その①の続き
インド人には、己の権力を誇示することと、そのステイタスを他人に認めてもらうことは強く結びついており、ステイタスの主張は最重要課題となる。民主体制において新たに生まれた機会や不確かさで、誰がどの地位にいるかと人々は敏感になり、むしろステイタスと権力に対する強迫観念を増幅させている、と著者は見る。個人の平等な道徳的価値が大切にされることは滅多になく、教養のある高位カースト者から無学文盲の下層階級まで階層依存社会は及んでいる。このような標語をつけたトラックもしばしばあるそうだ。「自分が何処に属しているか忘れぬように」!「分をわきまえる」に当たるが、そんな戒めのついたトラックなど日本で見かけない。
ステイタスをインドではオカットと呼び、これを探るためインド人は初対面でも不躾極まる質問を浴びせるという。父親の職業は?住まいは何処?何処で学んだ?誰と親戚?知り合いに権力者はいる?…止めどもなく、このような質問が続くとか。コネが重要なのも書くまでもなく、2000年9月15日付けの新聞『ヒンドゥスタン・タイムズ』の結婚求人欄にあった実例は、コネとステイタスを露骨に表している。
-色白(※美男美女の絶対条件)、背が高く痩身、高学歴でモダンな女性求む。産業界からの超美人花嫁募集。当方27歳、187㎝、色白、痩身、ハンサム、高カースト、ヒンドゥー教徒、現代非常に気に入られているインド閣僚の1人息子、菜食主義。清潔感溢れロンドンでビジネス起業。カースト不問。以上に合う方、まずはご連絡を。
著者が子供時代に聞いた「なすびと王様の話」も興味深い内容だ。なすびに飽きた王様がある時大臣に、なすびは駄目な野菜だと言う。王に全面的に賛成した大臣はなすびを酷く貶したので、王は自分の言ったことを何ら疑わなかった。数日後、王の主治医がなすびは体にとても良い、と言った。そこで王が大臣になすびを褒めたところ、大臣はうって変わりなすびを褒め称える。これを聞いた王は、この前とは正反対のことを何故言うのか、と怒り問いただすと、大臣はこのように答えた。「王様、私はなすびではなく、あなた様にお仕えしているのであります。あなた様の言われることに反対して何の良いことがございましょう」。
大臣の佞臣ぶりを嘲っているのではなく、世知の極みの例なのだ。権力は自分の信念よりも重要とされている社会ゆえ、モラルは問題とならない。「権力は知恵に勝る」という諺もあるそうだ。
M.ガンディーは手段は結果と同様、重要だと考えていたが、その概念はインド人に馴染みもなく根付かなかった。インドのマキアヴェッリことカウティリヤはマウリヤ朝(BC317年頃-BC180年頃)開祖の右腕であり、著書『実理論』(アルタシャーストラ)は権力の奮い方を説いている。彼は権力は4つの原則に基づき獲得されたり、高められたりすると言う。サマという交渉による調停、ダマという贈り物やへつらい、敵地でデマをばら撒くベーダ、そして処罰・上からの力の行使であるダンダ。要するにカウティリヤの理論は国を治める時、通常の道義心よりも私利に基づく臨機応変の処置の方が遙かに重要だ、ということを説いているのだ。
インドの誇る叙事詩「マハーバーラタ」に登場する英雄クリシュナの言葉も紹介されており、神でもあるクリシュナは不正行為をしては言い放つ。「強敵はフェアにやっていては倒せません。相手がこちらより強い時は何をやってもよいのです。神でも力が及びません。神に従ったまでです」!どんな手段を取ろうが、結果がよければ正当化されるのである。聖典バガヴァッド・ギーター(神の歌の意)でも、クリシュナはこう語る。「あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならぬ」(2章47節)。
民主主義がインドに導入された時、インド人政治家はその理念ではなく、プロセスが自分たちにもたらす見返りに心惹かれたのだった。当時の辞令によると、地方選出議員は州の高級官僚より高地位に置かれ、さらに町長や警察署長よりも高い地位だったらしい。そのため民主政治世界で成功すれば、急速な地位向上が可能であり、権力を増す可能性を確信させた。特に農村部の高カーストは民主主義を「現在の支配や階層制を強めるもの」だと解釈した。
著者ヴァルマ氏は、インドで民主主義が続いたのは国民が民主的であったからではなく、民主主義の中では権力が効果的に追求できると分ったからだ、と結論付ける。国民は昔ながらの非民主的な社会はそのままに、上昇が約束されるという民主的政策を喜んで取り入れた。民主主義は新旧双方の階級性に正当性を与えるという先例のないシステムゆえ、インド人にとって魅力的だった。そのため民主主義体制でも階層を受け入れるインド人の精神構造は新たな平等主義とはならず、それまでの構造を脅かさず、それに合うように変形することが可能だったからだ。インドで民主主義が成功したのは、インド人の価値観の質が変ったのではなく、これまで恵まれなかった選挙民へと権力が移行するのに、民主主義は大いに役立つことによる。
その③に続く
◆関連記事:「カウティリヤ-インドのマキアヴェッリ」
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インドITは全くカーストと関係なく成長してきたのがインド国内では知られている話です。
40年前からちゃんとした業種や会社では「カースト」関連の詳細を書類上、欄でさえなくなっていて、法律上も禁止です。
それを求める会社はまずいません。
インド都市部や副都市部や地方都市でも職場ではカーストなんて聞かれません。田舎です。
IT会社も同様で、入社する時の申請書類にはまず「カースト」を聞かれる欄もないことだし、当然聞かれもしません。
こんな「やらせ」的な番組を日本を代表する放送局が作ってから東京のインド大使館にもしばらくブラックリストされていたそうで、
次のインド関連番組の撮影許可がおりるまでしばらく苦労したそうです。
ITの世界ではプログラマーのスキルセットが足りないほどインドでは需要があります。
もうスキルさえ足りていれば、いうこともないです。
自分がインドIT企業に長年いることから「カースト」のことは耳にしたこともなく、
あのでたらめなNHK番組以降人事部長や関連の友人に調べても、それはまず聞かない情報だということが改めてチェックできました。
ネット世界では匿名を悪用、さも著名人と交流があると吹聴する者もいるし、先日そのような女が拙ブログに何度も書込みしてきた。さも情報通のフリをしていましたが、所詮は自ら「低学歴で無学に等しい人間」と認めた通り、単純なミスでボロを出した。HNを変えたところで、文体は誤魔化せない。
この他にも身元を詐称する者はいたし、私は聞かれもしないのにいきなり職歴を名乗る者は信頼しないことにしています。彼らが詐称するのも現実社会では、「引きこもりやニートがパートで仕事してる会社」でしか勤まらない社会不適応者だから。せめてネット世界ではエリートやセレブを装い、自慢したいのがミエミエ。
NHKのインド番組がおかしいのは私も知っています。伊藤洋一氏が出演した番組を私は未見ですが、特集『インドの衝撃』は中々面白かった。その制作者の高橋省吾ニューデリー支局長(46)に対し、インド外務省がビザ延長を拒否したことはネットニュースでも紹介されています。
http://wwwnews1.blog34.fc2.com/blog-entry-966.html
NHKに限らず日本のマスコミは中国を称賛、インドを貶しつける傾向が酷く、私も皮肉たっぷりに「賛中侮印」と呼んでいます。しかし、「インドITは全くカーストと関係なく成長してきた」など、いくらインド贔屓の私でも信用しません。確かに建前上は「カースト」は問われることもなく、法律上も禁止されていますが、あの国が法治国家とは呼べないのはインド滞在体験がある日本人なら知っているはず。
陰惨なダウリー殺人事件も絶えることはなく、宗教暴動時の残虐行為は日本では考えられないほど。貴方の報告は実に皮相的だし、インドIT企業に長年いた人物とはとても思えない。
インドに渡航、滞在した日本人は多く、彼らによるブログも様々あって実に面白い。そんなブロガーと比較すると、貴方の意見はまるで信憑性が感じられない。これで「信頼」のHNはお笑い草。貴方のコメントの大半こそデタラメと私は見ました。