トーキング・マイノリティ

読書、歴史、映画の話を主に書き綴る電子随想

ヌール・ジャハーン―世界の光と皇帝に熱愛された女

2006-06-21 21:11:49 | 読書/インド史

ムガル王朝の中で最も皇帝に愛された皇妃といえば、タージ・マハルを奉げられた5代皇帝の愛妃ムムダーズ=マハルを思い浮かべる方が多いだろう。しかし、彼女に劣らぬくらい愛された皇妃もいる。4代皇帝ジャハーンギールの皇妃ヌール・ジャハーンがそうだった。彼女はムムダーズの伯母でもある。

 ジャハーンギールがのちの愛妃となるメフルン・ニサーと 出会い見染めたのが帝位について2年目(1607年)であり、この時すでに彼女は29歳の子持ちの寡婦で、夫が法に違反した咎で処罰され宮殿に出仕してい た。一方ジャハーンギールは36歳、すでに何人もの皇妃と数え切れないほどの妃妾を持っていた。しかも、18歳の皇子時代でも20人近い妃と三百人余りの 侍妾を抱え、以降権力にモノをいわせて漁色を尽くしてきた経歴の持ち主。さらにジャハーンギールとメフルン・ニサーが出会い、結婚を申し込んでから実際に 後宮に入るまで4年の期間があった。

 皇帝の元に嫁ぐ前にメフルン・ニサーの母はこう諭したという。
夫の心に常に忠実に従うことだけを心掛けなさい…それ以外に男の愛情をつなぎとめ、男の愛情を深めさせる道はないのですよ
 後宮に入った彼女は母の言いつけ通り、皇帝に心から仕えた。そして皇帝の寵愛を独占し、瞬く間に第一皇妃の座を勝ちえ、“ヌール・ジャハーン(世界の光)”の称号を送られた。皇帝は側近にこう漏らしている。「マリカ(ヌール・ジャハーンの愛称)があまりに自分に尽くしてくれるので、自分は彼女の言うがままだ。彼女の献身ほど男の心に訴えるものはあるまい」。
 2人の間には子供はなく、子のいない妃は後宮では極めて不利な立場になる例が多いが、逆にそれ故ヌール・ジャハーンは皇帝に心から仕えることが出来たのだろう。

  ただ、ヌール・ジャハーンはひたすら夫に従順なだけの女ではなかった。聡明で才気煥発、しかも行動的で度胸のある女でもあった。彼女の聡明さを深く信頼し た皇帝は次第に政治向きな相談をするようになる。彼女は宮廷での公的な場にも出席し、請願に耳を傾けたりするが、最後は政務のほとんどが彼女に任され、皇 帝は後で彼女から報告を受け、承認するだけといったようになる。
 後宮の女たちは化粧に憂き身をやつし、室内に閉じこもりがちだった中で、ヌー ル・ジャハーンは狩り好きな皇帝に喜んで同行した。結婚して数年後の虎刈りに参加した時、彼女は6発撃って虎を4頭仕留め、皇帝に「象の背から、しかも輿 の幕の中から狙って6発撃ち、1発も外さなかった」と驚かせている。酒飲みの皇帝に節酒もさせていた。
 さらにヌール・ジャハーンは美的センスにも秀でていた。ムガル宮廷の貴婦人の正装をより華やかで洗練されたものにするため、錦織やレース編みをふんだんに用いた宮廷衣装をデザインし、その後長く後宮で愛用されることになった。宮殿内の装飾も手を染める。

  ムガルの歴代皇帝の中で唯一人陣頭に立って戦ったことがなく、その代わり悠々と趣味三昧の日々を送った4代皇帝ジャハーンギールだが、皇子時代は気紛れで しばしば残忍な振舞いで父の不興を買うこともあったが、ヌール・ジャハーンと出会って以降、残忍な刑を科すのが減り、性格も温和なものに変わっていったと いう。
 ヌール・ジャハーンが後宮に入ってからは彼女の父は宰相となり、兄弟たちも栄進する。皇帝に代わり国政を仕切り、血縁が出世すると専横を ほしいままにした女、と大抵評判が悪いものだが、彼女の執政は皇帝の意に添うものだったので、楊貴妃のような悪評を被ることはなかった。

  しかし、ヌール・ジャハーンの権力も夫の皇帝が生きているからこそ発揮できたのであり、皇帝の死後は非力な一人の女に過ぎなかった。それを知らしめたのが 他ならぬ彼女のお陰で重臣となった実の弟だった。彼女の肩入れした宮廷勢力を根絶やしにし、権力を奪う。観念した彼女は謹慎して以降死まで2度と政治に関 わらなかった。夫の死後、彼女は白い素衣をまとい、神への祈りと瞑想の日々を送り、夫に遅れること18年してその生涯を終えた。1645年、誕生日を過ぎ ていたなら享年68歳のはず。
 彼女から権力を奪った弟の娘がムムダーズ=マハル、タージ・マハルに眠る女あるじだ。

 インド人史家K.C.マジュムダールは、ヌール・ジャハーンとその姪が何故皇帝たちを魅了したか、こう記している。
彼 女たちは“妖術”でも用いたのか。いや、鋭い知性、女らしい優雅さ、心優しさ、女としての賢さが彼女たちを帝王の魂の主とさせるのに役立ったのである。肉 体的な美しさは数年もたてば過ぎ去ってしまう。けれども本当の聡明さと美しい心ばえの持つ力は新しい呪力を産み、抗い難い力で男の心を捉えてしまうもので ある
 このような皇妃を持った皇帝は果報者だろう。

■参考:『タージ・マハル物語』渡辺建夫 著、朝日選書352

よろしかったら、クリックお願いします。



最新の画像もっと見る

6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
果たして現代では・・・ (Diogenes)
2006-06-21 22:11:37
なるほど、美人で努力家だと鬼に金棒なわけですね。



ところで、私は独り者ですのでよく分かりませんが、



> 夫の心に常に忠実に従うことだけを心掛けなさい



これを現代でやると亭主族は調子に乗りませんか?



その上に



> 聡明で才気煥発、しかも行動的で度胸のある女でもあった



とくれば、夫はもう凹んでしまうような気が・・・。



勿論、個人差が大きいでしょうが、はい。
返信する
恋愛不適格者 (Mars)
2006-06-21 23:29:43
こんばんは、mugiさん。



ご紹介いただきました、ヌール・ジャハーンですが、確かに、夫である皇帝に、献身的に愛したことは事実でしょう。しかし、mugiさんも仰るように、男(皇帝)が心から愛し、信頼したのは、自分の言うことを何でも聞き入れたから、だけではなかったと思います。恐らくこれは想像ですが、皇帝自身は女としてだけでなく、一人の人間として妻を愛し、信頼したからではなかっただろうか。私も独り者ですから、夫婦の仲までは分かりませんが、その気持ちが、なんとなく分かるような気がします。



また、インド人史家K.C.マジュムダーの言は、まさしく正鵠を射ていると思います。芸能界の中にも、スタイルはナイス・バディでもオツムは、、、と言う者もいますね。決してそれが悪いとはいいませんが、やはり上辺だけのようで、何か虚しさも感じます。学歴だけでなく、器量もよく、愛嬌もいい女性。そんな女性には、私も憧れます(まぁ、そういう女性に好かれる程、私は、学も、才能も、金も持ち合わせていないので、身の程知らずもいいところです)。



ヌール・ジャハーン、その姪ムムダーズ=マハルといい、ある程度までは、血縁や家訓などで伝える事はできるかもしれません。しかし、悲しいかな、どんな者でも代を重ねる毎に、その精神は失われ、時に暴君や、傾国の女性が出る例が少なくありませんね。我が国は立憲君主制(見解の違う学説もあるそう)ですが、我が国の周辺国には絶対君主制や一党独裁制の国もあります。そういった国々では、民主主義も、自由経済もできず、相容れる事は難しいように思えます。



国によって政治体制が様々なように、男も女も様々ですね。そして、その縁は見えないので、本当に難しいですね。当分は、その見えない糸を、半ば諦めながら、捜してみます(ヲイ、もう少し努力しろよ、自分)。

返信する
聡明 (mugi)
2006-06-22 22:20:14
Diogenesさん

ヌール・ジャハーンの時代と現代では女性を取り巻く状況が異なるし、皇帝の妻と庶民では立場や環境が違いすぎる。

百花繚乱の後宮では「夫の心に常に忠実に従う」のが効果的かもしれません。ただし、一方的に相手に従うのではなく、何歩も先に夫の気持ちを読み取る明敏さに長けている女が勝者となると思います。



聡明で才気煥発な女は、大物の男を虜にする術でも聡明さを発揮するもの。

歴史に名を残す者は男女ともにスケールが大きい。
返信する
上辺だけで (mugi)
2006-06-22 22:26:14
こんばんは、Marsさん。



皇帝ジャハーン・ギールはかなりプレイボーイだったので、女を見る目は肥えていたと思いますね。選りすぐりの美女が集う後宮を持ちながら、当時ではかなり年増の女を見初めるくらいだから、その資質を見抜いたのでしょう。



インド人史家の言は見事な正論ですが、上辺だけで騙されるのは人間の性ですよね。皇帝ジャハーン・ギールも若い頃は漁食家だったから、上辺だけで女色に溺れた体験を持っています。ただ、後宮を持てる皇帝だからこそ出来ることで、庶民なら真似できそうもありません。



優れた君主に統治されるのと衆愚政治体制では、前者の方が国家に有益ですね。君主制も民主体制もどちらも欠陥があり、優れたリーダーなど滅多に現れないのは古今東西変わらない。民主主義体制の国同士でも争い皆無とはいえませんね。世論動向を無視できないし、世論がいつも正しいとは限らない。リーダーが誤るのと同じく、民衆もまた。
返信する
トラバ有り難うございます。 (乱読おばさん)
2009-05-18 19:38:18
このような詳しい記述もあったのですね。トラバっていただいて、益々充実します。いつも有り難うございます。
返信する
Re:トラバ有り難うございます (mugi)
2009-05-18 22:47:53
>乱読さま

 貴女のヌール・ジャハーン夫妻の記事を見逃していましたので、遅ればせながらトラバさせて頂きました。ヌール・ジャハーンのナイスバディと衣装がいいですね~
返信する