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日本人は隠れヒンドゥー教徒? その四

2013-10-27 20:40:33 | 読書/インド史

その一その二その三の続き
 バガヴァッド・ギーターの中でも大変有名なのが、次の言葉だという。
あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならぬ(2-47)。

 私が初めてギーターを見た時、この文章が特に印象に残った。何事もいい加減な私の性格のためだと思っていたが、ギーターを読んだ著名な欧米人思想家も、この箇所にひきつけられたそうで安心した。シビアに結果重視をするというイメージのある欧米人だが、「終わり良ければ全て良し」とは対極の思想に共鳴した人々もいたのは興味深い。現代日本社会も結果重視という点では変わりないが、このような考え方は近代以降に特に強調されるようになってきたようにも思える。

 つまり、何か行為をする場合、その結果を動機にすべきではない、ひたすら行為そのものに専念せよという教えなのだ。行為が必然的に悪い結果をもたらすといえ、我々は隠遁者のように社会生活を放棄し、行為を捨ててはいけない、無為に執着するのは正しくないという教えだ、と上村勝彦氏は述べている。そして氏は、この教えは日常生活にもとても役立つと言うのだ。
 もし成功すればこんな果報があるとか、失敗したら大変悪い結果になってしまうなど、そう思ったとたん、その考えに執着して仕事に失敗してしまうのは、よくあることである。しかし、結果を考えずになすべき行為そのものに専念するのは、実は大変難しい。それではどうすればよいのか?そこでクリシュナ(バガヴァッド=神)は、ヨーガに拠り所を求めよと言っている。
アルジュナよ、執着を捨てて、成功と不成功を平等(同一)のものと見て、ヨーガに立脚して種々の行為をせよ。ヨーガは平等の極致であると言われる(2-48)。

 上記ではヨーガは「平等の極致」となっている。日本ではアクロバット的な美容体操のイメージの強いヨーガだが、2-4世紀頃に成立したと考えられている経典『ヨーガ・スートラ』には、「ヨーガとは心の動きを滅すること」と定義されている。ヨーガには「結合」の意味もあり、最高神と自己を結び付けることがヨーガであるという人もいる。執着を捨てるにはヨーガに立脚し、心の動きを滅して種々の行為をせよ…と解釈できるだろう。だが、これまた凡人には極めて難しい教えなのだが。

 ギーターは宗教教典なので、他宗教と同じく信者が守るべき行動様式や道徳を説いている。例えばこの一節など、どの宗教にも見られる教えだろう。
慢心や偽善のないこと。不殺生、忍耐、廉直。師匠に対する奉仕、清浄、固い決意、自己抑制(13-7)。

 全くの正論であり、実行は極めて難しいが現代でも通じる普遍的な倫理である。しかし、ギーターは叙事詩マハーバーラタの中の一編なのだ。インドの誇るこの叙事詩は、バラタ族同士の一族争いを描いた物語でもある。バラタ族がパーンダヴァ軍とカウラヴァ軍に別れて戦うのだが、パーンダヴァ5兄弟とカウラヴァ百兄弟は従兄弟同士なのだ。この闘いにはさらに親族や有力者が加わる。
 いよいよ合戦が始まった時、パーンダヴァの勇者アルジュナは戦うべき相手を求め敵軍を見渡し、そこに大勢の親類や友人たち、自分の師と仰ぐ人々が立っているのを見て、とても沈み込む。御者をしてくれていた親友のクリシュナ(実は最高神の化身)にこう告げた。

クリシュナよ、戦おうとして立ち並ぶこれらの親族を見て、私の四肢は沈み込み、口は干からび、私の身体は震え、総毛立つ…私は立っていることが出来ない。私の心はさ迷うかのようだ。私はまた不吉な兆を見る。そしてクリシュナよ、戦いにおいて親族を殺せば、よい結果にはなるまい。クリシュナよ、私は勝利を望まない。王国や幸福も望まない…
 ああ、我々は何という大罪を犯そうと決意したことか。王権の幸せを貪り求めて、親族を殺そうと企てるとは(1-28-32、45)。
その五に続く

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