポイントは貧・病・争の三本柱」だと言われたが、カルトに限らずどの宗教も如何わしい面がある。人種や文化圏は違っても経済や健康、人間関係に恵まれた人ならば、さほど宗教を必要としないのだ。
拙ブログにもカトリックを自称する「パウロ」氏が興味深いコメントをされていた。氏は自分を「以前から、マザー・テレサの施設でのボランティア経験について披露する知人たちの話に欺瞞を感じてしまう人間」と言い、「考えるにマザーは良心あるシスターの面と、経営者としての狡猾な面と清濁併せ持ったすぐれたベンチャービジネスの先駆者のような方だったのでは?と思います」と書く。そして、カトリック内部の諸問題を指摘した後、次のように述べた。
-今では、創世記を信じている信者やシスターはほとんどいないし、信じないと救われないと思っている人も少ないと思います。聖書講座でもそういう思想を教えたり強制はしないんですよ。教会にもよりますが。「信じるものは救われる」という教義は、そういうことにしとかないと信者が増えないから仕方ないんでしょうね。商売と同じだと思います。
自分はキリスト教徒でもそのシンパでもないと自称する者に対し、率直にカトリック内部の問題を認めた「パウロ」氏のコメントは、とても好感を覚えた。何もカトリックに限らずどの宗教も問題を抱えており、生臭坊主でない日本の仏教僧など皆無に近いではないか。妻帯肉食で飽き足らず、愛人まで持ち、海外旅行をする破廉恥坊主もいる。
「パウロ」氏は「自分は狂信的に神を信じて、負の面を見ない人間にはなりたくない」と言われる。クリスチャンの意思表明としては立派だが、残念ながらそのような信者ばかりではない。宗教組織も巨大化すればビジネスが最優先され、信者への締め付けと資金を求めて布教活動に血道をあげるようになるのだ。
「ヴァチカンの大罪「暴食」その1」「ヴァチカンの大罪「暴食」その2」という、イタリア在住の日本女性ブロガーの素晴らしい記事がある。歴代法王たちの暴飲暴食ぶりが詳しく紹介されており、現代のグルメ真っ青の健啖さ。初期は質素だったと思いきや、「教会内で行われる宴の豪奢は、皇帝の宮殿内のそれをしのいでいる」と、4世紀の法王庁についての記録もある。中世では権力者に愛された女たちが主催する宴会も多く、美女と美食を満喫していたのだからスゴイ。
昨年、拙ブログに「村社会と街のペテン師」のタイトルでのコメントがあり、「ユウスケ」氏は「儒教もキリスト教も都市部の金持ち学者が田舎者に信じこませて発展・拡大させてきたわけで、本質的には街のペテン師と変わらない」と皮肉げに述べている。イスラムや仏教も同様に発展・拡大してきた。だから、ペテンに気付き抜けようとする者を許さない。
昨年秋頃、ネット検索をしていたら「ここがヘンだよキリスト教」というブログがヒットした。管理人は訳あってプロテスタントを棄教した女性で、キリスト教への反論や批判を記事にしている。その「反響の多さに驚いています」での一文、「私のブログを批評なさる方へ。私のブログが幼稚だとか内容が薄いとかいろいろ書いてくださるのは結構ですが…」からも、クリスチャンからかなり非難を受けていることが知れる。宗教とは入信するのは容易だが、脱会がいかに難しいか、浮かび上がってくるではないか。
その⑥に続く
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mugi さんはどう思われますか?
キリスト教とは関係ないですが「浅薄な利他と同情とは最も徳の賊(ぞく)である。」と安岡正篤という人も言ってるようです。
暴食の記事を読みましたが、胸焼けがする程のご馳走の山でしたね(笑)。日本人だから余計そう感じるのでしょうが、あんな豪華な食事とは縁のない私でさえ、年末年始の「暴食」で胃がおかしくなったのに、あんな食事をしたら一回も持たずに体調が狂いそうです。「教会の腐敗が宗教改革に繋がった」と言う抽象的な内容より、このような記事の方が遥かに実感が湧きます。ヴァチカンの贅沢も芸術を生んだのですべて否定できませんが、日本の支配層など非常に質素だと思わされました。枢機卿が堂々と愛人を宴会に出していた辺り、真剣に神の教えを信じるのが馬鹿らしくなりますね。
以前ボッカチオのデカメロンで、誠実なユダヤ人があまりの教会の腐敗ぶりを目撃し「神がキリスト教の側にいるので、堕落した連中がいてもキリスト教が繁栄する」と言う結論に達して改宗する、と言う皮肉な話を読みましたが、イタリア人もどうしようもなかったのでしょう。
>>「キリスト教は貧困ビジネス」
趣旨から外れますが、以前社○党が関東である問題の人権センターを建設して勢力拡大をしようとしたのですが、関西とは異なり、関東ではその問題がそもそも存在しないので失敗したそうです。全く問題のないところに問題を作り出して争いの種を蒔く、そして人権を連呼し自分たちの利益を図る、本当に「サヨク」にとっては人間の悩みは自分たちの利益向上でしかないのがよく分かる話でした。だから、あの手の活動に対して警戒感が先立つようになってます。本当に問題解決を図ろうとする真面目な人達が一番気の毒です。
アメリカのメガチャーチの教義のことは初めて知りました。他宗教同様、キリスト教も色々な宗派があって面白いですね。私も禁欲ばかり説く宗教にはウンザリさせられますし、そのような非人間的戒律を求める聖職者も、裏では何をやっているのやら。上記でも紹介した「ヴァチカンの大罪「暴食」その1」にもありますが、異端裁判で悪名高いパオロ四世など暴飲暴食の虜だったとか。
資本主義を肯定、礼賛しても、全員が裕福にはなれませんが、自分自身を変えて生産的になり幸福をつかむ教えには私も賛成します。所詮、金持ちやお人よしにタカるばかりの、偽善的教会よりはマシかも。
安岡正篤の言葉も初めて知りましたが、これも納得させられました。安易に罪の言葉を使う者に限り、自らは何もせず、他人の懐を当てにする。
私も暴食の記事を見て、初めて王侯貴族顔負けのバチカンの豪勢な生活ぶりを知りました。ただ、あれほどの贅沢さゆえにイタリア料理が発達した…とも考えられますが、聖職者の酒池肉林生活は異教徒の日本人から見ても、ただ呆れるばかりです。アレでは宗教改革を起したくなる気持も分かりますが、「宗教は賢い者は利用し、愚かな者は信じる」という西欧の諺が実感できました。
私はデカメロンは未見ですが、ユダヤ人のエピソードは面白いですね。先日見たイタリア映画「副王家の一族」にも、修道院の腐敗堕落が描かれていました。
「サヨク」もキリスト教の流れを組んでいるから、貧困ビジネスとしての発想や行動は宗教団体とかなり似ている。先日、町を歩いていたら、「時給千円以上に!最低賃金の大幅引き上げを」と書かれた生協労連のポケット・ティッシュが配られていました。裏を見ると、「平和がいちばん!生かそう9条、憲法9条は日本と世界の宝」と印刷されており、消費者金融並みに生協労連は儲かるのか、皮肉な目で見ました。この手の活動もまた「貧困ビジネス」の典型であり、街頭でがなり立てるのも、目的は自分たちの組織の利益誘導なのは、分かりますよ。
ちなみに、共産党の9条護持は口だけで、政権を奪取後は武装する、戦後直後は9条に反対していたとも聞きますので、彼らの姿勢は「愚民」を誑かすだけの手段だと思ってます。
護憲派に限り、大抵は親特アですからね。アメリカの核は反対でも中露のそれには何も言わない。井上ひさしなど護憲派の平和活動家として、時々河北新報にも取り上げられています。しかし、この地元紙は井上のDVについては全く触れてない。「サヨク」が国外で“宣教”しないのも、他国では全く受け入れられないのを熟知しているからでしょう。
日本の共産党は政権を奪取する気概が果たしてあるのでしょうか?何でも反対で評論家ゴッコしていれば楽だし、議員手当てももらえますから。