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マハーラーナーと呼ばれた王 その二

2012-09-09 20:40:23 | 読書/インド史

その一の続き
 即位から22年後の1559年、ウダイ王は要塞チットールガルの修復と共に己の名を冠した都市ウダイプル、つまり「ウダイの町」の建設を開始した。だが、その9年後の1568年、チットールガルはムガル皇帝アクバルの攻撃を受け、全土あげての激しい攻撃も空しく、数万の兵士の犠牲と共に廃墟と化す。

 総攻撃の前夜、戦士たちの後顧の憂いを絶つべく、城内では旅路のための薪が焚かれ、再びジャウハルが決行された。9人の妃、5人の王子、残された重臣の家族全て、そして高さ150メートル周囲5キロに及ぶ広大な大地に建つ要塞に住いしてきたラージプートの家族たちが、聖なる火の中に次々と飛び込んでいった。
 城砦内には15世紀半ば、マハーラーナー・クンバがイスラム軍を打ち破った時記念に建てられたジャイ・スタムバ(勝利の塔)があったが、翌日この記念塔と寺院の間には、骨灰が分厚い層になって堆積していたという。チットールガルは廃墟となりつつも、台地の上に今も残っているそうだ。

 次のメーワール王、マハーラーナー・プラタープ・シンも勇猛の誉れ高い人物だった。異教徒アクバルに帰順するよう勧めに来たヒンドゥーの王マーン・シンを嘲笑、彼に屈辱を与え、その恨みを買い1576年、ムガルの大軍を率いたマーン・シンに破れる。しかし城を捨てても王は屈服せず、アラヴァリ丘陵の山岳地帯(現ラージャスターン州)に立てこもり、その後の人生をゲリラ戦に捧げる。
 ここで王は木の実で食い繋ぎつつ、二十余年に亘りムガルの勢力と戦い、捲土重来の機を逸することなく、ついに領土の大半を奪い返している。強大なムガル帝国にも、「ヒンドゥーの光と生」と称えられたこのヒンドゥー王家だけが悩みの種だった。第三代アクバル大帝の代から半世紀近くも反旗を翻し続けてきたいわく付きの相手でもあったのだ。

 こうして長く続いた熾烈な戦いも、プラタープ・シンの息子の代で終結する。第55代マハーラーナー・アマル・シンは闘いの末、フッラム皇子の野営地を訪ね、ヒンドゥーの栄えある王としての扱いを条件にムガルと屈服、戦乱の時代は幕を閉じた。時に1614年2月18日、女たちのジャウハルとラージプート戦士たちの戦いは、これ以降メーワールの歴史の中でも末永く語り継がれることになる。
 ちなみにこの時のムガル皇子フッラムとは後の第5代皇帝シャー・ジャハーンタージ・マハルの建造者として名を残した人物。ムガル側でもメーワールの恭順に安堵したらしく、「アマル・シンを屈服させたフッラム皇子」として、腰をかがめ皇子に手を差し伸べているメーワール王の細密画が描かれている。

 帰順後、ウダイプルでは都市整備が進み、宮殿や寺院が建設された。宮殿や寺院を飾る細密画もムガルの影響を受け、主題もヒンドゥー的宗教画から広がり、肖像画なども描かれるようになった。インド=イスラーム文化が花開く時代となったのだ。それも教条的ムスリムの第6代皇帝アウラングゼーブの治世から、再びヒンドゥーとムスリムの対立が激化する。
 メーワールのように玉砕も辞さず戦ったのはヒンドゥーの諸王でも例外的だったし、ムスリムも一枚岩ではなかった。インドでもシーア派は少数だが、中にはヒンドゥーと組みスンナ派と共闘する者もいた。多数派ムスリムにもムガルに抵抗する藩主国もあったのだ。

 現代の倫理観ではジャウハルなど忌まわしい限りだし、戦争の惨禍で片付けられる。しかし、インドの“集団自決”はこの時代だけでなく、20世紀の宗教暴動でも起きている。この時女は火に投じたのではなく井戸に飛び込んだ者が大半だったが、ヒンドゥーはもちろんムスリム、シク教徒も同じ行動をとっていたのは興味深い。どこか戦時中の我が国の集団自決に通じるものを感じるのは、私だけではないと思う。

 欧米人ならこれを東洋的後進性と一蹴するだろうが、植民地や新大陸の原住民の手に落ちる前、自ら命を絶った白人女を讃えていたのである。近代以前に戦で敵に捕らわれた女なら、たとえ命は保障されても、奴隷同然の待遇だったのはどの文化圏も一般的だった。中には16世紀オスマン帝国ヒュッレム・スルタンのようにハレムの奴隷から皇后になった女もいたが、このようなケースは極めて稀である。前身が王妃や王女でも、奴隷となれば庶民以下なのだ。自由民として死ぬか、奴隷として生き長らえるのか、どちらが幸福なのか私には結論は下せない。
■参考:『インド ミニアチュール幻想』(山田 和(かず)著、文春文庫)

◆関連記事:「インド三国志
  「ヒンドゥーとムスリム
  「現代マハラジャ事情

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8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
自決か結婚か (室長)
2012-09-09 22:56:23
こんばんは、
 インドで女達が、男達の戦意を緩めないようにと集団自決が行われていた、とは、驚きです。

 他方、モンゴル族が活躍した頃、草原地帯の遊牧民男性は、戦に勝って男を殺し、女を奪って自らの妻とする、これこそが生き甲斐、最高の喜び、とジンギスカンとかが言っていたように記憶する。奪われた女も、草原地帯では、女だけでは生き残れないので、新しい征服者の男を夫として迎え入れる。結構、諦めがいいというか。

  小生がもし女なら、戦の前に殉死などというのは、とても受け容れられない非合理と思う。遊牧民のように、負けたら、征服者の男性の妻となる方がマシ、と思うでしょう。ドライといえばそうだけど、近代人の感覚としては、集団自決は、とてもバカらしく見える。戦国時代の日本人の妻達も、そう簡単に自決はしなかったと思う。インドって不思議な世界ですね。
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RE:自決か結婚か (mugi)
2012-09-10 21:53:33
>こんばんは、室長さん。

 記事にしたジャウハルですが、インドでも少数のケースでした。多くのヒンドゥー藩主国は早々とムガルに服従、後宮に王女を入れて関係を結んだのです。その意味ではメーワールは特殊であり、それだからこそ歴史に名を残したと思います。彼等はラージプート族だし、もっと下のカースト層ならば、ジャウハルなどしなかったはず。

 この集団殉死は男のエゴもありますね。女たちもそのような考えを叩きこまれているし、「貞女、二夫にまみえず」のインド版?と言いたくなります。ヒンドゥーと違いムスリム女性は再婚は問題ありませんでしたが、再婚しない寡婦とは男心をそそるらしく、妻に自分の死後はヒンドゥーのように再婚するな、と命じたムスリム貴族もいました。もっとも妻は再婚してムガル皇帝の后におさまりました。前にこの妻について、記事にしています。
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/58eb433b47b1dc5a822dbfeba8c7deb9

 オスマン帝国は暫く正式な皇后はいませんでした。草原の遊牧民時代に負けた族長の妻が敵に囚われ、裸で食事サービスをさせられたことが原因だった…と塩野七生氏が書いていました。その慣例を破ったのが記事にも書いたヒュッレム・スルタンです。

 私も火に飛び込むなど、とても受け容れられません。何故そんな行為が出来るのか不思議でしたが、インド人は輪廻転生を信じているからでは?と言った人がいました。つまり何度でも生まれ変われるし、死を恐れないということです。
 戦国時代の日本人の妻達が簡単に自決しなかったのも、闘っているのか同民族と言うこともあるのではないでしょうか。インドの場合は異教徒、つまり“蛮族”だし、ヒンドゥー同士の戦いでジャウハルはあまり聞かないような。
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集団の美学 (室長)
2012-09-11 07:39:30
おはようございます、
 インドの中でも、特殊な部族の中での集団美学が、集団殉死ということですね。ムスリムという異民族相手の戦争ということもあった、というところは、確かに納得。

 サイパンでの、女性達の集団自決なども、米兵に犯されるよりは死ぬ、という集団心理、集団美学として成されたと思う。

 古代のギリシャでは、テーベという都市国家の軍隊は、兵士達がおホモ達として、男同士の「友情」というより「愛人関係」で結束を固め、その結果凄い団結力を誇り、マケドニア軍が攻略に苦労した、と読んだ記憶がある。これも一種の集団美学でしょう。

 また、お隣の新羅では、ファラン(花郎)という、貴族階級の子弟からなる精鋭部隊が王に直属する、という制度があり、戦争に出かける前には、彼らは「女のように白粉、紅で化粧して」出陣したと聞きます。死に顔が美しいようにとの集団美学だったという。とはいえ、もしかしたら、おホモ達関係も存在した?

 しかし、殉死そのものも、日本では乃木夫妻の明治天皇への殉死を最後に、終わったようだし、我々の「現代人感覚」からは、理解不可能な気分です。

 サイパンなどの崖から身を投じた女性達も、ナショナリズム、愛国教育の犠牲者とも思えて、小生としては、引いてしまう。

 輪廻転生をたとえ信じたとしても、飢えとか、生活苦とか、現実的に追いつめられた環境でないと、崖から身を投じるのは難しい。インドのこの部族のように、戦陣への出発前の夫への愛情確認として、穴の中の火をめがけて飛び込む・・・凄すぎる集団美学。でも、歴史には、不思議な事例がいっぱい出てくる。そこが面白いのですが。
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Re: 集団の美学 (motton)
2012-09-11 12:34:35
集団催眠のような感じでしょうか。修学旅行で深夜に盛り上がるようなものと思わないでもないです。

日本人の場合、属する社会(家族や友人)が無くなる=生きている意味がない、という心理もあるでしょうし、サイパン等の事例は当時の米兵の悪業が表に出てこない以上、実際にどういう状態だったか考えるのは難しいかもしれません。

PS.
新羅のファラン(花郎)についてですが、wikipedia によると軍事部隊というのは後世の創作のようですね。
化粧して出陣したのが本当であれば、これは殷の媚女やアマノウズメのような呪術戦のためのように思います。(後世では、花郎=男巫となりますのでおかしくない。)
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RE:集団の美学 (mugi)
2012-09-11 22:43:13
>こんばんは、室長さん。

 チットールガルのジャウハルは有名なので、ヒンドゥーの諸侯の多くはこのような抵抗をしたというイメージがありますが、やはり少数だったのです。インド知識人も、「インド人が重要視するのは輝かしい殉教ではなく、常に粘り強く生き延びること」と書いていました。もっとも、殉教の方が遥かにインパクトがあるので、記憶に残るのでしょうけど。

 古代ギリシアで少年愛や同性愛は当たり前でしたからね。アレクサンドロス大王も少年愛のたしなみはあったそうです。オスマン帝国最強と謳われたイエニチェリも、帝国中から頭脳や容貌の優れた少年たちを集めて結成されており、スルタンの男色相手をすることも珍しくなかったとか。ムガル宮廷にも美少年の小姓が大勢おり、彼らは単にスルタンの身の回りの世話をしていたのではありません。
 フランス宮廷にも化粧をして、派手な衣装をまとっていたおホモ兵士がいたこともあり、この種の兵士たちが文化圏を問わずにいたのは面白いです。

 乃木夫妻の殉死は当時でも時代遅れのように思われていたし、とても20世紀の出来事とは思えません。サイパンに観光に行った若い日本人の中には、ここから身を投じたなんて、バカみたいと言う人もいるそうです。その気持ちは分からなくもありませんが、バカみたいと言う気に私はなれません。

 イスラム側の記録に、モンゴルに攻められ、追い詰められた中国の数多くの乙女たちが城砦から身を投じたというものがあります。時代や民族が違っても、することは似ている。
 メーワールも妻の集団自決の後、夫たちは婚礼時に身につけたターバンを被って出陣、玉砕しています。ラージプート族の玉砕は妙に気になります。ただ、長くゲリラ戦をするのは日本では考えられませんが。
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RE:Re:集団の美学 (mugi)
2012-09-11 22:45:42
>mottonさん、

 仰る通り、玉砕や集団自決には集団催眠のような心理があるのは確かでしょうね。このような場合、理性を説く人がいても、到底聞き入れられない。

 属する社会(家族や友人)が無くなる=生きている意味がない、という心理は日本人特有ではなく、ラージプート族のように他民族にもあるのかもしれません。バラモンや庶民と違い、彼らは難民として逃れることもできない。それがあのような集団自決にも繋がった?
 英国の悪行を描いた『アーロン収容所』は有名ですが、米国も同じことをしているはずです。米兵の悪業が表に出てこないというより、隠蔽されている可能性もあります。

 wikiの新羅のファラン(花郎)について、こんな解説がありました。

「韓国では、第二次世界大戦の後、ナショナリズムに迎合した花郎讃美が大々的に行われ、花郎軍事組織説が定着している…皮肉なことに、尚武精神が評価されるようになったのは、朝鮮が日本の支配を受けた結果である。極端な武蔑視が支配的だった李朝時代には考えられないことである…」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E9%83%8E

 これが武士道韓国起源説にもなっている。ま、創作を除いたら、あの国の歴史の大半は空白かもしれません。
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韓国史劇の嘘 (室長)
2012-09-13 11:54:27
mottonさん、mugiさん、
 ファランの「軍事組織」説が、完全なフィクションとは知りませんでした。
 あの国のTVドラマは、時代劇として面白いのですが、本当は「捏造史観」の塊だったとは驚きです。一部は小生も感づいていたけど。

 ベラルーシにいたとき、どういう訳か、終戦直後の朝鮮半島を扱った映画(韓国製だったと思う)を見た覚えがある。
 ラジオ放送では、日本統治時代の「日本語のレコードで、日本語の歌謡曲」が、そのまま流れていて、びっくりしました。そういう時期も結構1945年以降も数年間あったようです。

 そして、朝鮮戦争後、韓国の女性は、金を稼ぐために米兵相手に田舎でも、こっそり売春する。この映画でも、畑の中の、農具を保管する小屋にジープでやってきた米兵を連れ込む、という場面があったような。

 ともかく、小生がびっくりしたのは、終戦放送があり、大喜びして、日本人を追い出した後も、朝鮮の放送局が、日本時代の設備で、日本語の歌をそのままラジオ放送していたこと!家庭には、電力が供給されていたこと!
 近代化そのものが、日本統治のおかげで、ラジオで流す音楽としては、朝鮮歌謡もあったはずなのに、楽しい音楽としては、むしろ日本語の歌を流し続けていたこと。

 そういえば、日本語世代の庶民は、韓国でも、長らく、こっそりと九州から届く「日本のテレビ番組、ラジオ番組」をこっそり聴取していたとか聞いたことがある。

 最近の韓流ブームと言えるほどの作品が出来るまでには、やはり、韓国独立後に、数十年もかかった。文化的な独立は、そう簡単ではない、と言うことでしょう。
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RE:韓国史劇の嘘 (mugi)
2012-09-13 21:48:55
>室長さん、

 実は私は貴方のコメントで初めて新羅のファラン(花郎)という組織を知ったのです。mottonさんのコメントを見て、wikiの解説を読み、先にリンクを貼りました。私は韓国史劇を見ていないため、ファランも知りませんでした。韓国史劇についてネットでは様々な批判があり、殆どが出鱈目、要するに「捏造史観」のオンパレード、日本のパクリ等といった内容ですが、私は見ていないし、見る気も起きないため批評は出来ません。

「歴史を捏造してでも民族意識を高める韓国」というブログ記事は興味深いですよ。学校教育そのものが全て「捏造史観」であり、こんな国と歴史の共有など不可能事です。この記事だけで朝鮮歌謡が顧みられなかった背景がお分かりになると思います。
http://jjtaromaru.blog76.fc2.com/blog-entry-276.html

 mottonさんは先月にも隣国の反日についても、素晴らしい分析をされていました。だから虚飾塗れの建国神話が根付いてしまった今、日本語の歌を有難がって聞いていた過去が直視できないし、日本語世代でなくとも日本のことが気になって仕方ない。隣国に“乳離れ”を求めるよりも、日本側が友好幻想と決別するべきではないでしょうか?
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