新聞やマスコミに引っ張りだこの文化人で、映画監督の井筒和幸氏や精神科医の香山リカ氏がいる。先日ネットで見た井筒氏の発言と、河北新報のコラムにおける香山氏の文句で、奇しくも申し合わせたかのように同じ表現があった。それは「たまたまこの国に生れて」という言葉だった。
井筒、香山両氏とも「たまたまこの国(日本)に生まれたからといって、この国を愛せとかの愛国心を押し付けられるのはゴメンだ」といった意見だった。私も お上からの愛国心押し付けは嫌悪感を覚える。お上が愛国心を持ち出すのは、まずろくでない意図があるのが大半なのは日本に限らず世界、ことに隣国の愛国心 教育などは世界で最もグロテスクで歪んだナショナリズムの見本例だろう。だが、「たまたまこの国に生れて」との前置きは不適切というものだ。
生れる国も親も環境も性も選べないのが人間であり、いかに日本に生れたことを嘆きたくとも、それは定められた運命であって変えることは出来ない。「たまた ま」と呼ぶのは自由だが、偶然なのか必然かは天の定めとしか言いようがない。その事実を受けいけることも出来ず、他人から見れば充分恵まれた環境にありな がら、たまたま生れた国に不平不満ばかりもらす輩には、嫌悪と敵意を感じる。
それほど日本に不満があるなら、いっそのこと海外に移住でもすれば 良いものを、この類に限り日本に居住し続けているのは滑稽さを感じる。祖国の悪口を言うほか能のない異国人を受け入れる国など世界中どこにもないが、当人 たちも日本でしか生きられないのは自覚しているのだろう。親を罵りながらも成人しても親元を離れ自活できない、どうしようもない子供のように。
金美麗さ んは外国で祖国を悪く言う人間は信用されないと著書で書いていたが、これは少し想像すれば当然だろう。もし、来日して母国の非難ばかり口にする外国人がい たら、あなたは信頼するだろうか?中にはそれだけ日本が好きなのだと解釈する方もいるだろうが、どうも胡散臭く思う人も少なくないだろう。そんな愚かな来 日外国人はまずいないだろうが。
井筒、香山両氏には「では、日本を出て行ったら」と意見されることも最近少なくないらしい。こう言われ ると彼らは途端にいじけて感情的になるのも共通している。「どうして出て行かなければならないんだ」とか、香山氏に至ってはハリウッド女優の恋愛と同棲と いうまるで的外れな引き合いまでしていたのは、非理性的かつ医者としての知性もない。ハリウッド女優のような生活をするのは、ごく限られた者なのだから。
私も他国の例を引き合いにするが、欧米、中東、南アジア諸国で、日本のように祖国の悪口を言う文化人は身体生命の保障は難しい。かつてアメリカは共産主義 者の入国を禁じていたのをご存知だろうか?非愛国者と見られた者の家に銃弾を打ち込んだり、焼き討ちさえも行う。欧州も宗教の重圧は日本人の予想以上に重 く、ローマ法王への批判はタブーに近い。南アジアの大国インドなど、ムスリムとの和解を説く者に平然と「パキスタンに行け!」「パキスタンの犬」とまで罵 倒する。
人間は恵まれない環境にあれば悩むが、恵まれた状況下にあっても満足できる生き物ではない。持てば持つほどほしくなり、足るを知るの精神でいられるものはまず稀だろう。
ただ、不平不満家は恵まれない人より、むしろ社会的地位のある知識人の方に多いのは明らかだろう。恵まれすぎれば有難さも失せるように、平穏な日常の些細 な不満を見つけてはあげつらう事があたかも社会的責務のように思い込む者さえいる。その結果、香山氏のように「私には社会に喚起する義務がある」と、独り 善がりの責務を背負い込んだ感情に囚われるようになる。社会的責任なら一精神科医に限らず、社会人全てが有しており、一著名人の専売特許ではない。たとえ 国家に影響力のある偉人であれ、その人物が亡くなっても国や社会は何事もなかったように続くのだ。たまたまこの国に生れたことは変えられないが、不平不満 家の道を選んだのはたまたまではなく、その個人の選択結果に過ぎない。彼らは意図しないだろうが、安定した社会でしか生きられないにも係らず、「プチ・アナーキスト」を気取る。
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井筒、香山両氏とも「たまたまこの国(日本)に生まれたからといって、この国を愛せとかの愛国心を押し付けられるのはゴメンだ」といった意見だった。私も お上からの愛国心押し付けは嫌悪感を覚える。お上が愛国心を持ち出すのは、まずろくでない意図があるのが大半なのは日本に限らず世界、ことに隣国の愛国心 教育などは世界で最もグロテスクで歪んだナショナリズムの見本例だろう。だが、「たまたまこの国に生れて」との前置きは不適切というものだ。
生れる国も親も環境も性も選べないのが人間であり、いかに日本に生れたことを嘆きたくとも、それは定められた運命であって変えることは出来ない。「たまた ま」と呼ぶのは自由だが、偶然なのか必然かは天の定めとしか言いようがない。その事実を受けいけることも出来ず、他人から見れば充分恵まれた環境にありな がら、たまたま生れた国に不平不満ばかりもらす輩には、嫌悪と敵意を感じる。
それほど日本に不満があるなら、いっそのこと海外に移住でもすれば 良いものを、この類に限り日本に居住し続けているのは滑稽さを感じる。祖国の悪口を言うほか能のない異国人を受け入れる国など世界中どこにもないが、当人 たちも日本でしか生きられないのは自覚しているのだろう。親を罵りながらも成人しても親元を離れ自活できない、どうしようもない子供のように。
金美麗さ んは外国で祖国を悪く言う人間は信用されないと著書で書いていたが、これは少し想像すれば当然だろう。もし、来日して母国の非難ばかり口にする外国人がい たら、あなたは信頼するだろうか?中にはそれだけ日本が好きなのだと解釈する方もいるだろうが、どうも胡散臭く思う人も少なくないだろう。そんな愚かな来 日外国人はまずいないだろうが。
井筒、香山両氏には「では、日本を出て行ったら」と意見されることも最近少なくないらしい。こう言われ ると彼らは途端にいじけて感情的になるのも共通している。「どうして出て行かなければならないんだ」とか、香山氏に至ってはハリウッド女優の恋愛と同棲と いうまるで的外れな引き合いまでしていたのは、非理性的かつ医者としての知性もない。ハリウッド女優のような生活をするのは、ごく限られた者なのだから。
私も他国の例を引き合いにするが、欧米、中東、南アジア諸国で、日本のように祖国の悪口を言う文化人は身体生命の保障は難しい。かつてアメリカは共産主義 者の入国を禁じていたのをご存知だろうか?非愛国者と見られた者の家に銃弾を打ち込んだり、焼き討ちさえも行う。欧州も宗教の重圧は日本人の予想以上に重 く、ローマ法王への批判はタブーに近い。南アジアの大国インドなど、ムスリムとの和解を説く者に平然と「パキスタンに行け!」「パキスタンの犬」とまで罵 倒する。
人間は恵まれない環境にあれば悩むが、恵まれた状況下にあっても満足できる生き物ではない。持てば持つほどほしくなり、足るを知るの精神でいられるものはまず稀だろう。
ただ、不平不満家は恵まれない人より、むしろ社会的地位のある知識人の方に多いのは明らかだろう。恵まれすぎれば有難さも失せるように、平穏な日常の些細 な不満を見つけてはあげつらう事があたかも社会的責務のように思い込む者さえいる。その結果、香山氏のように「私には社会に喚起する義務がある」と、独り 善がりの責務を背負い込んだ感情に囚われるようになる。社会的責任なら一精神科医に限らず、社会人全てが有しており、一著名人の専売特許ではない。たとえ 国家に影響力のある偉人であれ、その人物が亡くなっても国や社会は何事もなかったように続くのだ。たまたまこの国に生れたことは変えられないが、不平不満 家の道を選んだのはたまたまではなく、その個人の選択結果に過ぎない。彼らは意図しないだろうが、安定した社会でしか生きられないにも係らず、「プチ・アナーキスト」を気取る。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/bc/b8a24b0b147b4f9d1137e6cbf27c87e2.png)
いかなる苛酷な環境であっても、世界には、それ以外の運命を選択できない人々が圧倒的である現実を無視し、よくも身勝手な御託を並べることが出来るものだと言いたい。もし、少しでも客観的な思考や判断が出来る能力をお持ちなら、いかに幸運な人生を享受できているか、先ずその環境に感謝すべきである。
もちろん、周囲には耐えられないほどの愚かな出来事、愚かな人間に満ち溢れているだろう。しかし、今の我々が知る限り、人類の歴史をどこまで遡っても、これほど平和に、これほどのどかに暮らせる時代も国家も存在しなかったのだ。
また、自らの多少の知性や能力を、天与の才能として感謝することなく、自らの既得権の如く思い込み、世を睥睨する姿勢は最も許されざる生き方というしかない。愛国心とは立派な国に生まれたから生じるものではないはずだ。辛くても、悲しくても生まれた環境を受け入れ、それを家族や仲間の為に、子孫のために、よりよい世界にしていきたいと思う心情の現われだろう。
世界には、愛国心なくしては生き抜く事さえ困難な社会が多数である事に眼をつぶり、歴史上の最高の条件が整わない事を呪うような心根は、あまりにおごり高ぶったたとしか言いようがない。もっと謙虚に、安全を保ってくれる国に感謝し、世の中の為に尽くしたいと思う有識者であって欲しい。
大体自分も田舎のダンディさんの仰ることと同様ですので、あまり詳しくは述べません。ただ、また、脱線して申し訳ないですが、宜しいでしょうか?
日本は何故か「ナショナリズム」と「愛国心」を同義で訳しますが、本来は別物だと思います。また、そもそも日本人の大多数は、郷土の気候や風土、人柄などを愛し、地元にいないものは郷愁の念を少なからず持っていると思います。国家や政府が、国の機構、政体、イデオロギーなどを愛するように命じる事と、郷土や祖国を愛することこそ、本来の「愛国心」だと思います。
(国や家族、異性だとそうだと思いますが、本当に愛する者であれば、無批判で受け入れるのではなく、正すところは正すと思います。そうでなければ、隣国のようにワガママで自己批判ができず、そのものにとって、マイナスになるでしょうから。)
「衣食足りて則ち 栄辱(えいじょく)を知る」とは名宰相で有名な管仲(かんちゅう)の言葉ですが、今の我が国の知識人やマスコミ、政治屋の勢を見るとどう思うのでしょうね。また、管子の有名な言葉に「富国強兵」というものもあります。が、知識人やマスコミは本来とは別の意味で解釈し、明治以降から戦前までの我が国のすべてを批判していますね。「愛国心」といい、言葉遊びや歪曲がお好きなようで、、、。
私も「たまたま」日本人として生まれ、「たまたま」関東で生活するようになり、「たまたま」mugiさんのブログにコメントさせていただいております。たかが「たまたま」、されど「たまたま」。「たまたま」による人間の縁や繋がりまでも否定する事には反感を抱きますね。「めぐりあいはそう奇跡なの」というフレーズの歌もありますが、出会いやめぐり合いを大切にしたいものです。
(自分の努力不足や至らなさを棚に上げて、すべて他人のせいにするなんて、恥だと思わないのでしょうか?また、そうだから、隣国に媚を売るものや、フェ○ストがいるのでしょう。そういうワガママな者は、ワガママな者の肩を持つ、「類は友を呼ぶ」でしょうね)
こちらこそ、「もっと謙虚に、安全を保ってくれる国に感謝し、世の中の為に尽くしたいと思う有識者であって欲しい」という、全くの正論のコメントを頂き、ありがとうございました。私が井筒氏や香山氏のような連中について、常日頃感じている感情をストレートに表現されております。
私も有識者として遇されている者は、特にその地位を与えてくれた社会に対する義務があると思います。特権を得ているなら、それに値する義務も伴うはずですが、義務はなおざりで己の権利だけは主張するのは、既得権に胡坐をかいた特権階級と化してます。
もちろん、日本にもいくらでも不合理な事や、悪行を行う人間はいますが、それでも日本史上現代ほど安定し、豊かな時代はありません。私の住む東北など戦前までは貧しさのあまり娘の身売りが横行していたし、飢饉さえあったのです。いつの時代も様々な困難が人間社会にありました。それがこの世なのです。この世に天国などありませんし、もしあったなら、同時に地獄もあるはずです。
「好きでこの国に生れたのではない」と放言する井筒氏のような方は、この国に住んでもらうのは好ましくない人間ですね。
日本人に限らず郷土や風土、祖国を愛するのは、人間として自然な情だと思います。
その情すら否定する連中の方が、精神的に問題ありですね。自分や自分に属する伝統を忌み嫌う者が、他人、まして他国人は愛せず、また愛されもしないでしょう。
「衣食足りて則ち栄辱(えいじょく)を知る」は人間の本能ですが、衣食あまり過ぎると、人間性がおかしくなってくるようですね。
「富国強兵」の語源は中国語なのに、我国の“有識”者は、近代日本のみの異常現象と見なしているようです。
「神と国王のために死ぬ」は大英帝国のモットーでしたが、これって十字軍精神の延長なのに、“有識”者は議会制民主主義の国をひたすら崇めている。
仏教でも「縁」というのを大切にしますね。「たまたま」にせよ、運命というのは確かに存在すると思います。
自分の努力不足や至らなさを棚に上げ、すべて他人のせいにする輩に、恥の感情を求める事は、無駄というものでしょう。
他人を攻撃しても、結局自分は成長しないから、ツケは己に返ってくる。ワガママな者がワガママな者の肩を持つのは、「類は友~」よりも、安易に利用しあっているのかも。媚びているだけの者は、信頼を得られませんから。
私が挙げた井筒、香山両氏の他にも、胡散臭い文化人は目に付きますね。
彼らを持ち上げる新聞やマスコミの姿勢も問われるところです。大広告主には尻尾を振るのがマスコミの正体でしょう。