その一、その二の続き
確かに飛鳥圭介氏のコラム「国民の敵」だけをぱっと読んだ限りでは、文脈から見て男女同権派っぽいと誤解するかもしれない。しかし何年にも亘り飛島氏のコラムを見ている者であれば、難読症でもない限り男女同権派ではないことが判るはず。そもそも氏は男女同権や男女平等をコラムで主張していなかった。
売文業だけあり、露骨な男尊女卑や女性蔑視の発言こそなかったが、女や若者には辛口な主張が結構見られた。何年も前だが、虫の居所が悪かったため、山道の途中で声をかけてきたおばさんを怒鳴りつけたという内容のコラムがあったことを憶えている。
また昨年後半には、何か失態をした若者を怒鳴りつけたことを書いていた。若者は礼儀正しく、「分かりました。でもそれほど怒鳴らなくとも」と言われたそうだが、飛島氏は結構キレる老人らしい。
どうしたものか河北新報では、これまで飛島氏の経歴を全く紹介していないが、検索したら『おじさん図鑑』は書籍になっていたことを知った。プロフィールが載っているサイトがあり、『おじさん図鑑』が刊行された当時、「1948年静岡市生まれ。静岡商高を経て法政大学社会学部社会学科卒。コラムニスト。日本ペンクラブ会員、日本文芸家協会会員、日本山岳会会員」と掲載されていたという。
『おじさん図鑑』を読んだ昭和一桁生まれの私の母は、飛島氏を戦前生まれと想像していたが、実は戦後生まれの団塊の世代だった。この本へのAmazon書評には辛口な意見もあり、そのふたつを引用したい。
「レビューにもあるように、前はおじさんという生き物のどこか憎めない側面が切り取られた記録でしたが、今はなんとなく政治などの社会的な視点からの物言いが多くなり、口うるさいコラムに見えてしまいます……」(なちさん)
「共感できるテーマもありますが,文章はいただけない.自身礼讃と他者批判.その繰り返し.内省的な視点は皆無.わたしにはとっても不快です」(docentreさん)
あえて付け加えれば、内省的な視点は皆無ではない。以前はそれがあったが、最近は鼻持ちならない自身礼讃が目に付くようになった。以上からも飛島氏の人物像が伺えよう。
飛島氏が非難した通り、「だったら結婚しなくていい!」という自民党の女性議員によるヤジは品位に欠ける。氏のコラム「国民の敵」からその個所を再び引用する。
「新聞の第一報では自民党の女性議員として、名は伏せられていた。この記事を読んで、おじさんは怒るのを通り越してグッタリしてしまった。結婚は国民の大事な権利の一つだ。それを議論の前提もなく「文句があるのならやめろ」とは耳を疑うヤジだ。
国会で総理大臣自ら「意味のない質問だ」とヤジを飛ばす愚劣さにも驚いたが、それ以上に人間性を疑うひどいヤジだ。しかも、これが女性議員だったとは言葉を失う。むやみに威張りちらし、人を見下してモノを言う某大臣に匹敵する傍若無人さであろう。ワシらの国会は、いつからこんな人品卑しい議員たちのやりたい放題のたまり場に成り果てたのか」
コラムからむやみに威張りちらし、人を見下してモノを言う点では飛島氏も同じだろう。例え団塊世代でもこの類は人品卑しいとしか言えない。だが国会とは、ひどいヤジが飛び交う場であることをコラムニストなら知らないはずがない。FNN PRIME の「与野党ヤジ国会!」(2020年3月6日付)という記事に紹介されているヤジは興味深い。
国会議員となれば男女同権であり、女といえどもヤジを飛ばす権利を有している。にも関らず飛島氏は、「これが女性議員だったとは言葉を失う」と述べているのだ。ツスベックの「家父長制で主に損をしていて、このような社会変革に支持的であっていいはずの女性がステータスクオの維持に肩入れしている」という嘆き」という見方は、的外れの拡大解釈に過ぎない。
飛島氏が真の男女同権派であれば、これまで女性蔑視発言をする人物を批判していたはずだし、これぞ「国民の敵」と糾弾していただろう。しかし、そのようなことは皆無だった。私には「女だてらに人間性を疑うひどいヤジを飛ばしやがって……」という思いが文面から伺える。
この辺りには女は敏感であり、これぞ男尊女卑が滲み出ている。1948年生まれでも受けた教育は戦前思想とは無縁とは言えず、「これは女は常に淑やかにして余計なことは言うな!…」という本音が出た印象を受けた。
私の解釈を悪意や被害妄想と取る向きもあろう。しかし悪意や曲解では飛島氏も同じなのだ。私自身も口が悪く、父親や上司、同性からも「女の子がそのようなことをいうものではない」と注意されたことがある。注意を受けても私は黙る性質ではないが、同じようなことを言われた女性は他にもいるだろう。
その四に続く
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