先月の記事で、「この先も主要メディアは総力を挙げ、国内で敵基地攻撃能力や核共有の議論が起きる動きを徹底して叩き潰そうとするだろう」と書いたが、メディアは憲法改正や軍事増強にも叩き潰す動きを示している。
6日4付の河北新報の読者欄「声の交差点」に、「9条で国際平和の追求を」というタイトルの9条信者のコラムが載った。投稿者は60歳の平尾伸二氏、岩沼市・病院事務職員とある。この類のコラムは見る価値もないが、国際平和を謳った9条信者の本性が分かる言葉が目に付いたので、つい読んでしまった。その全文を紹介したい。
―ロシアがウクライナへの軍事侵攻を続ける中、「憲法9条では日本は守れない」「日本も軍事増強すべきだ」などの声が高まっています。私は、こうした声の高まりに強い懸念を持っています。
歴史的に見れば、軍事侵攻はなにがしかの理由をつけて行われてきました。「ロシアが国家承認をした国から要請を受けたので、集団的自衛権に基づき軍事支援を行った」ということになっています。
いったん戦争になれば、攻め込んだ国も攻め込まれた国も、甚大な被害を受けます。「攻められたらどうするか」ではなく「攻められないためにはどうするか」を考えることが大事だ、と私は思うのです。
憲法9条は「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段として、永久にこれを放棄する」と宣言しています。これは「日本はどこの国も攻めたりはしない」ということを世界に発信した本当に素晴らしいものだと思います。
しかしいま、日本政府が行っていることは「集団的自衛権」の容認や日米首脳会談で防衛費増を約束するなど、周辺諸国を刺激することばかりです。そういう方向ではなく、憲法9条を生かした平和外交や国際貢献を追求すべきだと考えます。
平尾氏の“考え”とやらに賛同した読者もいたかもしれないが、もちろん私は「また下らぬモノを見てしまった」の一言。氏は60歳なので、殆ど私と同世代だが、この類の男は絶対に彼氏や旦那にはしたくないタイプ。尤もあちらも私のような女は彼女や妻には願い下げと思っているだろうが。
私が9条教徒を信用しないのは敵対分子というだけではなく、自国の安全と保障を空論で弄ぶ輩は、いざとなれば家族を見捨てると思っているからだ。それどころか、家族や知人さえ命欲しさに敵に売り渡すタイプが少なくないだろう。追い詰められれば右翼にもそんな者は出てくるにせよ、端から家族を守るという気概が9条教徒には欠けている。家族を見捨てる者がどうして他人を救おうとするのか。
「攻められないためにはどうするか」を考えることが大事だ、と私も思う。しかしその手段が憲法9条だから救いようがない。「日本はどこの国も攻めたりはしない」ということを世界に発信したところで、諸外国は関係なく、無視すればそれまで。丸腰の相手ほど攻めやすい対象もない。これでは憲法9条よりも同等報復を認めるイスラム法のほうが健全ではないか。
特に平尾氏の一言、「周辺諸国を刺激することばかり」こそ9条教徒の本性がよく出ている。とにかく日本は周辺諸国を刺激するな、ひたすらガマンしていろという主張だが、その結果が現代の体たらくに繋がったのだ。軍事増強を重ね、ミサイルを連射して日本を刺激し続けている国にはダンマリなのが9条教徒。
河北新報に載るのは9条教徒の声ばかりで、憲法改正の意見は年に1度あるかどうか。これだけでもこの地方紙が完全に他国のスピーカーなのは明か。“周辺諸国を刺激する”という言葉は特亜シンパの好むフレーズでもあった。ウクライナに侵攻したロシアの例だけでも、平和外交は全く無力で破綻しているのは政治のド素人さえ気付く。
但し、9条教徒の投稿記事が載るのは他の地方紙も同じらしく、「東京新聞のお花畑軍事記事」というブログ記事には、「55年体制からずっと思考停止してきた左派マスコミや文化人」を痛烈に皮肉っている。防衛費5兆円を暮らしに使えば等の空想実験をしても、現にウクライナでは教育と医療体制は崩壊しており、生活基盤そのものが成り立たなくなる。
東京新聞は河北新報の友好紙のひとつで、後者は時々東京新聞読者の声を載せている。3月の記事「新聞の魅力を再発見」でそれを取り上げたことがあるが、気色悪いほどの新聞礼賛だった。
6月2日、この記事に田中はじめ なる者から「勝手に実名を出さないでほしい」というコメントがあった。1行コメでもこの者が1月後半、岡元舜や中村聡などとHNを変えて連投していたことは分かったので削除した。新聞記事の転載については直に河北新報に電話して確認したことがあり、全く問題はない。そもそも新聞にコラムを投稿した以上は実名が出るのだから、投稿者も覚悟の上のはず。
田中はじめ又は岡元舜、中村聡とやらは、「新聞はネットに記事をアップしていません」とまで言っていたので、日本語の読み書きもロクにできない成りすまし日本人と見ている。尤もこの書込みでは5毛というより2毛レベルがやっとか。
◆関連記事:「遺体に湧くうじ虫」
「新聞の魅力を再発見」
「新聞記事の転載について」
憲法前文より
「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」
国際連合(国連軍)が念頭にある文章です。
名誉ある地位を占めたいなら、国連軍(有名無実化したので、現在なら民主主義国家による有志連合)に参加して積極的に平和を維持するべきなのです。
専制と隷従、圧迫と偏狭を生み出している、ロシア・中国・北朝鮮などの独裁体制を滅ぼすべきなのです。
「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」
例えば、ロシアの独裁者から恐怖と欠乏を強いられているウクライナの国民を救うべきなのです。
「第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」
この条文は、不戦条約や国連憲章と同じ思想です。
自衛権(集団的自衛権を含む)は放棄していないので特に問題ない条文です。
「2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
(GHQ の当初の目論見はともかく芦田修正を経た後の条文に対する現在の解釈では)自衛権を行使するための自衛隊の保持は問題なく、集団的自衛権の行使(集団安全保障である国連の国連軍への参加を含む)も問題ありません。
# 憲法第九条を改正するなら、無意味なこの第2項を消すだけでいい。
もっとも、サヨクばかりの問題ではありません。
ウクライナの国民を救うため(名誉ある地位を占めるため)に「血を流す」のは、日本のみならずアメリカだってEU諸国だって本音では嫌なのです。
だから、憲法九条を盾に「できません」と日本政府は言ってきたという側面があります。
9条で平和が守れるなら今すぐウクライナに行って戦争を止めて来いと言いたいですよ。必死で戦っているウクライナの人たちの怒りを買って射殺されるのがオチでしょうが…。
憲法問題ではすっかり第九条だけが独り歩きしている状態になっており、憲法前文や国連憲章はあまり知られていませんよね。そして平尾氏は引用した九条の前文、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」の箇所を省いている。
この前文まで引用すれば、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」する手段として、集団的自衛権を含む自衛権の行使も可能となるため、意図的に前文を省いたのでしょう。
文面から平尾氏は、「集団的自衛権」の容認さえ周辺諸国を刺激することばかり、と否定している様子。これでは憲法9条を生かした平和外交や国際貢献を追求することも出来ません。単に資金援助に止めろと言っているのでしょう。
傭兵でもない限り他国のために「血を流す」のは、どの国も本音では嫌がるのは当然です。日本政府が憲法九条を盾にしてきたのは、戦死者が出た時のマスコミの激しいバッシングを避けるためもあるかもしれませんね。
9条で平和が守れるという輩に限り、他国に行って宣教しませんよね。ウクライナの人たちに射殺されるより、ロシアの傭兵に捕まる方が遥かに恐ろしいはず。何しろ首を刎ねるまえにじっくりいたぶるのが趣味ですから。