トーキング・マイノリティ

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震災を利用する者たち その四

2012-03-16 21:11:18 | マスコミ、ネット

その一その二その三の続き
大地震」の記事には多くのコメントが寄せられおり、特に興味深かったのは2011-03-20(日)02:07付けの「こん」という自称 プロテスタントのコメント。いかにもクリスチャンらしい正直な本音を漏らした個所を一部挙げてみたい。

今の時代、神様はこのような災害を“黙認”しておられます。「神様がいるのになんでこんな悲惨なことが起こるんだ…」とはよく聞かれる 意見ですが、全て神様のご計画が崩れない範囲の災害や戦争等は時や状況をみて実行に移されるのです。(ちょっと説明下手で意味分からなかったらごめんなさい><)
 つまり、神様が“起こした”のではなくて、“起こるのを許された”のです。これは今回の地震もそうですし、あらゆる戦争、事故、殺人強盗等の事件や、もっと日常的な心を悩ませる事柄に至るまで言えることだと思います。

 続いて、被災者への祈りについて。私も今回の地震の後祈りました。おもに、被災された方々に神様からの恵みがあるようにということや、その中にクリスチャンがいるなら彼らが失望してしまうのではなく、より強く神を求めることが出来るように。神を知るものとして強くあることで、他の被災者の中にあっても主の栄光を現わせるように。といったことです。ちなみにこの“被災者”の中に亡くなって しまった方は含んでいません。
 彼らに主の恵みがあり、暖かさ、食べ物、住まいなど、一日でも早く与えられるように。そして一人でも多くの人に福音が伝えられるように。 と私は祈りました。地震が起こることを許されたのも神様ですが、その後の復興を許されるのも神様です。小さな祈りですが、みこころなら聞かれます…

 被災者は神様からの恵みがあるようにとは、つまり神の福音に従えという意味であり、クリスチャンの被災者は失望して棄教しないように祈ったという主旨なのだ。クリスチャンの犠牲者に対しても祈らなかったというもある意味凄いが、祈るだけで義捐金や救援物資は送らないとも取れる。これに対する管理人さんの反論は痛快だった。

太陽が暖かいのも、涼しい風が心地よいのも「神の恵み」なんじゃないのでしょうか。それならば地震や津波で人が死ぬのも避難地で寒さに凍えるのも「神の恵み」ということになるんじゃないですか?そういうことを言っているのです。気持ちの良いことは神のおかげ、不愉快なことは神と無関係、これではキリスト教は詭弁や矛盾の塊だといわれても仕方がありませんね。

 その前の2011-03-12(土)13:08付でも、管理人さんはクリスチャンの「祈り」についての見解は辛辣だが的を得ている。

キリスト教徒にとってもっとも恐るべきものは「」です。特に、神に従う決心をする前に災害で死んでしまうことは悪いことなのであって、そのように死ぬ者は、彼ら自身の悪の結果であると理解すべきだと言えるでしょう…
 当然地震も台風も神の手によるものです。それでは、生き残った神の信者は被災者のために何を祈るのでしょうか、神の業は完璧で一分の隙も無いはずです。つまり、神の信者は神の業を褒め称えるべき、ということにならないでしょうか、自然災害は神の業なのであって、 良い印なのだと、そう理解せねばならないのではないですか。
ありがとうございます」こう祈るべきだということになるでしょう。違うでしょうか。

 こん氏のような類はおそらく被災地には行かないと見ているが、これだけで「国際的支援団体」(実はキリスト系宣教集団)が来日、震災を伝道のチャンスとして大いに利用した理由が分かりそうなものではないか。
 ふと、私のようなアンチクリストの異教徒には意地の悪い考えが浮かんだ。こん氏がこの先大震災で被災、肉親を失った時どう祈るのか、大いに見ものである。敬虔なクリスチャンのこん氏ゆえ、これも全て神の計画の実行なのだから、想像を絶する艱難辛苦でも神の愛や試練として受け入れることだろう。最上なのは主の身元に行けることだろうが。
その五に続く

◆関連記事:「東日本大震災から一か月
 「東日本大震災半年目

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29 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
単刀直入に言うと (Davy)
2012-03-16 23:08:48
クリスチャンは地震や津波などの災害に関しては何も発言しようとしないでほしいです。

震災の3日後、とあるクリスチャンのブログ(アンパンマン研究所みたいな名前)に、チョーヨンギ牧師が『今回の震災は神からの警告』と発言したことを非難する記事が書かれていました。

しかし、よくよく読んでみると後の方に『今回の震災で、絆やありがとうといった心暖まる意識が出来たはずだ』という風なことも書かれてありました。
その方も関東にお住まいだそうですのでご自身も『被災した』立場として書かれていらっしゃいましたが、震災のわずか3日後にインターネットを開ける人が、たった3日前の大災害の出来事に対して良かったことを無理に探してそれを言うこと自体、人間としてどうかと思います。
どうして彼らは、何でもかんでも全てに対して意味があると捉えたいのでしょうか。
あまりにひどい目に遭った時はその時その出来事の意味など考えていたら立ち直れないと思います。私が体験したことですが。
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ネットの賜 ()
2012-03-17 03:02:47
唐突な題ですが、神関係なので、『賜』としました。

キリスト教の欺瞞性をmugiさんが暴露していただく事、痛快です。
mugiさんのこの文章はネットが無ければ私達は接することは出来なかったでしょう。

ネットによって、プライバシーが犯されても、mugiさんの様な本質を突く文章に接する事が出来るのは嬉しいです。

市井の一主婦にこれほどの見通す力があることに私はただ『神』に感謝です。

キリスト教は余りにも罪深い集団なので
この惰性の力は100年は続くかもしれません、
しかし、mugiさんの様な方の『光』で
キリスト教が、『正体見たり枯れ尾花』
になる日が加速すると思うのです。

私は母から宗教を押しつけられました。
母が宗教と言う力を借りて私を支配しようとしたと思うのです。

私は母を憎むより、手を貸した宗教の方を憎みます。
私の様な子供が多数多数いると思います。
これ以上の犠牲者を出すべきでは無いと思うので、宗教と言う名のネズミ講を根絶したいと思うのですが、、、、

宗教は人の弱みに付け込むので、
ほぼ諦めています。
宗教はアヘンと言われる事、分かる様な気がします。
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「いつも主にあって喜べ」 (巨大虎猫)
2012-03-17 16:27:34
「こん」氏は、梅毒斎と同一人物とみなされていましたよね。(内容からも文体からも、私もそう思います。)被災地から遠く離れた神奈川県に住み、ネット三昧と風俗通いの人物が、よくもまあここまで無責任な発言をしたものです。

さて、クリスチャンには、白々しいお祈りをするだけで何もしない、という人が多いのです。それどころか、自発的に何かアクションを起こすことを「罪」であるとすら考えている人すら少なくないのです。今ではメノナイトの神学校校長(名誉校長?)をしているらしいM牧師も含めて、「困っている人がいても、それは神の御心なのだから、助けようとしてはいけない。助けたかったら、神に祈れ。」と言っているクリスチャンを、私は何人も見たことがあります。M牧師に言わせると、困っている人を見て悲しむのも「罪」なのだそうです。(ただし、後者の話は信者からの又聞き。)「いつも主にあって喜べ」と聖書に書いてあるから、「神の御業」を前にして悲しむのは「罪」なのだとか。梅毒斎は、4月から神学校に行き、牧師への道を目指すようですが、牧師になった暁には、上記のような非現実的な空理空論を振り回すことになるのでしょうね。
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やはり宗教はアクセサリー (クッキングホイル)
2012-03-17 17:59:38
mugiさん、いつも拙記事をご紹介くださいましてありがとうございます。

クリスチャンは「想像」でしか発言しない。こういうことになると思います。何の根拠も現実性もない、もうこれ以上そんなことに振り回されていてはいけない、そのことに多くの善意に居るキリスト教徒が「自分の頭で」気づくことが重要だと考えています。
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RE:単刀直入に言うと (mugi)
2012-03-17 21:02:47
>Davyさん、

 私は元から異教徒のアンチクリストなので、クリスチャンの心理は分りません。ただ、地震や津波などの天災、殊に異教徒が被災者の場合、それについて発言しないクリスチャンなど、“ないものねだり”ではないでしょうか?勿体ぶって神をないがしろにした罰だと言いたい心理が見えますね。それこそが彼らの本音なのでしょう。

 アンパンマン研究所みたいな名前のブログですが、貴女が相談された際、管理人がコメントを削除したサイトですよね?そのような者なら、チョーヨンギの発言を非難するフリをした後、「神の恩寵」を強調していたのも当然でしょう。この先彼ら自身が被災した時の対応が見ものです。トクと見ていたい。

 もちろんクリスチャンに限らず、イスラムでも似た様な反応は示すはずです。阪神大震災の時、リビアの国家元首カダフィは、「アメリカに協力した日本人に天罰が下った」と妄言を吐きました。カダフィが昨年ネズミのように惨めに殺害されたのは記憶に新しい。昨年の数少ないグッドニュースだったし、ザマァwでしたね。
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RE:ネットの賜 (mugi)
2012-03-17 21:05:43
>哲さん、

 キリスト教の欺瞞性なら拙記事でも度々引用している『キリスト教の問題点について考える』さんの方が、遥かに鋭く本質を突いておられます。やはり異教徒には教会内部のことまでは分からないし、私は学生時代に軽く宗教学をかじった程度なので、棄教者さんたちの意見は貴重です。

 私自身、『キリスト教の問題点』さんの記事やコメントを見なければ、未だに判らないことが多々ありました。学生時代の教官はカトリックだったし、教団の問題点はまず触れないのです。これもネットのおかげでした。
 
 宗教が女性、特に母親を狙うのは子供も入信することを熟知しているからです。信徒数は多いほど寄付や布施も多くなりますし、ビジネスとしても最強でしょう。
 貴方のお母様に限らず、宗教に入信する人は何か深刻な悩みを抱えていたのかもしれません。私の伯母も一時期創価学会に入っており、この組織に母も勧誘されたことがあったそうです。伯母は夫との不仲があったし、母も私が入院中に勧誘を受けたそうです。

 まさに宗教は人の弱みに付け込むものであり、「苦しい時の神頼み」はこの先千年後でも変わらないでしょう。キリスト教が消滅したとしても、新たな宗教が生まれると思います。
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RE:「いつも主にあって喜べ」 (mugi)
2012-03-17 21:12:24
>巨大虎猫さん、

 様々HNを使い分けている梅毒斎のコメントはいかにも…ですが、記事にも書いたとおり自分の肉親が“昇天”したら、主の恵みとしてきちんと受け入れるのでしょうね。異教徒にクリスチャンの心理は理解不能ですが、どうもこの人物はいざとなるや、日頃口にしていた発言とは正反対の振る舞いをするように思えてきます。

 梅毒クンはともかく、他のクリスチャンやM牧師の考え方も唖然とさせられました。マザーテレサについて書かれたHPにもスゴイ話が出てきます。
 彼女のカルカッタの施設は荒れ果てたままであり、テレビ視聴などは全て禁じられたそうです。さらに彼女の施設には医薬品が寄付されても、マザーは人間が苦難を味わってこそ罪が清められるとのキリスト教思想の持主で、薬や鎮痛剤には批判的、病人にそれらの薬を与えなかったし、その寄付された薬を別の非キリスト教援助団体に提供することをもしなかったとか。
http://www.hpo.net/users/hhhptdai/motherteresa.htm

 これに着想を得て私も記事を書きましたが、反響の大きさに私も驚きました。マザーの行為について、「鎮痛薬の件は、テレサ自身は欧米文化の背景で生まれ育った人なので、それを使うことに問題はないですが、現地の人は医療行為そのものに対する違う価値観・倫理観があったかもしれません…」等と擁護してきた人物がいた。しかし、カルカッタはインドで最も先進的な町の一つです。
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/24f036bc3a1f618afe59ca60cebf39dd
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RE:やはり宗教はアクセサリー (mugi)
2012-03-17 21:14:31
>クッキングホイルさん、

 私の方こそ、あなたの記事をいつも参考にさせて頂いています。貴方の見解で、それまで疑問に思っていたキリスト教の謎がやっと分かりました。やはり異教徒には判り難いところが多く、巧みなイメージ戦略で誤解している日本人も多いと思います。

 どの宗教も理想と現実のギャップは大きいですが、何の根拠も現実性もないのに「想像」でしか発言しない人が多いのには驚きました。無学文盲どころか、一応教育を受けているのに…
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キリスト教の倒錯した教え (巨大虎猫)
2012-03-18 10:24:35
唐突ですが、その昔、永島敏行主演のドラマ「最後の早慶戦」(1978年作。自分が見たのは再放送?)を見たときのことを思い出しました。学徒動員で海軍に入った早稲田の野球選手が、慶応大学野球部の先輩に再会したときのことです。慶応の先輩がバットを持って来て、「貴様に打撃の仕方を教えてやる。」と早稲田の後輩をバットで殴るのです。今なら殴られた方は「何だ、このやろう!」と怒るか、警察にでも訴えるでしょうが、そのシーンでは「ありがとうございます!」と言うのです。
どんな大惨事に巻き込まれても、それを「主の恵み」として喜ぶのは、このドラマのシーンを彷彿させます。

このような倒錯した考えは、キリスト教の狂った教えの中のほんの「氷山の一角」です。感化されてしまうと完全な社会不適応者になってしまいます。
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RE:キリスト教の倒錯した教え (mugi)
2012-03-18 21:23:14
>巨大虎猫さん、

 私は件のドラマを未見ですが、戦前の学徒動員の時代なら、野球部での鉄拳ならぬバット制裁は当たり前だったでしょうね。惜しいことに戦後も学校のスポーツ部ではそのような因習が続いており、先輩が後輩を殴るのは当たり前、殴られても「ありがとうございます!」
 社会人になったばかりの頃、職場に大学時代にアメフトをしていた先輩がいたのですが、口で注意するよりも、とにかく殴って教えていたそうです。

 マスコミに登場する文化人は、スポーツ部でのこのような因習の原因を日本の封建制に求めますが、どうも英米のスポーツクラブにルーツがありそうな…こちらでもパワハラは当たり前だそうです。
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