持っている道具によって考え方がある程度解るモノです.........................
加えて持っている道具の年季が入っている具合によっては道具に対するその人の感情も推し量れます。
おいらは家庭環境で良いモノというのは高いのは当然で、それを使用するのが満足に繋がるというのを実感して生きてきました。
自分を見失っている間も道具たちは変わらずにおいらを支えて強めてくれてきたとも感じています。
そこにはお金云々よりも強い信頼関係が築かれるとも思っています。
確かに道具には命がありませんし、感情も個性もありません。
しかし道具は人の身体の延長線上にある手足になり人としての活動を強めてくれるモノですよね。
自分の文字通りの手足をぞんざいに扱うというのは命に対しての冒涜である事を学びました。
そして命を冒涜するという事は神さまへの敬意を払っていない事になります。
ぞんざいに扱う人の中に「生んでくれと頼んだ事はない」という言い方をする人がいます。
確かにこの世に頼んで生んで貰った人は存在しません。
だからといって自身の身体には何にも落ち度がありません。
自分の身体は自分のモノだと考えている人がいますが、それは大きな間違いです。
人が生きているのは神が望まれているからに他ならないんですな。
だから命は神様から与えられた賜物なんですよ。
世界の権威や力には一般の人は逆らう事が出来ません。
だったら尚更で神様に逆らう事が出来ないというのは道理に適っているでしょう。
神に逆らうというのは自分自身を疎外させた状態に置き、結局は自分自身が一番苦しい目に遭うだけなんですな。
自分自身で苦しい目に遭わせておきながら人に責任転嫁させるというのは矛盾しており間違いだという事は明白です。
おいらは道具の延長線上でもこの気持ちを持つようにしていたいと願ってきました。
道具というのは取り替えれば済む類のモノではなく、使い続けて往生するまで使ってやってから役目を終わらせてやるべきだと思うんですよ。
自分の身体を大切に思っている人は道具も大切にしている傾向があります。
使っている道具を見てその人が自分の身体を如何に大切に気遣い、結婚しているならば半身である夫婦を大切にしていることまで推測できるんですな。
おいらも道具というのは「使い捨てで良いや。」と考える時期がありました。
そのときはJunk Foodをむさぼり、食い散らかしさんざんな生活を送っていました。
道具を大切に使いたいという気持ちは根底にあったのは間違いないんですけどね。
これは写真関係の道具の手入れを怠った事がないということからも理解できます。
でも自分自身はくずでゴミ以下の存在だと考えています。
今でもこの傾向というのはあります。
しかし身体には何の落ち度もないという事実を知った時は衝撃を受けました。
確かにめちゃくちゃな事をしてきておきながらもちゃんと動いてくれているのですからね。
これだけ従順な身体をなぜ蔑ろにしてきたのだろうと後悔の念が押し寄せてきました。
そして自分の身体を顧みる事が出来るようになってから、身体の延長線上にある文具や他の道具たちを大切にしたいと考えるようになってきたんですよ。
神経が繋がるほどの関係にはなっていない事は明白でそこまでになるには長い年月が必要でしょう。
でもちゃんと使ってやると良質のモノというのは本当に長い事付き添ってくれるものです。
おいらも周りを見てみると手元にあるモノでも長い間何も主張せずにじっと待っている道具がいたるところにあります。
新しいモノを買うのも確かに喜びですが、いざ手元を見直すと買い増す必要がないほど沢山の道具に囲まれているんですよね。
「今あるモノで満足しなさい」という言葉がありますが、今あるモノでは満足どころか過分にある状態です。
確かに無いものもあるのは確かですけどね。
無い分野のモノというのはおいら知らない分野のモノですから、購入する方法は中堅程度のモノを手始めに購入するという事を良くします。
加えて良く吟味する時間も必要です。
このBlogでは何事にも時があるという事を何度か書いてきました。
買うのに時があり、買うのを控えるのに時があるんですよ。
買うまでを苦痛に感じるのはおかしな現象だと分析できるようになったおいらですが、Mac Proを購入して説得力がないですよね。
でもMac Proを購入するまでも熟慮に熟慮を重ねて購入しましたし、それなりに時間をかけました。
Power Mac G5の頃からですからね。
まあこの話はまた別の機会にするとして文具の話ですよ。
長い事つきあえる文具として代表的なのは「万年筆」がどうしても外せなくなります。
おいらはこの万年筆に関心を持つようになったのは一昨年ぐらいからなのですが、そこからかなりResearchをしました。
万年筆は「心許ないモノ」という印象があまりにも強すぎて踏み切れなかったんですよね。
しかし学生時代から比較すると多少は投資できるようになって購入するようになりました。
学生時代に強烈な否定的な印象を完全に払拭できる道具ばかりで驚くばかりですよ。
万年筆を高く評価している人たちの記事を懐疑心いっぱいで見ていましたが、現在はその通りなのだと納得ずくで読み純粋に楽しむ事が出来ています。
もっと万年筆や文具の雑誌が沢山あっても良いのにと考えるほどです。
何だか訳のわからない記事になりましたが、今回の記事では
道具の使用具合や手入れによって価値観や気遣い、その他諸々を推し量る
ある程度の目安になるという事を書きたかったんですな。
加えて持っている道具の年季が入っている具合によっては道具に対するその人の感情も推し量れます。
おいらは家庭環境で良いモノというのは高いのは当然で、それを使用するのが満足に繋がるというのを実感して生きてきました。
自分を見失っている間も道具たちは変わらずにおいらを支えて強めてくれてきたとも感じています。
そこにはお金云々よりも強い信頼関係が築かれるとも思っています。
確かに道具には命がありませんし、感情も個性もありません。
しかし道具は人の身体の延長線上にある手足になり人としての活動を強めてくれるモノですよね。
自分の文字通りの手足をぞんざいに扱うというのは命に対しての冒涜である事を学びました。
そして命を冒涜するという事は神さまへの敬意を払っていない事になります。
ぞんざいに扱う人の中に「生んでくれと頼んだ事はない」という言い方をする人がいます。
確かにこの世に頼んで生んで貰った人は存在しません。
だからといって自身の身体には何にも落ち度がありません。
自分の身体は自分のモノだと考えている人がいますが、それは大きな間違いです。
人が生きているのは神が望まれているからに他ならないんですな。
だから命は神様から与えられた賜物なんですよ。
世界の権威や力には一般の人は逆らう事が出来ません。
だったら尚更で神様に逆らう事が出来ないというのは道理に適っているでしょう。
神に逆らうというのは自分自身を疎外させた状態に置き、結局は自分自身が一番苦しい目に遭うだけなんですな。
自分自身で苦しい目に遭わせておきながら人に責任転嫁させるというのは矛盾しており間違いだという事は明白です。
おいらは道具の延長線上でもこの気持ちを持つようにしていたいと願ってきました。
道具というのは取り替えれば済む類のモノではなく、使い続けて往生するまで使ってやってから役目を終わらせてやるべきだと思うんですよ。
自分の身体を大切に思っている人は道具も大切にしている傾向があります。
使っている道具を見てその人が自分の身体を如何に大切に気遣い、結婚しているならば半身である夫婦を大切にしていることまで推測できるんですな。
おいらも道具というのは「使い捨てで良いや。」と考える時期がありました。
そのときはJunk Foodをむさぼり、食い散らかしさんざんな生活を送っていました。
道具を大切に使いたいという気持ちは根底にあったのは間違いないんですけどね。
これは写真関係の道具の手入れを怠った事がないということからも理解できます。
でも自分自身はくずでゴミ以下の存在だと考えています。
今でもこの傾向というのはあります。
しかし身体には何の落ち度もないという事実を知った時は衝撃を受けました。
確かにめちゃくちゃな事をしてきておきながらもちゃんと動いてくれているのですからね。
これだけ従順な身体をなぜ蔑ろにしてきたのだろうと後悔の念が押し寄せてきました。
そして自分の身体を顧みる事が出来るようになってから、身体の延長線上にある文具や他の道具たちを大切にしたいと考えるようになってきたんですよ。
神経が繋がるほどの関係にはなっていない事は明白でそこまでになるには長い年月が必要でしょう。
でもちゃんと使ってやると良質のモノというのは本当に長い事付き添ってくれるものです。
おいらも周りを見てみると手元にあるモノでも長い間何も主張せずにじっと待っている道具がいたるところにあります。
新しいモノを買うのも確かに喜びですが、いざ手元を見直すと買い増す必要がないほど沢山の道具に囲まれているんですよね。
「今あるモノで満足しなさい」という言葉がありますが、今あるモノでは満足どころか過分にある状態です。
確かに無いものもあるのは確かですけどね。
無い分野のモノというのはおいら知らない分野のモノですから、購入する方法は中堅程度のモノを手始めに購入するという事を良くします。
加えて良く吟味する時間も必要です。
このBlogでは何事にも時があるという事を何度か書いてきました。
買うのに時があり、買うのを控えるのに時があるんですよ。
買うまでを苦痛に感じるのはおかしな現象だと分析できるようになったおいらですが、Mac Proを購入して説得力がないですよね。
でもMac Proを購入するまでも熟慮に熟慮を重ねて購入しましたし、それなりに時間をかけました。
Power Mac G5の頃からですからね。
まあこの話はまた別の機会にするとして文具の話ですよ。
長い事つきあえる文具として代表的なのは「万年筆」がどうしても外せなくなります。
おいらはこの万年筆に関心を持つようになったのは一昨年ぐらいからなのですが、そこからかなりResearchをしました。
万年筆は「心許ないモノ」という印象があまりにも強すぎて踏み切れなかったんですよね。
しかし学生時代から比較すると多少は投資できるようになって購入するようになりました。
学生時代に強烈な否定的な印象を完全に払拭できる道具ばかりで驚くばかりですよ。
万年筆を高く評価している人たちの記事を懐疑心いっぱいで見ていましたが、現在はその通りなのだと納得ずくで読み純粋に楽しむ事が出来ています。
もっと万年筆や文具の雑誌が沢山あっても良いのにと考えるほどです。
何だか訳のわからない記事になりましたが、今回の記事では
道具の使用具合や手入れによって価値観や気遣い、その他諸々を推し量る
ある程度の目安になるという事を書きたかったんですな。