先日、毛沢東伝『マオ』への論評記事をTBで送られてきた。これが長い論文形式となっており、毛沢東や共産主義に関心のない者からすれば、それだけで実に退屈な記事なので、お暇のある方はこちらを参照。ただ、興味深い点もあり、あの本は左派の連中に動揺が広がっているらしい。「あの本を鵜呑みにするな!」「中国革命の意義を全否定するな!」などと。TB送信者の結論はこうだ。
「ユンチアンよ、貴女の手法じゃあ、毛沢東と毛沢東支持の馬鹿どもに引導を渡せないぞ。引導を渡すためには、毛沢東を“理想なき極悪人”として描くんじゃダメだぞ。“理想があったからこそ極悪だった”としないとダメだぞ」
私は記事の内容よりも、「理想に取り憑かれた極悪人」の結論を導くため、あれだけ長文を書いたTB送信者のエネルギーが興味深い。たとえ平日朝からネット している暇人であれ、興味や共感を抱かない物事には長文の記事はまず書かない。職業作家、無名のブロガー問わず、興味のあることには筆を費やすものだ。 「毛沢東の著述と論文を読み」込んだ程なので、「「関心と共感」を寄せるほどの人物ではない」とのコメントは下手な詭弁である。
「わたしのHPには政治思想的な内容の論評を載せることに若干躊躇するものがあり」と、意味深な箇所もある。
そして、毛沢東と劉邦や朱元璋の ような中国歴代の英雄たちとは「「本質」的に違う」という意見には全く賛同出来ない。街のゴロツキ上がりや飢餓を回避するため反乱に参加した英雄と、読書 家でマルクス主義を学んだインテリの違いはあるものの、本質的な差は変わらない。劉邦の時代は20世紀と違い本などなかったが、ゴロツキの顔役だったのも 乱世社会では極めて有利な条件だ。朱元璋が身を投じた紅巾の乱は白蓮教な どの宗教結社集団が引き起こしたもの。共産主義と白蓮教はもちろん違うが、強力な教義を持つのは共に同じ。劉邦、朱元璋、毛沢東も乱世に頭角を現した点も 酷似している。もし、毛沢東が劉邦の時代に生まれたなら、彼もまたゴロツキの頭的存在になった可能性もある。毛は故郷で歴史教師をしていた頃は、だらしな い格好で教室に来る不良先生だったのだから。
中国歴代王朝は皇帝、官僚、儒教に支えられていたが、共産体制では書記長、共産党員、共産 主義に代わった。儒教より共産主義のほうがより一層人民を効果的に奉仕させたが、科学が飛躍した近代の事情が大きい。毛沢東は出版社を傘下に収め、共産主 義本やパンフレットを大量に発行したのは、プロパガンダの重要性を認識していたのを如実に示している。交通、通信という文明の利器もフル活用できた。劉邦 の先輩格の陳勝・呉広でさえプロパガンダに長けていたほどだ。
宗教否定の共産主義は実は驚くほど宗教、しかも一神教に酷似している。階級闘争、世界革命、人民、平等…などのお題目を挙げれば、聖戦、伝道、信徒と置き 換えれば特に代わり映えしない。人民の献身的死も殉教精神と同じ。マルクスがユダヤ人でラビ(宗教学者)の家系だったのを思えば、共産主義も一神教の変種 だったと言えるだろう。サーサーン朝ペルシア時代にも共産主義的新興宗教を説いたマズダクがいる。
「宗教」掛かりであれば、左派の連中が毛沢東批判など端から受け付けられないのは当然。オウムや創価学会信徒が教祖を批判できないのと同じく、彼らは非共産圏の国で共産革命を一生夢想し続けるだろう。
儒教が宗教か否かは議論が分かれるところだが、心身ともに拘束する強力なドクマを持っていたのは確かだ。歴代中国王朝は政権樹立時も儒教精神を掲げて前王 朝を倒したので、伝統社会や村落共同体的秩序にはまず手を出さなかった。儒教の重圧を知りぬいている近代中国革命家が、儒教に代わる国家原理に共産主義を 求めたのは無理もない。
「理想に取り憑かれた極悪人」なら歴代の専制君主も大同小異だろう。皇帝たちは[民が自由に平和に人間らしく生きる中華主義社会を目指す]という“気高き”理想を持っていたし、それを支えた絶対教義が儒教。だから酒池肉林生活など問題ない。
ただ、「ヒューマニスティックで清く正しく美しい」理想は左派ばかりでなく、中道、右派も大差ない。毛沢東や中国古来の英雄の“理想”は通常は理想主義とは呼べず、「理想に取り憑かれた極悪人」とは、誇大妄想に憑かれた独裁者の狂気の別の表現に過ぎない。
TB主はホメイニを引き合いに出しているが、「ホメイニもパーレビも、ローカルなレベルのローカルな人物で、もちろん世界史に残るようなレベルの偉人でもない」 とのコメントで、この人物の世界史観が知れる。あれでもホメイニはイラン史のみならず中東史に名を残す人物であり、ペルシア帝国の面影はないもののイラン は依然として中東の大国。その著名人を「ローカルなレベルのローカルな人物」とは、ひどくイランも見くびられたものだ。アヤトラ(シーア派上級宗教指導 者)の称号を得ていたほどなので、ホメイニと比べたら、毛は人格的にも比較にならぬほど格落ちの男となる。
ただ、共通点もある。神を愛するあまり人間を憎むようになった人物と、自己愛のあまり革命同志を憎悪した男。統治者の最重要義務たる国民の食と安全を徹底して怠ったこと。
TB 氏はどうも『マオ』を読んだブロガーの多くにTBを送っていたようだが、この手法では著者ユン・チアンへの反論としてもなっていない。「理想があったから こそ極悪だった」では、保守、中道、左派全てに到底支持されないのが現状。読者におもねるべきではないが、読者がどう感じるかを読み取れないようでは、単 なる皮相的批判のための自己満足で終り。
毛沢東への弁護者、共産主義体制の特殊性を強調することで、餓死者三千万を出した惨状を擁護したい人な ら、受け入れられる内容だろう。毛沢東と毛沢東支持者を馬鹿と罵ったところで、常識人は狂信者に意外に弱いものなのだ。毛沢東、毛沢東支持派を馬鹿で片付 けるのは、早急で底の浅い結論の見本である。
「人間ならば誰にでも、全てが見える訳ではない。多くの人は、自分が見たいと欲することしか見ていない」-カエサル
◆関連記事:「マオ上巻 その①」「マオ上巻 その②」
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「ユンチアンよ、貴女の手法じゃあ、毛沢東と毛沢東支持の馬鹿どもに引導を渡せないぞ。引導を渡すためには、毛沢東を“理想なき極悪人”として描くんじゃダメだぞ。“理想があったからこそ極悪だった”としないとダメだぞ」
私は記事の内容よりも、「理想に取り憑かれた極悪人」の結論を導くため、あれだけ長文を書いたTB送信者のエネルギーが興味深い。たとえ平日朝からネット している暇人であれ、興味や共感を抱かない物事には長文の記事はまず書かない。職業作家、無名のブロガー問わず、興味のあることには筆を費やすものだ。 「毛沢東の著述と論文を読み」込んだ程なので、「「関心と共感」を寄せるほどの人物ではない」とのコメントは下手な詭弁である。
「わたしのHPには政治思想的な内容の論評を載せることに若干躊躇するものがあり」と、意味深な箇所もある。
そして、毛沢東と劉邦や朱元璋の ような中国歴代の英雄たちとは「「本質」的に違う」という意見には全く賛同出来ない。街のゴロツキ上がりや飢餓を回避するため反乱に参加した英雄と、読書 家でマルクス主義を学んだインテリの違いはあるものの、本質的な差は変わらない。劉邦の時代は20世紀と違い本などなかったが、ゴロツキの顔役だったのも 乱世社会では極めて有利な条件だ。朱元璋が身を投じた紅巾の乱は白蓮教な どの宗教結社集団が引き起こしたもの。共産主義と白蓮教はもちろん違うが、強力な教義を持つのは共に同じ。劉邦、朱元璋、毛沢東も乱世に頭角を現した点も 酷似している。もし、毛沢東が劉邦の時代に生まれたなら、彼もまたゴロツキの頭的存在になった可能性もある。毛は故郷で歴史教師をしていた頃は、だらしな い格好で教室に来る不良先生だったのだから。
中国歴代王朝は皇帝、官僚、儒教に支えられていたが、共産体制では書記長、共産党員、共産 主義に代わった。儒教より共産主義のほうがより一層人民を効果的に奉仕させたが、科学が飛躍した近代の事情が大きい。毛沢東は出版社を傘下に収め、共産主 義本やパンフレットを大量に発行したのは、プロパガンダの重要性を認識していたのを如実に示している。交通、通信という文明の利器もフル活用できた。劉邦 の先輩格の陳勝・呉広でさえプロパガンダに長けていたほどだ。
宗教否定の共産主義は実は驚くほど宗教、しかも一神教に酷似している。階級闘争、世界革命、人民、平等…などのお題目を挙げれば、聖戦、伝道、信徒と置き 換えれば特に代わり映えしない。人民の献身的死も殉教精神と同じ。マルクスがユダヤ人でラビ(宗教学者)の家系だったのを思えば、共産主義も一神教の変種 だったと言えるだろう。サーサーン朝ペルシア時代にも共産主義的新興宗教を説いたマズダクがいる。
「宗教」掛かりであれば、左派の連中が毛沢東批判など端から受け付けられないのは当然。オウムや創価学会信徒が教祖を批判できないのと同じく、彼らは非共産圏の国で共産革命を一生夢想し続けるだろう。
儒教が宗教か否かは議論が分かれるところだが、心身ともに拘束する強力なドクマを持っていたのは確かだ。歴代中国王朝は政権樹立時も儒教精神を掲げて前王 朝を倒したので、伝統社会や村落共同体的秩序にはまず手を出さなかった。儒教の重圧を知りぬいている近代中国革命家が、儒教に代わる国家原理に共産主義を 求めたのは無理もない。
「理想に取り憑かれた極悪人」なら歴代の専制君主も大同小異だろう。皇帝たちは[民が自由に平和に人間らしく生きる中華主義社会を目指す]という“気高き”理想を持っていたし、それを支えた絶対教義が儒教。だから酒池肉林生活など問題ない。
ただ、「ヒューマニスティックで清く正しく美しい」理想は左派ばかりでなく、中道、右派も大差ない。毛沢東や中国古来の英雄の“理想”は通常は理想主義とは呼べず、「理想に取り憑かれた極悪人」とは、誇大妄想に憑かれた独裁者の狂気の別の表現に過ぎない。
TB主はホメイニを引き合いに出しているが、「ホメイニもパーレビも、ローカルなレベルのローカルな人物で、もちろん世界史に残るようなレベルの偉人でもない」 とのコメントで、この人物の世界史観が知れる。あれでもホメイニはイラン史のみならず中東史に名を残す人物であり、ペルシア帝国の面影はないもののイラン は依然として中東の大国。その著名人を「ローカルなレベルのローカルな人物」とは、ひどくイランも見くびられたものだ。アヤトラ(シーア派上級宗教指導 者)の称号を得ていたほどなので、ホメイニと比べたら、毛は人格的にも比較にならぬほど格落ちの男となる。
ただ、共通点もある。神を愛するあまり人間を憎むようになった人物と、自己愛のあまり革命同志を憎悪した男。統治者の最重要義務たる国民の食と安全を徹底して怠ったこと。
TB 氏はどうも『マオ』を読んだブロガーの多くにTBを送っていたようだが、この手法では著者ユン・チアンへの反論としてもなっていない。「理想があったから こそ極悪だった」では、保守、中道、左派全てに到底支持されないのが現状。読者におもねるべきではないが、読者がどう感じるかを読み取れないようでは、単 なる皮相的批判のための自己満足で終り。
毛沢東への弁護者、共産主義体制の特殊性を強調することで、餓死者三千万を出した惨状を擁護したい人な ら、受け入れられる内容だろう。毛沢東と毛沢東支持者を馬鹿と罵ったところで、常識人は狂信者に意外に弱いものなのだ。毛沢東、毛沢東支持派を馬鹿で片付 けるのは、早急で底の浅い結論の見本である。
「人間ならば誰にでも、全てが見える訳ではない。多くの人は、自分が見たいと欲することしか見ていない」-カエサル
◆関連記事:「マオ上巻 その①」「マオ上巻 その②」
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このTB主はマオを「理想に取り憑かれた極悪人」と信じたいそうですが、それこそ、”理想”という美名に酔った者に思えます。酒酔い者も迷惑という面では同じかもしれませんが、翌日には辛い現実(腹痛や、吐き気、自己嫌悪など)に直面します。この者には現実を真に見られるか。興味深いですね。
私はマオに関して、真実を知っているわけではありませんので、あくまでも想像の域を達していません。しかし、それでも一言、言わせていただけるのなら、彼は「理想に取り憑かれる」程、ロマンチストでもなければ、極めて冷酷な「現実主義者」だと思います。そうでなければ、あのような大国を治められる筈もなく、かのような虐殺などできる筈がない、と思います。
共産主義は唯物論者(というか、唯金銭論者)ですので、神も仏も何もなく、自分に利益になるようなら、仏陀でも、キリストでも、何でも利用しますし、自分の先祖を辱めるのも、○とも感じないのでしょうね。いわゆる、靖○問題にしても、自己の利益追求のみの姿勢を真に受けるのもア○らしく思えます。
私は、mugiさん程、知識も、冷静さもないですが、やはり、近親眼的に物事を見るのは危険だと思いますし、物事の真実が見えてこないと思います。
現在でもいざ知らず、幕末、明治時代でも、アジア諸国だけで歴史が動いたわけではなく、欧米の圧力があってのことであることを知るべきでしょうね。
まぁ、そういうアジアも一つでなければ、欧州も一つでない。多様化とかいう以前に、簡単にまとめる事ができない現実を、果たして、現在の人間も、未来の人間も理解できるのでしょうか?
このTB主は一見左派をおちょくったり、毛沢東と毛沢東支持者を馬鹿呼ばわりしてますが、本音はユン・チアンの本『マオ』を貶めることにあるのは明らかでしょう。あの本を鵜呑みにしたと思われる、私のような者を対象にTBを送りつけたのだから。
日本在住なのは確かでしょうが、未だに「中国革命の意義を全否定するな!」なんて、気勢を挙げる者がいた方が驚きました。まさに共産主義こそアヘンですね。
毛沢東と中国古来の英雄を一緒に出来ないとの結論が異色ですね。いかにマルクス主義の影響を受けたとしても、ミュータントではない。私は毛沢東と英雄たちを別途にしたがるところに、このTB主の本性を見た思いです。
ブログは本文よりもコメントにブロガーの本音が表れるものです。TB主もコメントで尻尾を出したというか、あの退屈極まる(しかも、前置きが長すぎて出来もよくない)長広舌記事のわりに、世界史観は欧米と中国中心なのが分かって笑えます。この手法で著者をやり込めたつもりなら、幼稚な独り善がりですね。
更新もないところを見れば、おそらく釣りブログでしょうが、関心を持たれない限り釣りとしても失敗。
私は共産主義や毛沢東礼賛者にこう言いたいですね。共産圏へ行け!そこで朽ち果てろ!と。
専制=暴虐という短絡が間違っていて、古今東西を問わず皇帝や王や
英雄達にとっては民こそが財産ですから真面目に経世済民しています。
始皇帝や煬帝や朱元璋はむしろ真面目にやり過ぎたのでしょう。
近代になって、文化大革命やポルポトのような暴虐な思想統制や粛正
が社会の隅々にまで達したこと(すなわち全体主義の理想を追い求める
ことが可能になったこと)は、近代兵器(特に自動小銃)により軍事権力
が民衆を圧倒したところが大であって、共産主義や毛沢東などの特殊性
によるところは小さいのかもしれません。
仰るとおり中国古来の英雄たちは毛沢東のやり方を見たら、あれほど経世済民しなかった奴はいないと怒るでしょうね。
朱元璋の粛清対象は支配階級であり、文革のような民を苦しめるものではなかった。
ただ、古典好き毛沢東は英雄たちの手法は、かなり参考にはしてました。英雄たちも政権確立後、晩年どこか狂ってくるのは覇者の宿命でしょうか。
毛沢東やポルポトのような全体主義が可能となったのも、近代科学によるところが大なのでしょう。
もっとも独裁者特有の誇大妄想に取りつかれた彼らは、あれでも“経世済民”したつもりになっていたと思います。