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その一、その二、その三、その四、その五の続き
マハーラージャたちの宮殿の壁を飾った細密画には、逸品でも盗難から免れたものもあった。上記の画像はラージャスターン州の町コーターにあった作品。コーターの古城の片隅で廃墟となっていた大邸宅の壁画で、建物の天井は既に抜けて野ざらしになっていたそうだ。壁画自体は盗難に遭わなかったものの、衣装の金箔部分はこそげ取られた壁画もあったという。モノクロゆえ色彩は不明だが、壁画を目にした山田和氏によれば、背景には特徴のある孔雀緑色が使われているそうだ。「衣装の繊細さと優美さは際立って」いるとも、氏は批評している。
山田氏と同行したインド人はデリーで美術大学教師をしており、2人して壁画を「傑作中の傑作」と言いあった。そして美大の教師は、「このまま風雨に晒されておしまいか。一体どうなっているんだ、この国は」と嘆息したという。
インド独立の1947年、「最後の細密画家」ガンシャム・シャルマ氏も生き地獄を見ている。当時シャルマ氏はマトゥラー(ウッタル・プラデーシュ州) 近郊に仕事で来ており、家族や親族を含め11人で滞在していた。ここはクリシュナ神ゆかりの地でもあったが、ムスリムも大勢いた。シャルマ氏の身辺警護をする警察官は、ここはヒンドゥーの聖地だから安全と言い張っていたが、独立時はヒンドゥーとムスリムの間で略奪と殺し合いが起き、どこも血の海と化した。
シャルマ氏一族はまずバスでマトゥラーに向う。このバスはヒンドゥーだけが乗っており、何処にも止まらず最高速度で駅まで走った。途中止まればムスリムに襲撃され、皆殺しになる危険もあったのだ。マトゥラー駅にはチットールガル(ラージャスターン州)行きの列車が入っており、一行は切符も買わずそれに飛び乗った。彼らが狭い個室になだれ込み、内側からしっかりと鍵を下す。鉄格子の入った窓の向こうには、この汽車で逃げようとする人々の何十本もの手がぶら下がっていたという。奇跡的にもこの列車は発車した。
シャルマ氏一行が後になって知ったことだが、多くの列車は構内から動かないまま略奪の対象にされたか、或いは異教徒の町で強制的に止められ、乗客全員が虐殺された例もあったそうだ。ヒンドゥーはムスリムの列車を、ムスリムはヒンドゥーの列車を襲撃した。特に北部のパンジャーブ州では酷かったそうで、一度に全車両の数千人が虐殺されたこともあったという。
飲み水も食料もシャルマ氏一族は何も持ち合わせておらず、狭いコンパートメントの中で彼らは決してドアを開けなかった。開ければ命の保障はないためだ。彼らは幸運にも2日後にチットールガルに着き、そこからさらに故郷に向った。
インド独立後、シャルマ氏はウダイプル(ラージャスターン州)でミドルスクールの美術教師をしたこともあったという。当時は細密画家が美術教師になるのは珍しかったとか。藩主制は廃止されてもカースト制は依然として続いており、職業を変える者はいなかった。だが、伝統的細密画家として古い手法を守ろうとする者も、ごく僅かだった。王宮の細密画家たちの多くは土産物の安い細密画を描く画家となり、中には土産物店の店主におさまり、かつての弟子たちに安絵を描かせる者もいたという。
2002年5月、「最後の細密画家」ガンシャム・シャルマ氏は死去、78歳の誕生日を迎える3日前だった。息子によれば当日も変わったところはなく、いつも家族がソファ代わりにしている大きなベットの上に座り、家族とТVを見ているうちに息を引き取った。あまりにも安らかな死だった故、脇でТVを見ていた者さえ、暫く気がつかなかったという。遺体はウダイプルで荼毘にされ、遺灰の一部はガンジス川に撒かれたそうだ。
シャルマ氏の息子や孫は21世紀でも細密画を描いているという。もちろんシャルマ氏の様に伝統的なやり方とは違い、孫はムンバイでグラフィック・デザインをしており、息子はコンピュータも使うという。息子はホテルの仕事を引き受けた際、内装のデザインをコンピュータで作り、それを元に工事を行っているとか。
山田氏の著書にも名があるが、インド現代絵画の巨匠と呼ばれたマクブール・フィダ・フセイン氏(1915年生まれ)が、先月入院先のロンドンの病院で死亡、享年95歳。フセイン氏は名前通りムスリムだが、ヒンドゥーの女神の裸身を描いたため、ヒンドゥー至上主義者から殺害予告などの脅迫を受け、2006年からドバイなどで事実上の亡命生活を送っていた。氏は昨年カタールの国籍を取得している。
日本人から見てヒンドゥー至上主義者の強迫は不可解である。何故ならヒンドゥーの画家や彫刻家たちはヒンドゥーの女神の裸身を描いたり神像にしたり、中には性器の割れ目まで彫られた像もあったのだ。そのため女神像をダッチワイフ代わりにした男もいたことが、古くはカウティリヤの『実利論』に見える。絵画にも宗教対立が影を落とすのがインドなのか。
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