トーキング・マイノリティ

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わたしを離さないで 10/英/マーク・ロマネク監督

2012-02-06 21:11:10 | 映画

 原題は『Never Let Me Go』、邦題も直訳そのものであり、題名だけを聞けばラブストーリーと誤解する人もいるだろう。現に私行きつけの レンタルチェーン店のDVDラベルには「ラブストーリー」とあった。確かにストーリーには恋愛要素も含まれるが、これは完全なSF作品である。映像からはSF色が感じられないが、扱っているのが臓器提供という重いテーマであり、救いのない結末なのが鑑賞後に判るのだ。goo映画サイトには、あらすじも載っている。

緑豊かな自然に囲まれた寄宿学校ヘールシャム。そこで学ぶキャシー(キャリー・マリガン)、ルース(キーラ・ナイトレイ)、トミー (アンドリュー・ガーフィールド)の3人は、幼い頃からずっと一緒に過ごしてきた。しかし、外界と完全に隔絶したこの施設にはいくつもの謎があり、“保護官”と呼ばれる先生のもとで絵や詩の創作に励む子供たちには、帰るべき家がなかった。
 18歳になって、校外の農場のコテージで共同生活を始める3人。生まれて初めて社会の空気に触れる中、ルースとトミーは恋を育んでいく。そんな2人の傍にいながらも、次第に孤立していくキャシー。複雑に絡み合ったそれぞれの感情が、3人の関係を微妙に変えていく。

 やがて、彼らはコテージを出て離れ離れになるが、それぞれが逃れようのない過酷な運命をまっとうしようとしていた。やがて再会を果たしたルース、トミーとかけがえのない絆を取り戻したキャシーは、ささやかな夢を手繰り寄せるため、ヘールシャムの秘密を確かめようとする。だが、彼らに残された時間はあまりにも短かった……

 物語は「介護人」となったキャシーの回想で始まる。「介護人」とは「提供者」の身の回りの世話をする人を指し、後者はずばりドナーなのだ。 そのドナーも実はクローンだったことがストーリーの流れで分かるが、映画では一言もクローンという言葉は使われていない。
 ヘールシャムはいかにも英国式寄宿学校だが、一般の寄宿学校とはかけ離れた場なのが、物語が進むにつれ浮かび上がる。生徒たちは厳重に健康管理され、外部とは完全に隔絶されている。教師は「あなた方は選ばれた生徒」だと強調するが、その意味も惨いものがあった。

 いくら外部と遮断された環境でも、成長すれば自分たちの出生や将来のことは認識できてくる。コテージから初めて外に出たキャシーたちが、ルースの“もしか”を見つめるシーンがある。“もしか”と訳されていたが、これは“オリジナル”を指す。ルースも自分たちの“オリジナル”は選ばれた人間どころか、売春婦や麻薬中毒者の類の社会の最下層出身であることを既に予想していた。
 キャシーがゴミ箱に捨てられたポルノ雑誌を熱心に見る場面も、後に想像したのとは違う意味があったことが分かる。思春期特有の性への関心ではなく、自分の“オリジナル”を探す目的からだった。

「介護人」となり、臓器提供後に“終了”したトミーを看取ったキャシーも、その2週間後に「提供者」となることが告げられる。提供も3度が限度 であり、それ以降も“終了”しなければ介護人もつかず放置されるのだ。ヘールシャムの生徒たちによる絵や詩の創作は、クローンが 「魂を持つ」のではなく、「魂がある」かを証明する実験だったこともラスト近くで明らかになる。この学校は閉鎖されるが、「提供者」制度は存続しているのだ。

我々と我々をつくった者では、何処に違いがあるのか?」という、キャシーの独白も重い。この映画を見て、何故ヘールシャムの生徒たちが苛酷な運命に抗わず、そのまま受け入れているのを不可解に思った人も多いはず。もっとも、反抗する生徒が登場するならば、ストーリーは完全に違った方向になるだろうが。学生時代に読んだ『神鯨』(T.J.バス著、ハヤカワ文庫 SF312)でも、未来社会では自分のクローンから臓器や体の部位の提供を受ける設定があった。こちらは主人公が体制に対抗する小説。

 だが、この作品の時代設定は近未来ではなく20世紀である。ロケ地は英国の地方なのか、映画に登場する田園風景は実に美しく、牧歌的な印象さえあった。派手な背景音楽もなく淡々と展開する物語ゆえに、返って残酷さがより際立つ。
 現実社会でも臓器移植が進行しているが、裕福で生活に困らぬドナーなど、果たしてどれだけいるのだろう?また、臓器提供を 「奉仕精神によるもの」と見え透いた偽善で取り繕う者は、己自身または己の家族がドナーとなっているのか、甚だ疑わしい。



◆関連記事:「臓器移植
 「私の中のあなた
 「代理母-奉仕の精神?

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