その一、その二、その三の続き
男尊女卑が当然と思い込んでいる封建オヤジとは一見真逆のようで、ツスベックの「家父長制で主に損をしていて、このような社会変革に支持的であっていいはずの女性」というのも男尊女卑が滲み出ている。
夫婦同姓は家父長制の残滓であり、女は主に損をしているというのは全くの世間知らずの思い込みの見本であり、当人の固定観念的な押しつけに外ならない。
では夫婦別姓の国は家父長制がないとでもいうのか?儒教圏は夫婦別姓だが、出生時には女児に比べ男児の比率が極めて高い。要するに女児間引きの国々であり、この現象はインドと張れる。そして韓国では独身というだけで女性大統領は中傷されていたし、中共は台湾の女性総督が独身であることを挙げ、凄まじい人格攻撃をしていた。
欧米諸国も未だに夫婦別姓が過半数以上を占めている。夫婦別姓が嫌なら事実婚という手段もあり、夫婦別姓で結婚を躊躇うの云うのは奇妙な言い訳に感じる。
多様性は左翼の好むフレーズだが、女性と一括りにするのは多様性を認めない全体主義に通じる。女性全てが「社会変革に支持的であっていいはず」という個所こそ、この者の女性観が如実に表れている。とかく女は家にいて、家事育児に専念する方が幸福と信じて疑わないマッチョと同類にしか見えない。具体的な社会変革のメリットを示せず、社会変革といえば女は支持的であっていいはずというのも女性蔑視の表れだろう。
2006年6月、拙ブログにフェミニストを自称する女ブロガー、マダム・クニコ氏からコメントとトラックバックがあった。クニコ氏のコメントにはこんな文句がある。
「ぬるま湯では、女性の状況は100年後も変わらないのです。痛みを伴わないと・・・。弱者は保護されても、自由を奪われてしまいます……」
以下は私のレス。
「痛み」と仰られても、いかに理想に燃えても支持も得られず、賛同者も集められない状態なら、独り善がりのグレースと同じでしょう。
「自由」というのがまた曲者ですよ。無秩序状態もまた「自由」が保障されてますが、この様な時は一番被害を被るのが女子供の弱者です。動乱時を思い起こせば分かるでしょうが、女子供を「自由」に踏みにじるのは歴史上繰り返された事です。
申し訳ありませんが私はフェミニズムには共感を持ってませんので、皮肉なコメントと思われるでしょうが、人の考えには多様性がありますので、ご容赦の程を。フェミニストは異なる価値観も認めて下さいますよね?
痛みを伴うことを同性に求めるマダム・クニコ氏だが、本人はどんな「痛み」を実践しているのか?この類こそ常に安全圏で活動を利権手段としている日本の女人権屋に思える。女は元来シビアなくらい現金だし、フェミニストは利益がある案件でなければ取り合わないと既に知られている。
まだクニコ氏は知的だが、フェミニストになれば、「頭も良くて、銭もあって、柔軟性あって、話も面白くて、仕事廻してくれる男と出会う率高い…」と能天気に書いていた女もいた。三十路ちかくでこれでは救いようがない。
塩野七生さんは、「女たちへ」と題したコラムでこう書いている。
「これまで長く女たちが活用されてこなかったのは、男たちが妨害したからか、それともわれわれ女の側に、戦略が欠けていたからか。
つまり「男社会」と叫ぶだけで、われわれ女の無策による責任を転嫁してきはしなかったか。なにしろ男女同等を叫ぶこと七十年である。企業でも七十年も成果を出せなければ経営陣はクビだが、フェミニズムの世界ではこの原理は通用しないらしい。これって、普通に考えてもオカシクないですか」
女性ジャーナリスト・有本香氏のツイートはストレートすぎる正論で感心させられた。
「「女性がいい」とか、これこそ差別でしょうよ。今から組織委の会長を受けるというなら、修羅場を仕切れるかどうかの「力」しか人選のポイントはないはず。男女という属性ありきな話になるという現状こそ、「女」を看板にしてこの混乱を誤魔化そうとの差別的意図ミエミエな茶番。女性として実に不愉快。」(2021年2月12日)
アルファブロガー・鈴木傾城氏の記事、「女を追い込むフェミ。男女平等を叫びシングルマザーを困窮させた女性解放論者どもの罪」は実に辛辣だ。鈴木氏は、「フェミニストが「男女は平等なのだから、男が面倒見るなんて考え方は傲慢だと言うので、男は「面倒をみなくていいなら、それは都合がいい」と重荷を下ろした」と述べているが、フェミニストが台頭する以前でもロクに養育費を払わない男は珍しくなかった。
元から鈴木氏はフェミニストには厳しいが、この主張はいささか強引で性急な結論に思える。ただ、「何が何でも俺が妻子の面倒を見る」と断言する男は世の中から消えずとも、絶滅危惧種になりつつある。
◆関連記事:「女記者たちへ」
「中ピ連とフェミニズム」
レーニンはソ連の体制を称賛する西欧の知識人を、「役に立つ愚か者」と嘲笑っていたそうです。そしてサッチャーが、「フェミニズムは毒だから嫌い」と発言したことは初めて知りました。英国にも左翼知識人は少なくなかったし、連中はとかくサッチャーを目の敵にしていました。その1人ロナルド・ドーアは、「私の国も含めて、困らせるべき政府が多いと思われませんか」とまで言っていた。
https://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/19bfd0854481e332fa91eb2e2bcb075d
>>伝統的なもの=古いもの=悪いものという単純図式の支配的な空気が醸成されているようで、危惧しています。
全く同感です。明治維新の時もそのような空気が醸成されましたし、それが近代国家に変貌する原動力にもなりました。しかしその代償も凄まじく、廃仏毀釈もそのひとつです。とかく日本人は新し物好きで、流行りには早々に飛びつく悪癖があります。
ソ連の「フリー・ラブ」実験の失敗
https://www.epochtimes.jp/p/2017/04/27147.html#google_vignette
簡単に言うと伝統的な家族形態の解体です。結婚は形骸化し、男性は家庭を放棄するようになり、結果として一番被害を蒙ったのは女性や子供達でした。
家庭を知らない子供達は、非行に走り、こうした中は、国力維持の為に元に戻さざるおえなくなったのです。
ソ連の「革新」的な実験がもたらした大惨事
http://poppo456.music.coocan.jp/in/b_cobet.htm
独裁者スターリンが、かなり強権を振るったようですが、そのくらいでないと揺り戻しが不可能だったのでしょう。
頭の赤い人達が、家庭を敵視するのは、家庭を潰せば、国そのものを潰すための革命の基盤となることを十分理解しているからなのだと思います。
マーガレットサッチャーは、「伝統的な家族こそ国家の原動力」「フェミニズムは毒だから嫌い」と発言したとのことですが、国家を思想的な侵略から防衛する為に、伝統の力を見直してもよいと思います。
もちろん伝統の中にも悪いものがあり、なくしたり、変えたりすることも必要になってきますが、伝統的なもの=古いもの=悪いものという単純図式の支配的な空気が醸成されているようで、危惧しています。
今回のコメントで遅ればせながら、5月5日は祝日なのに、3月3日がずっと平日のままだったことに初めて気付きました。そして「桃の節句も国民の祝日にして、休みにしろ!」という意見は聞いたことがありませんが、考えてみればこれは明らかにおかしい。男(児)尊女(児)卑と見なされて当然です。
「フェミニスト(に擬態した反日シンパ)」には、桃の節句は男女平等の観点から廃止を訴える主張をする者もいるとか。しかし端午の節句にはダンマリ。ひな祭りも時代錯誤という輩もいるようで、日本発祥の伝統行事を潰すことを目論んでいるはず。
厄介なのは世界各国に千人近くもの同志がおり、学術研究を歴史歪曲と非難しているのです。
https://chukan01988.blog.fc2.com/blog-entry-460.html
5月5日、端午の節句は、もともと男児のお祝いで国民の祝日となって久しいが、3月3日、桃の節句は女児のお祝いなのにずっと平日のままだ。これ、男(児)尊女(児)卑じゃないのか? しかし不肖のらくろの見聞きする限り、「3月3日も国民の祝日にして、休みにしろ!」という意見はない。
「いや、5月5日は『子どもの日』だから」というのは日本国政府の言い訳であって、日本人で常識人なら5月5日の由来は十分すぎるほど知っているはず。
「3月3日を国民の祝日に!」という主張は女だけでなく現役世代を中心とした男も巻き込んで、全国民的ムーブメントにし易いのではないか? 抵抗するのは「K(uso)J(i)J(i)I」だけで、それも「なぜダメか?理由を述べよ!」でシドロモドロになるはず。
これに「フェミニスト(笑)」がダンマリなのは、「奴ら」の目的は「男女格差の是正、男尊女卑の解消」よりも「日本をブッ壊す!」の方がはるかに優先しているからに他ならない。