先日、仙台市博物館の企画展である「最後の戦国武将-伊達政宗」を見に行った。観覧料が一般4百円と手頃なのは、既にこの博物館に収蔵されている品々を一堂にまとめ、展示したからだろう。それでも地元の人間にも見ごたえがあり、特に政宗ファンには堪らない企画展のはず。「本当の政宗が、ここに―」のコピーも必ずしも誇張ではなかった。
この企画展で最も多く展示されていたのが政宗の書状。戦国大名の他、部下や家族への手紙も多数公開されており、かなり筆まめだったのだろう。ただ、達筆過ぎて文面がかなり読めないのは残念。信長や家康が政宗に当てた手紙も展示され、こちらは端整で見やすい書体だった。現代のように携帯のない時代、連絡は書状で書かざるを得ないので、字が上手くなったのだろうか。政宗は金屏風にも和歌など書いているが、解説によれば屏風に字を入れるのは当時公家の間で流行っており、彼もこれに倣ったとのこと。
政宗の心境が伺える手紙も展示されていた。合戦勝利後、興奮冷めやらぬ様子で左上の隅に「敵は裸同然で逃げた」と追伸が書かれていたり、天下人・秀吉との会見後、さすがに緊張したのか誤字があったりで興味深い。政宗は酒好きでも酒豪ではなかったらしく、飲みすぎて予定していた公務を断る際、部下に「むつけ(腹痛)」のため、と言うよう支持した手紙もある。
政宗に限らないが、戦国武将は衆道をたしなむのが当り前であり、小姓と関係を持つのは不道徳ではなかった。寵臣に当てた書状には、他の男との浮気を疑った政宗が酒の席でそれをなじり、後で詫びた内容だったのは笑えた。とても子供向けの郷土史には載せられない。
家族に当てた政宗の手紙や、家族が彼に当てた家族のそれも幾つか展示されており、家族との交流も浮かび上がる。戦国武将と現代庶民とは価値観が異なるも、家族愛はさして変わりないだろう。政宗をめぐる女性たちとの手紙も残っているはずだが、せいぜい母や正室のものくらいで、側室の手紙が公開されないのは理由あってだろうか?側室が数多いたのだから、彼女らとの手紙はさぞ面白いと思われるが。
合戦時で誰が誰の首級をあげたのか、記録した陣首録なるものも展示されていた。とった敵の首を誇らしげに曝す戦国武将は柔な現代人の感覚からすれば、次元が違いすぎる。当時は武家の女性さえ、生首を見ても顔色一つ変えなかったはずだ。
伊達家の紋章だと「竹に雀」が有名だが、その他にも多くの紋章を使っており、それを紹介したサイトもある。また、戦では日の丸を好んで掲げ、会場にも日輪を描いた巨大な旗が飾られていた。現代の国旗とは太陽と余白の大きさやバランスが異なっているも、すっかり色あせた旗は展示されているだけで迫力があった。左翼ならこの種の文化財公開を、軍国主義の復活を狙うと言いかねないにせよ。
もし政宗が20年早く生まれていたなら、天下を取れたかも…と想像する戦国ファンの方もいるし、彼自身も遅い生まれを悔やんでいたといわれる。しかし、天下の趨勢が定まった以上、独眼竜と謳われた彼もどうすることも出来ない。『歴史にはウラがある』(ひろさちや著、新潮文庫)は、「英雄も老いればたいこ持ちになる!?」と政宗をかなり辛辣に書いている。老齢となった政宗は、「どこか飼いならされた猫を思わせる、保身の策を弄する平凡な大名になってしまったようである」と。ひろ氏は3代将軍家光に仕える政宗は、まるで幇間(ほうかん)ではないか、とまで書いている。
晩年の政宗は城下町・仙台の建設及び開発に力を入れた。政宗なくして仙台はありえず、領国の基礎を築き発展させたのは平凡な大名ならやれないはずだ。中央から仙台藩は常に警戒されており、寛文事件こと伊達騒動(寛文11年/1671年)も起きているので、政宗の幇間は生残りの処世術として当然だろう。戦することだけが武将ではなく、少なくとも生残りではひろ氏の故郷・大阪の城主より見事である。
政宗が病床に就いた際、正室・愛姫は介護を何度も申し出るも、「かかる見苦しき所」に来るに及ばず、と退けている。庶民と違い殿様ゆえ介護する者に不足はなかったにせよ、正室にさえ無様な姿を見せたがらなかったとは、最後まで伊達者を貫いた戦国武将だった。
◆関連記事:「鬼姫と呼ばれた女-伊達政宗の母」
「司馬遼太郎の見た仙台」
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この企画展で最も多く展示されていたのが政宗の書状。戦国大名の他、部下や家族への手紙も多数公開されており、かなり筆まめだったのだろう。ただ、達筆過ぎて文面がかなり読めないのは残念。信長や家康が政宗に当てた手紙も展示され、こちらは端整で見やすい書体だった。現代のように携帯のない時代、連絡は書状で書かざるを得ないので、字が上手くなったのだろうか。政宗は金屏風にも和歌など書いているが、解説によれば屏風に字を入れるのは当時公家の間で流行っており、彼もこれに倣ったとのこと。
政宗の心境が伺える手紙も展示されていた。合戦勝利後、興奮冷めやらぬ様子で左上の隅に「敵は裸同然で逃げた」と追伸が書かれていたり、天下人・秀吉との会見後、さすがに緊張したのか誤字があったりで興味深い。政宗は酒好きでも酒豪ではなかったらしく、飲みすぎて予定していた公務を断る際、部下に「むつけ(腹痛)」のため、と言うよう支持した手紙もある。
政宗に限らないが、戦国武将は衆道をたしなむのが当り前であり、小姓と関係を持つのは不道徳ではなかった。寵臣に当てた書状には、他の男との浮気を疑った政宗が酒の席でそれをなじり、後で詫びた内容だったのは笑えた。とても子供向けの郷土史には載せられない。
家族に当てた政宗の手紙や、家族が彼に当てた家族のそれも幾つか展示されており、家族との交流も浮かび上がる。戦国武将と現代庶民とは価値観が異なるも、家族愛はさして変わりないだろう。政宗をめぐる女性たちとの手紙も残っているはずだが、せいぜい母や正室のものくらいで、側室の手紙が公開されないのは理由あってだろうか?側室が数多いたのだから、彼女らとの手紙はさぞ面白いと思われるが。
合戦時で誰が誰の首級をあげたのか、記録した陣首録なるものも展示されていた。とった敵の首を誇らしげに曝す戦国武将は柔な現代人の感覚からすれば、次元が違いすぎる。当時は武家の女性さえ、生首を見ても顔色一つ変えなかったはずだ。
伊達家の紋章だと「竹に雀」が有名だが、その他にも多くの紋章を使っており、それを紹介したサイトもある。また、戦では日の丸を好んで掲げ、会場にも日輪を描いた巨大な旗が飾られていた。現代の国旗とは太陽と余白の大きさやバランスが異なっているも、すっかり色あせた旗は展示されているだけで迫力があった。左翼ならこの種の文化財公開を、軍国主義の復活を狙うと言いかねないにせよ。
もし政宗が20年早く生まれていたなら、天下を取れたかも…と想像する戦国ファンの方もいるし、彼自身も遅い生まれを悔やんでいたといわれる。しかし、天下の趨勢が定まった以上、独眼竜と謳われた彼もどうすることも出来ない。『歴史にはウラがある』(ひろさちや著、新潮文庫)は、「英雄も老いればたいこ持ちになる!?」と政宗をかなり辛辣に書いている。老齢となった政宗は、「どこか飼いならされた猫を思わせる、保身の策を弄する平凡な大名になってしまったようである」と。ひろ氏は3代将軍家光に仕える政宗は、まるで幇間(ほうかん)ではないか、とまで書いている。
晩年の政宗は城下町・仙台の建設及び開発に力を入れた。政宗なくして仙台はありえず、領国の基礎を築き発展させたのは平凡な大名ならやれないはずだ。中央から仙台藩は常に警戒されており、寛文事件こと伊達騒動(寛文11年/1671年)も起きているので、政宗の幇間は生残りの処世術として当然だろう。戦することだけが武将ではなく、少なくとも生残りではひろ氏の故郷・大阪の城主より見事である。
政宗が病床に就いた際、正室・愛姫は介護を何度も申し出るも、「かかる見苦しき所」に来るに及ばず、と退けている。庶民と違い殿様ゆえ介護する者に不足はなかったにせよ、正室にさえ無様な姿を見せたがらなかったとは、最後まで伊達者を貫いた戦国武将だった。
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寒くなって参りました。コメントをあまり投稿せず、少しご無沙汰して
しまいました。でも、いつもブログを拝見してお元気なご様子を嬉しく思っています。今日は日曜日なので教会へ行きました。ブログ世界の友人である貴方様のご健康と平安をお祈りして来ました。
その関連の記事を今朝、掲載致しましたので、ご照覧頂ければ嬉しいです。
「日曜日、教会へ何をしに行くのかご説明します。」という題目の記事です。
ブログの益々のご発展をお祈り致します。
敬具、藤山杜人
拙ブログを毎度読まれて頂いて、心より感謝申し上げます。
こちら東北・仙台では、もうストーブをつけている家庭もあるほど。冬も近い季節の折、藤山様も健やかで平穏な日々と過ごせますように。
私は不信心な性質なので、日曜日に教会に行かれる心がけだけで感心させられます。休日に出かけるなら、展示会やレジャーに行きたいと思う程で、宗教施設というだけで敬遠してしまいます(笑)。
時々布教活動のため、主に女性2人組みが近所の家々を訪問していますが、大変だと思うだけです。あのような活動をさせられるくらいなら、入信は願い下げですね。昔、職場の同僚から、あの類の宗教活動の背後に暴力団がいると聞いたことがありますが、真相はどうなのでしょう。
最近も、某戦国物のゲームもプレイしている今日この頃。
伊達家も強~い大名のではあるものの、周辺に強国がひしめき、なかなか、中原には進出できませんでしたね。
また、政宗公に限らず、日本には、、中国のような軍師は存在しませんね。
よいか悪いかは歴史家に任せるとして、歴史の遺物に触れ合い、その時代を夢想してみるのも、後世に生きている、私達の特権ではないでしょうか?
(但し、その時代のながれや空気には、触れられませんが、、、)
ところで、私は学生時分、弟と毎日、○のように、三國志のゲームをプレイした時期がありました。
また、ゲームでけでなく、小説やゲームメーカー・その他が発売する正史や演義に関する書物も、多少は読みました。
でも、それが故に、今回の某映画は、如何ともしがたいのですが、、、。
事実は小説より、映画は小説より奇なりでしょうか??
たとえ政宗が20年早く誕生していたとしても、東北という地理的な面から天下を取れなかったのではないか、と思います。やはり“中原”に近い尾張の大名は断然有利。むしろ四国の方が東北より条件が良いでしょう。
仰るように中国と違い日本だと軍師のような類は聞きませんよね。以前コメントをされた「乱読おばさん」が、「こういうとファンから怒られそう」と断りながら、軍師について鋭い指摘をされていました。
-舌先三寸で生きている人の典型といえば「軍師」ですよね。三国志でも諸葛孔明さんは、この三寸不乱の舌先をもって、国を救って見せるなんていいますよね。本当に、こういう軟弱ながら頭だけがよくてあるいは「セコい」英雄がいるのは、やはり中国の特徴でしょうね…孔明ちゃんなど、刀槍をふるうことなんぞないですけど、勇壮無比な豪傑たちを従えるんだからなあ…
これに対し、mottonも反論されています。
-(軍師でない)政治家としての孔明は、舌先三寸でその場限りの私益を求めるのではなくて、公益を考える本物の政治家だったと思います。例えば「泣いて馬謖を斬る」なんかも私を捨てて公を取っているわけで。
某映画を既にご覧になられ、そのレビューを拝見いたしましたが、芳しいものではなかったようですね。
やはりハリウッドと香港映画出身の監督が組んだ結果なのかも。ジョン・ウー監督の「ミッション・インポッシブルⅡ」は酷かった。