小学生の頃、教室の書棚に子供向けに書き直された平家物語が置かれてあった。圧巻は何といっても、まだ8歳の孫である安徳天皇を抱いた二位尼(平時子)が入水するシーン。当時私は6年生だったが、子供心にも痛ましいと感じた。成人したのちに永井路子氏のエッセイ(題は失念)を読んだ時、何故母の建礼門院徳子ではなく祖母が孫と共に入水したのか、氏は疑問を呈されていた。これには私も目からウロコだった。
永井氏は平時子を「平氏一門の肝っ玉母さん」と表現している。清盛の正室といえ、夫亡き後は平氏の精神的支柱の存在であり、その最後も一族の男たちより見事だ。しかし、永井氏は子育てには失敗したと断定している。時子が女丈夫だったのは間違いないが、その子供たちはいずれも凡庸、父母と同等な資質を持つ者は一人もいなかった。出来すぎた親を持つと、子供がひ弱になってしまう典型だろう。
平徳子は久寿2(1155)年、清盛の次女として生まれた。物心付くころから、父は天下人、平氏全盛期である。さぞ大切に育てられ、武家の娘というより、公家のやんごとなき姫君の暮しだったろう。
父は藤原氏を倣い、徳子を天皇のもとに入内、中宮(皇后)に据える。非情な政略結婚ではない。当時はそれが当り前だったし、皇室への嫁入りなど敬遠されがちな現代と違い、あの時代は女にとって最高の名誉だったのだ。徳子が夫より6歳上でも父が天下人なら問題はない。
徳子は父の期待通り男児を生み、この子がのちの安徳天皇。パパ清盛は娘が出産する直前はいても立ってもいられず右往左往、無事男児誕生となり、泣いたと言われる。あの一代の英雄に相応しからぬエピソードだが、親バカと言えなくもないか。
当時の支配者階級は一夫多妻であり、清盛も、徳子の婿殿の高倉天皇も愛妾がいた。にも係らず、舅は婿の愛人関係にイチャモンをつけ、婿が寵愛した女に圧力をかけ出家させてしまう。いかにお家安泰のためとでも、これでは娘夫婦の仲もこじれてしまう。「有難きもの(滅多にないもの)、舅に褒められる婿の君」(枕草子)は現代も変わらぬ格言だが、義父が夫婦関係に物言いをつけるほど、男にとって不快なこともない。当時の女性は実家との結びつきが強かったが、それでも父と夫の諍いは心痛だ。
夫の死の一年後、父清盛も死亡、いよいよ平氏の滅亡も迫る。おそらく流言だと思われるが、源氏に追われ、逃亡中に徳子は兄・宗盛と肌を許しあったという一説もある。ついに壇ノ浦。母と幼い息子が入水したあと、彼女も海に身を投げるが、敵に熊手で髪を絡められ、引き上げられ、捕虜となってしまう。永井氏は二位尼が孫を抱いたのは、娘なら不安があったのではないか、と推測されていた。死に赴く人の心は理解不能だが、徳子なら息子を抱いても入水失敗の可能性はある。苦労知らずのお姫様育ちの彼女には、逃亡生活と目の前の戦場は生き地獄だったろう。
NHK大河ドラマに『新・平家物語』がある。キャストで平時子役は中村玉緒、いかにも十二単が合わない肝っ玉母さんの印象。徳子には佐久間良子、まさに絵に描いたようなお姫様だった。
平氏滅亡から29年後(建保元(1214)年)、徳子は死去する。寂光院で一門の菩提を弔う日々を過ごしたのは知られているが、それにしても30年ちかく生きていたのは驚く。彼女を訪ねてきた後白河法皇に「生きて六道を見た女」と言わしめている。この法王は源頼朝に「日本国第一の大天狗」と評されたほどの古狸だが、落魄した徳子への哀れみは本物だったと思う。徳子は泣く泣く法皇と対面していたというから、母の気丈さは受け継がなかったのか。武家の棟梁の娘らしく自害など、彼女には無理な話か。
私には建礼門院は平氏一門の箱入り娘の典型だとしか思えない。たとえ動乱時でも箱入り娘全てが徳子のような人生を送るものではなく、幕末の和宮のように数奇であっても嫁ぎ先と実家を取り持つ女性もいた。こうなると先天的な資質も運命を左右するのか。平家武者が水鳥の羽音に肝を潰し敗走した富士川の戦いは日本の合戦でも喜劇の一種だが、箱入り娘には悲劇の始まりでもあった。
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永井氏は平時子を「平氏一門の肝っ玉母さん」と表現している。清盛の正室といえ、夫亡き後は平氏の精神的支柱の存在であり、その最後も一族の男たちより見事だ。しかし、永井氏は子育てには失敗したと断定している。時子が女丈夫だったのは間違いないが、その子供たちはいずれも凡庸、父母と同等な資質を持つ者は一人もいなかった。出来すぎた親を持つと、子供がひ弱になってしまう典型だろう。
平徳子は久寿2(1155)年、清盛の次女として生まれた。物心付くころから、父は天下人、平氏全盛期である。さぞ大切に育てられ、武家の娘というより、公家のやんごとなき姫君の暮しだったろう。
父は藤原氏を倣い、徳子を天皇のもとに入内、中宮(皇后)に据える。非情な政略結婚ではない。当時はそれが当り前だったし、皇室への嫁入りなど敬遠されがちな現代と違い、あの時代は女にとって最高の名誉だったのだ。徳子が夫より6歳上でも父が天下人なら問題はない。
徳子は父の期待通り男児を生み、この子がのちの安徳天皇。パパ清盛は娘が出産する直前はいても立ってもいられず右往左往、無事男児誕生となり、泣いたと言われる。あの一代の英雄に相応しからぬエピソードだが、親バカと言えなくもないか。
当時の支配者階級は一夫多妻であり、清盛も、徳子の婿殿の高倉天皇も愛妾がいた。にも係らず、舅は婿の愛人関係にイチャモンをつけ、婿が寵愛した女に圧力をかけ出家させてしまう。いかにお家安泰のためとでも、これでは娘夫婦の仲もこじれてしまう。「有難きもの(滅多にないもの)、舅に褒められる婿の君」(枕草子)は現代も変わらぬ格言だが、義父が夫婦関係に物言いをつけるほど、男にとって不快なこともない。当時の女性は実家との結びつきが強かったが、それでも父と夫の諍いは心痛だ。
夫の死の一年後、父清盛も死亡、いよいよ平氏の滅亡も迫る。おそらく流言だと思われるが、源氏に追われ、逃亡中に徳子は兄・宗盛と肌を許しあったという一説もある。ついに壇ノ浦。母と幼い息子が入水したあと、彼女も海に身を投げるが、敵に熊手で髪を絡められ、引き上げられ、捕虜となってしまう。永井氏は二位尼が孫を抱いたのは、娘なら不安があったのではないか、と推測されていた。死に赴く人の心は理解不能だが、徳子なら息子を抱いても入水失敗の可能性はある。苦労知らずのお姫様育ちの彼女には、逃亡生活と目の前の戦場は生き地獄だったろう。
NHK大河ドラマに『新・平家物語』がある。キャストで平時子役は中村玉緒、いかにも十二単が合わない肝っ玉母さんの印象。徳子には佐久間良子、まさに絵に描いたようなお姫様だった。
平氏滅亡から29年後(建保元(1214)年)、徳子は死去する。寂光院で一門の菩提を弔う日々を過ごしたのは知られているが、それにしても30年ちかく生きていたのは驚く。彼女を訪ねてきた後白河法皇に「生きて六道を見た女」と言わしめている。この法王は源頼朝に「日本国第一の大天狗」と評されたほどの古狸だが、落魄した徳子への哀れみは本物だったと思う。徳子は泣く泣く法皇と対面していたというから、母の気丈さは受け継がなかったのか。武家の棟梁の娘らしく自害など、彼女には無理な話か。
私には建礼門院は平氏一門の箱入り娘の典型だとしか思えない。たとえ動乱時でも箱入り娘全てが徳子のような人生を送るものではなく、幕末の和宮のように数奇であっても嫁ぎ先と実家を取り持つ女性もいた。こうなると先天的な資質も運命を左右するのか。平家武者が水鳥の羽音に肝を潰し敗走した富士川の戦いは日本の合戦でも喜劇の一種だが、箱入り娘には悲劇の始まりでもあった。
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私も永井氏のエッセイで、初めて何故時子が安徳天皇を抱え入水したのか、分かりました。たとえ徳子が同じことをして入水に成功したとしても、痛ましいですよね。
一代で平氏をあれほど台頭させた清盛は英雄ですが、武家政権のビジョンはまるで持っていなかったと思います。藤原氏の再現を夢見ていたのかも。流されたにせよ頼朝はその点はまるで正反対で、革命家でした。
他にもう一人死にきれなかったのは、徳子の兄宗盛、二人とも海に入ったのに、兄妹揃って最期を飾れなかったですね。
平家は武士でありながら、武士に徹し切れなかった印象があります。半分貴族でしたね。