2006.12.31にやっておけ!!(怒)........
昨日は親戚の親子が来られており、いきなりマッサージをしてくれと言うことになった。
本当はその時間を使って、自分のBLOGを見返してダイジェストでお送りしようと構想していたんですがおじゃんにしてくれました。
よって予定を変更してお送りいたしております。
おいらの中ではまだ2006年です。
寝てからでないと次の日になったと考えないのだ。
だからおいらの中での今年中に書いておこうと思います。
(おいらの中では)今年はマジで続けました。
本気の時もあれば、冗談交じりの時もありました。
自分に腹が立つことも多く、悲しい事もありました。
「年のはじめはさだまさし」を見ています。
毎年見ているのですが、今年のさださんの紅白の歌にはぐっと来ました。
紅白でさだまさしさんが「案山子」を歌ったときに痛感しましたな。
おいらの家族が帰る場所はもう無いんだと......
歌を聴いているとマジ泣きしてしまいそうでしたが、家族が一緒だったので我慢しました。
でも父上が気の毒で不憫でつらかったです。
あの歌をさださんが歌っているときは父上の顔を見れませんでした。
見てしまうと泣いてしまいそうで、泣いてしまうのが恐くて、でも父上の気持ちを考えると辛くて悲しくて.......
ばあちゃんが存在しなくなってから今頃になっておいらの故郷のメインだったのだと感じました。
生きている事って辛いことばかりなように感じる世の中ですな。
良いこともありました。
借金生活になりましたが、EOS 30Dと年末にはEF17-40mm F4Lが来ました。
これらによって写真のできが大きく変わりました。
いろいろと技術革新がおいらの周りでも起こったと言うことですな。
正直おいらの役に立つ事って写真を撮ることぐらいですからな。
まあ写真の出来も良くないのに役立つとは言えないかもしれないというのは突っ込まれると辛いのですがね。
またステーショナリーをいろいろ買いました.......
ステーショナリーを買うならカメラ関係の方に回せという話ですよ....
何を考えているのでしょう。
もっと真面目に真剣に金の使い道を考えなければならないと振り返ると感じますな。
ちゃんとしよう。
少し書いておきたいことがあります。
これはJWしか解らないことだと思いますが、将来にも残るでしょうし、自分でも見返す事があることを前提にとして書いておきます。
今日(2006.12.31)の研究記事の「○老を信用しましょう」的な記事はおいらは全く従うつもりはありません。
というより人間を信用して自分の心を全部はき出すことは無いでしょう。
正直に書いておくとおいらにとってあの記事は不快でしかありませんでした。
肝心の方々が信用ならない人だということが解っている場合の際は絶対無理ですし、おいらの中では人間というのはすべて信用ならない人ばかりだからです。
確かにある程度は信用に値する方がいるのは確かです。
しかしおいらにとって腹を割って話す人というのはほぼ皆無です。
確かに○老に油を塗って貰うことは重要です。
心に癒しを施して貰い傷を修復することは必要不可欠だといえるでしょう。
少し昔のことを書いておきます。
高校生の時からおいらの面倒を見てくださった方は「自分には甘く、他人には完璧主義」だと言うことが鬱病になって解った方でした。
鬱病になる前においらと一緒の職場で働き仕事の量を考え、おいらは配達、彼は営業でしたので多少の給料の違いはあったでしょうが、それでも分不相応の車や服、鞄などをお持ちでした。
彼の言い分では鞄やスーツなどは「働いていた頃に買ったもの」だったそうでしたが、車に関しては彼の給料ではとうてい賄えないものでした。
軽自動車なら納得できたでしょうけどね。
普通車が2台で子供が二人を養うにはかなり無理があったはずです。
確かに子供を乗せるには大きな車の方が良いでしょうし、必要に迫られて買ったといえばそうなのかもしれません。
また貯金があったのかもしれませんし、うまいことやりくりしていたのでしょうけどね。
そう考えると物質的な事に関しては言い分がありその余地がいくらでもあります。
しかし書いておかねばならないこととしては
自分の考えを強制したり、それを押しつける
ような方法はこの組織に関してはありえないことでしょう。
聖書には圧制的な狼が○衆の中に現れ惑わすことがあると予言されていますが、まさに彼がその圧制的な狼だったと今は言い切れます。
またご自身の子供たちを○権○教○校の助言を自分が行う際に隣に座らせて、それを見せるというのは組織にはそういう指示がありませんし、相応しくないのは子供でも解ります。
これがキリストが行っているのであれば納得できますが、彼の個人的見解に基づくエゴイストによって行っているのであれば協会は○老としての任命などは有り得ないでしょう。
これはおいらの個人的見解ですが、少なくとも助言点や助言の内容というのは「個人情報」であり、それを見る立場にない者(ご自身の子供)にそれを見せるというのは奇怪な行為だと結論せざるを得ません。
彼の価値観を押しつけられて辛い思いをしたのはおいらだけでないことは時々○衆の成員の言葉の端々に出ることがありますので気の毒に感じました。
特に自閉症の子供を抱える方への理解というのが皆無だったことはこの方の○老への接し方から読み取れました。
また今度入られる○老に関して「どのような方なのか?また怒られるような方なのでしょうか?」と真剣においらに尋ねられて深い傷を負っているんだな~と感じました。
今度はいられる方は少なくとも軽率に病気のことを理解せずに助言するような方ではないはずですが言い切れないことを伝えておきました。
正直な事を書くとおいらはもう傷つきたくありませんし、他の人が傷つくのを見るのももうごめんです。
よってすべてのことにおいて深入りしないことにしたいと願っています。
でもそうも言ってられません。
かなり精神的体力がついてきましたので、出来る範囲で関わらなければならないと感じるようになりました。
けっこうハードな内容を書きましたな......
まあこれでも氷山の一角で言い出したらきりがないのですが、おいらはクリスチャンとして彼を認めることはありません。
でも彼のことはもう忘れましたし、あれこれ考えても昔のことです。
昔のことを思い悩んでもなんの解決にもなりませんし、もういなくなった人のことをくよくよ考えても無意味です。
神はすべてのことをご存じですし、公平に、公正に裁かれるはずです。
彼の言葉が心からの言葉であるならば、また彼の言葉が負い目が全くないものであるならば、神はそのことに関しては言い開きを求めるような方ではありませんし、むしろそのことに関しては喜ばれていることでしょう。
しかし人間というのは自分の言葉で傷ついている人がいることも理解し、そのことに対してのお詫びの言葉は人間としての最低限のマナーでしょう。
彼は形的には「○衆から惜しまれつつ実家に帰らなければならない」人間を演じていましたが。○衆の大半の人は出て行ってからは穏和になりましたし、明るい○衆になりました。
○会後の交わりもほとんど無い状態でしたし、5分後には仕事がある人だけが残っている状態でしたからね~。
今では20分以上はざらで30分ぐらい交わることがあるぐらいです。
まあおいらの個人的見解ですので気のせいなのかもしれませんがね。
またおいらも他の人に対して多くの罪を犯してきました。
時に会話の中で無思慮になり傷つけ、時に注解によって傷つけ、時に行動によって傷つけてきました。
こんなおいらが他の人の批判をするのは僭越で、人間的で悪い所を指摘することは分不相応なことであることは明確であり、このことでおいらは裁かれるべきです。
申し開きをした際に「クリスチャンとしては相応しくない感情にまかせて書いたこと」「罪である確信犯的に書いたこと」を正直に言うつもりです。
これはあくまでおいらの個人的見解であり、他の人がこれを見て偏見を持つのは相応しくありません。
この部分はあくまでおいらの肉的傾向から見た見解であることをご理解ください。
おいらは死ぬべき人間なのです。
そんな人間の戯言だと思って読み、読んだなら忘れてください。
......少し書き込んでしまいましたな.......
おいらは彼よりも罪深く彼のことをどうこう言えるほど上等な人間ではありません。
おいら自身は人類史上最も劣等な人間です。
書くことには全く内容がないこともこのブログを読まれると解るでしょうし、それほど価値がないことも少し読めば解ることでしょう。
なんだか後半は批判祭りでしたな.......
疲れたのでそろそろ寝ます。
まだまだ書くことがあったのですが、薬の作用で頭がボーとしているので変な書き方になっていますな。
それでは
ごきげんよう。
昨日は親戚の親子が来られており、いきなりマッサージをしてくれと言うことになった。
本当はその時間を使って、自分のBLOGを見返してダイジェストでお送りしようと構想していたんですがおじゃんにしてくれました。
よって予定を変更してお送りいたしております。
おいらの中ではまだ2006年です。
寝てからでないと次の日になったと考えないのだ。
だからおいらの中での今年中に書いておこうと思います。
(おいらの中では)今年はマジで続けました。
本気の時もあれば、冗談交じりの時もありました。
自分に腹が立つことも多く、悲しい事もありました。
「年のはじめはさだまさし」を見ています。
毎年見ているのですが、今年のさださんの紅白の歌にはぐっと来ました。
紅白でさだまさしさんが「案山子」を歌ったときに痛感しましたな。
おいらの家族が帰る場所はもう無いんだと......
歌を聴いているとマジ泣きしてしまいそうでしたが、家族が一緒だったので我慢しました。
でも父上が気の毒で不憫でつらかったです。
あの歌をさださんが歌っているときは父上の顔を見れませんでした。
見てしまうと泣いてしまいそうで、泣いてしまうのが恐くて、でも父上の気持ちを考えると辛くて悲しくて.......
ばあちゃんが存在しなくなってから今頃になっておいらの故郷のメインだったのだと感じました。
生きている事って辛いことばかりなように感じる世の中ですな。
良いこともありました。
借金生活になりましたが、EOS 30Dと年末にはEF17-40mm F4Lが来ました。
これらによって写真のできが大きく変わりました。
いろいろと技術革新がおいらの周りでも起こったと言うことですな。
正直おいらの役に立つ事って写真を撮ることぐらいですからな。
まあ写真の出来も良くないのに役立つとは言えないかもしれないというのは突っ込まれると辛いのですがね。
またステーショナリーをいろいろ買いました.......
ステーショナリーを買うならカメラ関係の方に回せという話ですよ....
何を考えているのでしょう。
もっと真面目に真剣に金の使い道を考えなければならないと振り返ると感じますな。
ちゃんとしよう。
少し書いておきたいことがあります。
これはJWしか解らないことだと思いますが、将来にも残るでしょうし、自分でも見返す事があることを前提にとして書いておきます。
今日(2006.12.31)の研究記事の「○老を信用しましょう」的な記事はおいらは全く従うつもりはありません。
というより人間を信用して自分の心を全部はき出すことは無いでしょう。
正直に書いておくとおいらにとってあの記事は不快でしかありませんでした。
肝心の方々が信用ならない人だということが解っている場合の際は絶対無理ですし、おいらの中では人間というのはすべて信用ならない人ばかりだからです。
確かにある程度は信用に値する方がいるのは確かです。
しかしおいらにとって腹を割って話す人というのはほぼ皆無です。
確かに○老に油を塗って貰うことは重要です。
心に癒しを施して貰い傷を修復することは必要不可欠だといえるでしょう。
少し昔のことを書いておきます。
高校生の時からおいらの面倒を見てくださった方は「自分には甘く、他人には完璧主義」だと言うことが鬱病になって解った方でした。
鬱病になる前においらと一緒の職場で働き仕事の量を考え、おいらは配達、彼は営業でしたので多少の給料の違いはあったでしょうが、それでも分不相応の車や服、鞄などをお持ちでした。
彼の言い分では鞄やスーツなどは「働いていた頃に買ったもの」だったそうでしたが、車に関しては彼の給料ではとうてい賄えないものでした。
軽自動車なら納得できたでしょうけどね。
普通車が2台で子供が二人を養うにはかなり無理があったはずです。
確かに子供を乗せるには大きな車の方が良いでしょうし、必要に迫られて買ったといえばそうなのかもしれません。
また貯金があったのかもしれませんし、うまいことやりくりしていたのでしょうけどね。
そう考えると物質的な事に関しては言い分がありその余地がいくらでもあります。
しかし書いておかねばならないこととしては
自分の考えを強制したり、それを押しつける
ような方法はこの組織に関してはありえないことでしょう。
聖書には圧制的な狼が○衆の中に現れ惑わすことがあると予言されていますが、まさに彼がその圧制的な狼だったと今は言い切れます。
またご自身の子供たちを○権○教○校の助言を自分が行う際に隣に座らせて、それを見せるというのは組織にはそういう指示がありませんし、相応しくないのは子供でも解ります。
これがキリストが行っているのであれば納得できますが、彼の個人的見解に基づくエゴイストによって行っているのであれば協会は○老としての任命などは有り得ないでしょう。
これはおいらの個人的見解ですが、少なくとも助言点や助言の内容というのは「個人情報」であり、それを見る立場にない者(ご自身の子供)にそれを見せるというのは奇怪な行為だと結論せざるを得ません。
彼の価値観を押しつけられて辛い思いをしたのはおいらだけでないことは時々○衆の成員の言葉の端々に出ることがありますので気の毒に感じました。
特に自閉症の子供を抱える方への理解というのが皆無だったことはこの方の○老への接し方から読み取れました。
また今度入られる○老に関して「どのような方なのか?また怒られるような方なのでしょうか?」と真剣においらに尋ねられて深い傷を負っているんだな~と感じました。
今度はいられる方は少なくとも軽率に病気のことを理解せずに助言するような方ではないはずですが言い切れないことを伝えておきました。
正直な事を書くとおいらはもう傷つきたくありませんし、他の人が傷つくのを見るのももうごめんです。
よってすべてのことにおいて深入りしないことにしたいと願っています。
でもそうも言ってられません。
かなり精神的体力がついてきましたので、出来る範囲で関わらなければならないと感じるようになりました。
けっこうハードな内容を書きましたな......
まあこれでも氷山の一角で言い出したらきりがないのですが、おいらはクリスチャンとして彼を認めることはありません。
でも彼のことはもう忘れましたし、あれこれ考えても昔のことです。
昔のことを思い悩んでもなんの解決にもなりませんし、もういなくなった人のことをくよくよ考えても無意味です。
神はすべてのことをご存じですし、公平に、公正に裁かれるはずです。
彼の言葉が心からの言葉であるならば、また彼の言葉が負い目が全くないものであるならば、神はそのことに関しては言い開きを求めるような方ではありませんし、むしろそのことに関しては喜ばれていることでしょう。
しかし人間というのは自分の言葉で傷ついている人がいることも理解し、そのことに対してのお詫びの言葉は人間としての最低限のマナーでしょう。
彼は形的には「○衆から惜しまれつつ実家に帰らなければならない」人間を演じていましたが。○衆の大半の人は出て行ってからは穏和になりましたし、明るい○衆になりました。
○会後の交わりもほとんど無い状態でしたし、5分後には仕事がある人だけが残っている状態でしたからね~。
今では20分以上はざらで30分ぐらい交わることがあるぐらいです。
まあおいらの個人的見解ですので気のせいなのかもしれませんがね。
またおいらも他の人に対して多くの罪を犯してきました。
時に会話の中で無思慮になり傷つけ、時に注解によって傷つけ、時に行動によって傷つけてきました。
こんなおいらが他の人の批判をするのは僭越で、人間的で悪い所を指摘することは分不相応なことであることは明確であり、このことでおいらは裁かれるべきです。
申し開きをした際に「クリスチャンとしては相応しくない感情にまかせて書いたこと」「罪である確信犯的に書いたこと」を正直に言うつもりです。
これはあくまでおいらの個人的見解であり、他の人がこれを見て偏見を持つのは相応しくありません。
この部分はあくまでおいらの肉的傾向から見た見解であることをご理解ください。
おいらは死ぬべき人間なのです。
そんな人間の戯言だと思って読み、読んだなら忘れてください。
......少し書き込んでしまいましたな.......
おいらは彼よりも罪深く彼のことをどうこう言えるほど上等な人間ではありません。
おいら自身は人類史上最も劣等な人間です。
書くことには全く内容がないこともこのブログを読まれると解るでしょうし、それほど価値がないことも少し読めば解ることでしょう。
なんだか後半は批判祭りでしたな.......
疲れたのでそろそろ寝ます。
まだまだ書くことがあったのですが、薬の作用で頭がボーとしているので変な書き方になっていますな。
それでは
ごきげんよう。