その一、その二の続き
イラン・イラク戦争でイランは、百万人もの犠牲者が出たと云われる。戦場の兵士はもちろん、度重なる空爆のために首都テヘランでも多数の民間人が亡くなっており、身体生命は何とか無事でも家族や家屋を失った人々は大勢いる。
ファリンの通う名門女子校の生徒も空爆で幾人も死んでおり、犠牲になった生徒のために行われた追悼式は数知れない。この女子校に転校してきたサディーラも、母や兄たち、祖父母は空爆で亡くなり、残ったのは父だけだった。ちなみにイラクの推定戦死者は最大40万人とみられ、イランの半分以下だったという。
wikiのイラン・イラク戦争には興味深い解説が載っている。中国は1980年から1988年までイラン最大の武器供給国だったが、その裏で中国はイラクの反発を避けるために、その2倍以上の武器を同国にも供与していた。当時のCIAはこんな報告をしている。
「中国はイラン最大の武器供給国だが、皮肉なことに中国最大の武器取引相手はイラクである」
もちろん欧米各国もイラン・イラク双方に武器供給をしていたのは書くまでもない。他にイランに武器を提供したのはイスラエル、アラブ諸国でもシリアやリビア、北朝鮮などだった。これでは8年に及ぶ戦争になったのも当然だろう。
テヘラン北部の街中の様子には、これが戦時下というものか……と痛感させられた。イランでは大勢の少年兵が参戦しており、当時の社会状況が伺える個所を引用したい。
―通りは少年であふれかえっていた。ほとんどの子がファリンくらいの年齢だが、少し大きい子も混じっている。みんな頭に殉教の意気込みを示す赤い鉢巻きをしている。
「革命のために、喜んで死ぬぞ!」
一台の車からぶら下がった拡声器で、聖職者がスローガンをさけんだ。
「革命のために、喜んで死ぬぞ!」少年たちが繰り返してさけぶ。
「敵に死を!」「敵に死を!」
「イラクに死を!」「イラクに死を!」
「アメリカに死を!」「アメリカに死を!」
「われわれは、天国で英雄となるんだ!」「われわれは、天国で英雄となるんだ!」
この集会をしていたのはバシジ。本書ではバシジとはホメイニの命で集められた有志の準軍事組織で、少年たちを鼓舞して戦争の前線に送り出している、と解説している。日本の戦時中の竹槍に対し、イランでは赤い鉢巻きがアイテムだったようだ。尤も竹槍訓練を揶揄している類こそ、戦時中には積極的に一億玉砕のスローガンを叫ぶタイプと私は見ている。
通りで集会を見ていた女たちの会話も重いものがある。
「集会のたんびに、集まる子たちがどんどん若くなるね」
「何いってるんだい?それって、批判しているみたいじゃないか。あんた、政府に盾つくの?イランがイラクに占領されて、サダム・フセインの支配をうけたほうがいいっていうのかい?」
「あたしのいいたいのはね、この二、三年で天国の住民の声がずいぶんかん高くなっているってこと。あたしのふたりの息子は、もう天国に召されちまったよ。きょうは末の息子が、この集会に参加してるってわけさ」
戦争終結後、義勇兵として戦場に送られたバシジの少年兵が帰ってきた。帰ってきた少年兵の多くは包帯を巻いていて、足を引きずっている少年、正気を失ったような荒々しい目つきの子もいた。彼らは隊列を組んで行進しようとしているらしいが、歩調がバラバラで行進にならない。負傷兵が多すぎるのだ。
ファリンより年下らしき少年兵の振舞は考えさせられる。片目に血の付いた包帯をして、壁にペンキで描かれたホメイニの大きな肖像画の前に立ち止まる。長い間、少年は肖像画の前に立ったまま、包帯をしていない方の目で画を見上げていたが、泥の水たまりに身をかがめ、片手に泥をすくいとるや、ふりかぶって壁に投げつけた。泥玉はホメイニの顔のど真ん中に命中した。
ここまでせずとも、赤い殉教者の鉢巻きをした少年たちの多くは、おおっぴらに泣いていた。殉教を説いていた聖職者の中には、子弟を密かに海外に移住させた者もいたと云われる。
その四に続く
坂井三郎さんの著書「大空のサムライ」が
世界中で翻訳され大ヒットしており、特に反米
になってから、アメリカに一泡吹かせた先駆者を見習い、イランでも空軍人は必読の書だったらしいです。勿論最新のジェット戦闘機にプロペラ機の戦法が使えるわけでなく心構えや精神教育としてのものですが。そー言った影響で日本軍のパイロットが鉢巻を締めて戦いに臨むスタイルが定着していったという話を聞いたことがあります。
もっともイラン空軍は革命直前までアメリカの戦闘機を用い、アメリカ流の教育作戦スタイルを叩きこまれた集団でしたがw
武器輸出の件
イラク相手には米英ソ中仏伊ブラジルチェコハンガリーともう売れる国はどこも売ってるますね。
中国は数年で3000両も戦車をイラクに売ってます。イラン分と合わせると濡れ手に粟だったでしょうな。現在自衛隊の総保有量約500両、独250両 英国200両弱 仏300両強
ロシア2500両と考えると膨大なことがわかっていただけると思います。
アラブの春よりも前の海外特集番組で、日本の学徒出陣の映像を熱心に見ていたエジプトの若者が登場していました。意外に日本の戦時中のスタイルが中東に与えた影響は少なくない?
>>もっともイラン空軍は革命直前までアメリカの戦闘機を用い、アメリカ流の教育作戦スタイルを叩きこまれた集団でしたがw
そのため革命後はシャーや米国の手先と見なされ、多くの将校が粛清されました。イラン・イラク戦争の緒戦でイランが連敗したのはこのためです。
武器輸出の件は驚きました。国連常任理事国はともかく、伊ブラジルチェコハンガリーまで売っていたとは!軍事に疎い私には大変勉強にりました。