先日、1982年制作の映画『ガンジー』をまた見た。この作品については2005年8月4日付でも記事にしており、再び書きたくなった。この作品を見たのはこれで3度目だが、見る毎に新たな発見がある。今回はガンディーの偉業よりも彼を取り巻く人物や出来事の方に興味があった。特に関心があったのはインド初代首相となるネルー。他にパテル、ジンナー(パキスタン建国の父)もよく似た風貌の役者が演じていた。
意外だったのは、映画は1948年1月30日から始まっていたこと。ガンディーの死の日であり、南アフリカ時代はその後だった。彼の最後の言葉「へー・ラーマ」(おお、神よ)は有名だが、英語版だったため、「オー、ゴッド」となっていたのは残念。死の前年の誕生日に際し、ガンディーは次の言葉を述べており、神はその願いを聞き入れたかのように。
―ヒンドゥーとでも、ムスリムとでも自称しようが、野蛮人に成り下った人間による殺戮の、無力な目撃者になるよりも、この『涙の谷間』から連れ去ってくれるように、全能の神の助けを祈願する。
暗殺を決行する前のナトゥーラム・ゴードセーの表情がよかった。日本の歴史書では一般に狂信的ヒンドゥー教徒の青年と表現されているが、ゴードセーは彼独りで考え実行したのではなかった。民族義勇団(略称:RSS)に属しており、ガンディーを憎悪、殺害したいと考えていたヒンドゥー至上主義者は他にも大勢いたのだ。暗殺直前、ゴードセーは離れた所にいた年配者の顔を見て、後者は頷く。それが“ゴーサイン”だった。
インド最後の総督マウントバッテンは、ガンディー暗殺犯がヒンドゥーと聞き安堵したそうだ。犯人がムスリムだったなら各地での宗教対立の収拾がつかなくなるためである。RSSはガンディー暗殺直後非合法化されたが、翌年早々と撤回されており、21世紀にも続くインドの複雑な宗教事情がこれだけでも分かりそうではないか。ガンディーは殺されるべくして殺されたと言った人がいたが、私も同感である。
南アフリカから帰国後、ガンディーが初めてネルーを知るシーンは印象的。あの若者は?と問う彼に、「ネルーの息子だ。母親からの美貌と、悪漢の魅力を備えている」と国民会議派幹部(パテルだったか?)が答えている。ネルーの父モティラルも弁護士で独立運動家だった。バラモンカーストだが、は父はムスリムとの協調、融和路線をとっていた。そのため教条的ヒンドゥーからは「ムスリムと共に牛を食べた」「牛食い」という中傷を浴びせられたこともある。もちろんデマだが、バラモンにとっては大変な侮辱に当たる言葉なのだ。
ガンディーが最後まで反対した印パ分離独立。その前後、凄まじい宗教暴動がインド全土に吹き荒れる。映画でもその様子は映されており、避難しようとする若い母親や女性が車から引きずり出されるシーンがあった。それ以降は描かれていないが、彼女らは確実に殺害されていただろう。宗教暴動時、ヒンドゥー、ムスリム共に母の目の前で子を、子の目の当たりで母を虐殺しあったのだ。
この時の騒動は印パ両国の多くの作家によって描かれ、“動乱文学”というジャンルになっている。私も何冊か読んでおり、関連記事にリンクを貼った。ただ、どれも重いテーマばかりで決して楽しい読み物ではない。「中東世界では日本的な安っぽいヒューマニズムは通用しない」と言ったトルコ史研究家がいたが、インド亜大陸も全く同じなのだ。
インド独立時についてネルーは晩年こう記している。動乱の引き金を引いた張本人でもあるが、民衆の多くが分離独立を支持したのは事実なのだ。
―恐怖と憎しみが我々の精神を盲目にし、文明が課すべき全ての抑制が押し流された。恐怖が恐怖を生み、突然の空虚感が我々人間の残虐な野蛮性を捉えた。光という光が消えうせたように思えた。
しかし、全てではない。何故なら荒れ狂う嵐のなかではいくつかの光が弱々しく揺らいでいた。我々は死者と死にゆく者を、そして死者の苦悩を上回る苦悩を抱えた者を悼んだ。我々はそれ以上にインド、我々の共通の母、その開放のために何年もの間辛苦してきた、インドを悼んだ。
その二に続く
◆関連記事:「タマス―暗黒―」
「文学から見た現代インド」
「グルムク・スィングの遺言」
「多文化共生不能物語」
「書かれなかった叙事詩」
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印パ独立分離ということは、インドとパキスタンは元々一つの国だったということですか?
多神教文化であっても争いと無関係というわけには行かないのですね。考えてみれば日本でも内戦の繰り返しだったわけでものね。
インド知識人は欧米にはガンディー、東洋人には釈迦を持ち出して平和な国とアピールしたがりますが、国は広大で多民族、多宗教国家ゆえ波乱の歴史でした。
中国と違いインドは全土を統一する王朝というものが、殆どありませんでした。これは地形の複雑さもあり、地方ごとに王朝がある状態だったのです。
ヒンドゥー教は基本的に布教しない民族宗教ゆえ、他宗教にはやはり寛容です。中東などから迫害された宗教信者が多数インドに亡命してきたし、現代でもチベット人難民が入国しようとする。
ただ、イスラムに関しては含む所があります。2世紀ほどの局地的支配だった十字軍と異なり、中世のイスラム侵攻は長く広い範囲に及びました。未だにヒンドゥーはそれを恨んでいるし、数百年前のイスラム軍の破壊や虐殺を持ち出すことも珍しくない。中国と同じくインドも様々な異民族が侵攻してきましたが、彼等はインドに同化していったのです。
しかし、イスラムは違った。同化しなかったのはインドに亡命してきたユダヤ教徒やゾロアスター教徒も同じですが、彼らは布教しない。 イスラムはインドの低カーストにも受け入れられ、それがヒンドゥーには面白くないのです。
インドとパキスタンは元々一つの国だったし、ムスリムの多い地域がパキスタンとなりました。分離独立でヒンドゥーとシク教徒はインドへ、ムスリムはパキスタンに向いましたが、残った人々も大勢いる。独立以来、印パ両国は何度か戦争をしていますから、双方憎しみは深いのです。
この駄記事で「もっとインドのことを知りたく」なられたのならば、ブロガー冥利につきます。ただ、インドも広い領土と古い歴史のある国ゆえ、中国に劣らぬほど複雑な問題を抱えているのは確かです。