毎週日曜日、河北新報には「おじさん図鑑」というコラムが連載されている。執筆者は飛鳥圭介氏、エッセイストとある。9月18日付の「おじさん図鑑」のタイトルは「ひいき」として、日本人の島国根性を取り上げていた。以下はその全文。
「あからさまな差別ではないとしても、本音のところでは島国根性が出てしまうことってあると思う。たとえば<大相撲>。はるばる遠い国からやってきて、言葉で大変な苦労をし、それ以上に日本的な相撲の文化・習慣に、泣きの涙で耐え抜き、関取に上り詰めた外国人を日本人は褒め讃える。「今どきの日本の若者などより、よっぽど立派だ」
しかし、やがてその力士が、相撲界を代表するほどの強い相撲取りに成長すると、何となく面白くない。
「勝てばいいというもんじゃないんだよ。相撲はスポーツではない、神事が出発点なのだから、勝ち負けよりか、所作に美しさがなければだめだ」
史上稀有な大横綱でも外国人というだけで、評価の質が違ってくる。なのに、日本人力士が優勝しようものなら、日本中が狂喜乱舞する。さらに、オリンピックで叫ばれるのは、「日本、チャチャチャ」だ。これは島国根性とは違うのか、愛国心なのか。
公正無私で、一部の人々に仏の圭介と称されるおじさんにして、日本人力士が勝つと正直とてもうれしい。跳びはねて喜ぶ。島国根性なのか、単なるひいきなのか」
このエッセイを見て、禿同と思う方や自分もそうだと苦笑した読者もいるだろう。しかし、飛鳥氏が言うように自国民を贔屓、その勝利に狂喜乱舞することを「島国根性」と定義するならば、日本はおろか世界各国が「島国根性」となろう。しかも、日本人など足元にも及ばない筋金入りの「島国根性」の諸国が大半なのだが。
飛鳥氏がそれを知らないのであれば、国際社会にかなり無知なエッセイストの証左であり、氏自身の「島国根性」ぶりを晒している。
私自身は相撲にはさして興味がなく、TVニュースや新聞などで相撲の対戦結果を知る程度。しかし、多くの外国人力士を受け入れたのは日本の相撲ファンからの要請ではなかったし、また彼等の同意を得ていなかったことは察しが付く。
相撲協会が外国人力士を受け入れた事情は様々あろうが、ホンネを言えば外国人よりも同国人に勝ってほしいのは、何処でも見られる現象である。例えばサッカーがいい例だ。
サッカー発祥国でも有力選手は多国籍となって久しい。しかし、英国人ファンはやはり同国人を熱狂的に応援しており、ベッカムがあれほど人気があったのもそのためなのだ。もし彼が外国人選手だったならば、いくらイケメンで優秀なプレイヤーでもここまで大人気にはならなかったはず。
イギリスのサッカーファンといえば、かつてはフーリガンで悪名高かったし、特に第三世界出身の有色人種選手には罵声を浴びせることも珍しくないという。
これも英国ならではの“島国根性”ではないか、と反論する人もいるだろう。だが、外国人選手が活躍するのはイタリアやフランス、ドイツ等でも同じなのだ。イタリアでは日本人選手も何人かプレーしたことがあったが、やはり現地ではイタリア人選手を熱心に応援しており、差別や贔屓はあからさまである。日本人を含め外国人選手が結果を出すのが当り前であり、結果を出しても特別感謝感激される訳ではない。
フランスのサッカー選手というと、真っ先に思い出すのがジダン。サッカーに関心のない私でも彼の頭突き事件だけは憶えているが、この事件をイタリア人サッカーファンは、「サッカーなんて、悪口を言いながら見るものだ」と評したそうだ。同じイタリア人選手にも容赦のない悪口を浴びせるイタリア人。外国人にも遠慮はしない。
日本の相撲界で活躍する外国人力士を飛鳥氏は、「はるばる遠い国からやってきて、言葉で大変な苦労をし、それ以上に日本的な相撲の文化・習慣に、泣きの涙で耐え抜き…」と表現しているが、この箇所にこそ氏の“島国根性”がよく表れていると感じる。外国人プレイヤーが当たり前の欧州チームでは、彼等をここまで特別扱いする親切心はまず考えられない。
遠い異国から来れば言葉や文化習慣で苦労するのは書くまでもなく、外国人には親切にしなければならないという強迫観念が未だ日本の言論人の間には根強いのか。
その②に続く
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