その一の続き
“共産主義の脅威”を訴えられても現代の若い方は実感が湧かないだろうが、冷戦時代の西側陣営にとっては深刻な問題だった。意外なことに中東諸国でもインテリ層の間では社会主義運動は盛んだったし、イランでもシーア派社会主義が生まれている。
尤も英国が米国に“共産主義の脅威”を強調しても、後者はタダで火中の栗を拾うつもりはなく、米国はアングロ・イラニアン石油会社が所有する石油利権の40%を要求、英国もそれを受け入れた。これ以降、英国のイランに対する影響力は低下し、米国が本格的に台頭するようになる。
米国はモサッデク政権転覆を実行するため、本格的にエイジャックス作戦を進めていく。駐イラン米国大使館が作戦の場となり、先ず世論工作に着手する。政権弱体化のためメディアや宣伝ビラ、イスラム主義者まで動員した反モサッデク・キャンペーンを行った。駐イラン米国大使館にはルーズベルトの孫も、10万ドルを持って訪れていたという。
イラン米国大使館からはパーレビ国王宛の電報も送信され、その中には英国女王の懸念を伝えるメッセージがあったのだ。英国女王はイラン国王が国外脱出せず、自国に留まるようにほのめかす内容だった。その結果パーレビ国王は亡命を思いとどまる。世界で最も有名な君主からの忠告が、イラン国王に与えた影響は想像に難くない。でっち上げの電報を送ることなど、英米の工作機関にはお手の物だから。
モサッデクも支持基盤は盤石とは言えなかった。近代化を進めたのは反宗教的と見なされ、石油国有化政策も国際石油資本のボイコットを受け、経済面でも追い込まれ、国民から不平不満が高まっていた。このような背景があり、反政府の機運が出てくる。
1953年8月19日、パーレビ国王の支持勢力による大規模な反政府デモが行われた。イラン陸軍も国王側につき、同日夜にはモサッデク政権の要人は監禁されるか逃走する。ついに政権は崩壊、モサッデクは失脚する。
この政変後、モサッデクは逮捕され裁判にかけられる。判決は死刑だったが執行はされず、以降死ぬまで自宅軟禁された。番組では裁判時の映像が映されていたが、不当極まる裁判への怒りを露わにしていたのは印象的だった。
クーデターには成功したものの、この出来事はイランの改革派、保守派共に米国への強い不信感を抱く要因になった。イラン国民はこのクーデターをアメリカの二重基準の象徴とみなしているという。そしてイランの政治家や宗教指導者はこのクーデターを、反米感情を高める材料に利用しているのは言うまでもない。
1979年11月、イランアメリカ大使館人質事件が起きたのも、1953年のクーデターの延長にある。この事件もまた米国民によるイランへの遺恨を遺すことになり、現代に至るまでのイラン敵視に繋がっている。米国は今でも大使館人質事件の報復の機会を待っているかもしれない。
とかく独裁者と非難されるパーレビ国王だが、白色革命を行ったことは評価してよい。ただ、白色革命は挫折、返って国内は混乱に陥る。特に農地改革は宗教関係者が反国王側に結集する要因となった。宗教関係者にはモスク領というべき宗教関連の土地を所有する大地主もいて、このような宗教関係者は実質的な封建領主でもあった。
パーレビは十数年にわたりモスク領の小作人の自作農化を進めたが、宗教関係者ばかりか、当の小作人からも「神を恐れぬ行為」として反政府運動に発展したのは皮肉としか言いようがない。同様に長年の女性開放政策も、大半の女性たちから「神への挑戦」だと受け取られたのだ。宗教が全てのイスラム社会と日本や欧米とは、やはり社会観がかなり違うようだ。
アメリカの二重基準はよく非難の対象となる。しかし、それを非難する中東諸国もまたダブルスタンダードでは劣らない。ダブルどころかトリプルくらいあるかも。中露に至っては二重、三十基準は意に介さず弁明さえしない。
1953年のエイジャックス作戦は大掛かりだったが、膨大な石油利権が絡んでいたことが大きい。もしイランが産油国でなかったならば、白色革命もイラン革命もなかった可能性がある。
大国、小国問わず国益のためには二重基準や謀略を駆使するのが国際政治だし、発覚しないだけで他国が関与していたクーデターは他にもあったことだろう。