扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記

思うままに....
感じるままに....
JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。

Digital PhotoNo.57&Mind DarknessNo.11 2009.02.06

2009-02-06 23:55:55 | Weblog
先月撮影した写真を現像しています.....................................

Presentation用の写真を切らしてしまってここ2週間程度は渡せていません。
ということで渡せる写真をPrint注文して明日ぐらいに受け取りにいけるようにしたいと考えています。
おいらは継続的に物事を行っていくことが最善を尽くすことだと認識しています。
人は日々の生活を送ることで「頑張」っていると思うんですよね。
「頑張る」の定義を間違っている人が多くて困ります。
一生懸命物事を行い、ぎりぎりいっぱいまでして始めて頑張るとなるとは到底思えません。

よって日々の生活を送ることの中に組み込み生活の一部にすることで馴染ませていく事が最善を尽くすことなんですよね。
一時的で短期的の活動というのは確かに効果的で凄いという印象を他の人は受けると思います。
でも人というのは継続的に生活しており時間というのは過ぎていきます。
時間は時に残酷で、時に癒しとなります。
残酷なことの方が多いですけどね。
でも人間としての活動はその中での続いていますし、植物や自然も移り変わっているのを痛感するんですよね。
植物の美しさというのは「切ない」からこそ美しいと思う訳です。
これは人も同じですよね。
人というのは変化していきます。
生きていても歳をとっていきますからね。
この頃思うのです。
歳をとる、年を重ねる事って美しいことなんだな~ってね。
それと植物の美しさには本当に励まされます。
毎年花を咲かせる木々を見ていると何も言いませんし、通常は見られることもない所まで咲いているんですよね。
毎年ですよ。
そして期待していてもいなくても花を咲かせる忠節さを見ると神様を感じますね。

おいらは鬱病で時が癒しになるなんて考えもしていませんでした。
他の人は良く言っていました。
「時が解決するよ」
「時間が経てば元気になる」
というようなことをね。
外傷ではこれは顕著に解る回復を見せます。
しかし精神的な障害というのは信じがたい状態になっていました。
親が死んでから命を絶つことを決心して生きてきました。
親が生かしてくれていなければおいらは「生き続ける」ということを放棄していたからです。
今も多少はこのような影響がありますがね。
世界が闇に染まって黒しかない世界でしたからな。
そのような子供たちが幾人か居ます。
でも一人の子はこういった環境から抜け出そうとしているんですよね。
もう一人の子はまだですが、その子に今写真を渡し続けるようにしている感じでしょうか。

精神障害というのは外見では解りません。
これが一番性質が悪い所ですね。
書き方が悪いかも知れませんが、ギプスをして骨折しているのが解ったり、包帯を巻いて怪我をしていることが解るほうが視覚的に理解しやすいんですよね。
でも精神的な疾患というのは一見しただけでは絶対に他の人の理解を得られません。
「健常者」と何ら変わりはないからです。
心の傷というのは誰しも抱えているものですが、ある程度の自尊心が癒していきます。
少なくとも「人としての尊厳」を認識していれば多少の傷はCoverできるモノなんですよね。
しかし精神障害を起こすぐらいに心の傷がある人はそれを癒す手段を持たずに逆に傷つけることの方が得意なことが少なくありません。
「自虐の極まり」が精神障害なんですな。
Wrist Cutは自分が生きていることを確認する作業だと言われています。
血が流れていることを認識することよって自分の中の「生命」を感じるんですね。
おいらはWrist Cutをしたことがありません。
気持ちは良く解ります。
Wrist Cutをしようと思ったことはありますけどね。
じんわり死んでいくのを良しとしなかったんですよ。
死ぬならば確実に死ぬ方法を重ねて一つの方法で死ねなくても他の方法を用意しておいて死ぬ事を望んでいました。
侍ならば「切腹」という死に方がありますがね。
切腹というのは死んだ後にかなりの処理が必要になります。
死に方として一番楽なのは一酸化炭素中毒死でしょうね。
気持ちよく死ねるようです。
他の人に迷惑を掛けないで死ぬ方法としては結論として大海を航行する船に乗り見つけられないように飛び込むと良いと考えていますね。
これはフェリーなんかで太平洋を行くオレンジフェリーなんかが最適だと思います。
海に飛び込み大海に出ると助かる可能性は皆無になります。
救命ボートもないですしね。
冬場ならば最善でしょうね。
これで刃物でもあれば最善でしょう。
幾つかの要素により死ぬことが可能です。
・凍え死ぬ
・溺れ死ぬ
・出血多量で死ぬ

Point:行方不明として探されるが見つかることが99%程度の割合で無い

ということですかね。


少しBlackになりましたが、こういった事を常に考えていました。
「如何に死ぬか」、おいらを傷つけた人間への復讐も計画したりしていましたな。
でもこういったNegativeな事というのは人間というのは考えるようには出来ていないようです。

人間というのは建設的でCreativeなことを行うように創られているようです。
生きるか死ぬかの瀬戸際を幾度も潜り抜けてきました。
自死というのは決定事項で死に方を研究していたにもかかわらず、写真というCreativeな活動をするというのは非常に矛盾した生活を送っていたんですな。
それと「自己表現」を不特定多数に発信する事が出来るBlogを書くことになったんですよね。
まさかこの習慣がこんなに長く続くとは思っていませんでした。
写真とLinkさせて写真のUpも出来るようになりましたからね。
こうした環境を構築されると自己表現の場になり面識のない人間でもおいらの気持ちを知ってくれている人が居るというのは精神衛生的に良いモノです。
よっておいらは鬱病や精神障害を負っている人にはBlogや日記を薦めるようにしています。

「時間が解決するのか」という疑問に対しての答えですが、おいらは全く信じていませんでした。
しかし答えは「YES」です。
こういった言い方をする人は絶対に経験したことがないし、おいらのことを知ろうとはしてくれないと考えていましたけどね。
人間というのは都合の良い生き物で楽しいことも嫌なことも忘れていくんですな。
忘れることが出来るのって幸せなことだと辛いことを経験している人は理解できるでしょう。
まあ思い出そうと思えば幾らでも手段があります。
でも切っ掛けを見ても知らんぷりすれば済むことなんですよね。

命というのは素晴らしいモノです。
それは他人の命に関してのみ適応されると信じて疑いませんでした。
おいらの命には価値が無く塵以下で塵と比較するのも烏滸がましいと結論づけていました。
ところがおいらの経験というのは無駄ではなかったのだと上記の年下の子たちを見ると思い知らされています。
おいらがして欲しいと感じていたことをこのような子たちに微力ながら出来るからです。
まあそれが役に立っているのかどうかは怪しい所ですけどね。(笑)
人が気にしてくれている、そればかりか「気遣ってくれている」と実感すると自分の価値というのは自ずと上がるモノです。
特に自責の念の強い傾向がある子たちには本当に効果がありますね。
現在、

「自分は駄目な人間だ」
「自分は生きる価値がない」
「なぜ生まれてきたのか」

と考える子が余りにも多すぎます。
そのような子たちの望みを全てを他人であるおいらが全てを汲むことは出来ません。
親族ならば組めるように努力はするでしょうけどね。
他人に行える事というのは本当に微力なことです。
無いと言っても良いぐらいのことなんですよね。
それでも「雨垂れ石を穿つ」んですよ。
小さな事でも続けていると影響が大きくなっていくのです。
積もりに積もったモノを振り返ると見応えのあるAlbumになっていた..........という結果になっていて欲しいモノですね~。

今日のImageは2009.01.06においらの町の旧市街に撮影に行った際にたまたま開いていた古民家再生Projectの家の中です。
「古民家再生プロジェクト」で検索すると出てくると思うので見に行ってみてださい。

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6 コメント

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読んだ。 (g)
2009-02-12 02:10:18
はじめまして。
うつ病持ち(表面は快復済)の38♂です。

「生きる価値」でブログ検索してこのページにたどり着きました。

ごくたまに、なんにもしたくなくなって、今日(建国記念の日)なぞは睡眠15時間バージョンだったりします。いっそ、自分の決めた手段(冷たい海へカラダをうずめること)でオシマイにしようとも思うのですけどね。
あらゆるメディアで成功したり/失敗したり表立ってるヒトを見ると、何もしてない自分って何だろうって
思うんです。
でも何をしたらいいんだろう、となって思考停止する
のがいつものパターン。憂鬱です。

そんなときWebでこういうページを読むと、少し落ち着きます。
ありがとうございます。
「時間が解決する」こともある。
きっとそうだと感じて。

自身は職業人なので明日も会社。
森田療法も少し勉強してて、
どんなに気分が向かなくても会社に向かう、
ソコだけは自分を認めて、
明日に臨みます。

おやすみなさい。

g

返信する
Unknown (mumu.com)
2009-02-19 00:35:28
#gさんへ
初めまして。
ようこそこのような辺境Blogへおいでくださいました。

Titleの上を読んでいただくと解ると思うのですが、おいらは自分自身が生きているのを不思議に思って生きています。
「生きる価値」というのは自分自身が一番解らな(認識)なければならない事なのですが、自分の価値を低く見すぎる人が少なくありません。
特に長子(長男、長女)が多いようですね。
下の子に抑圧されるということを必ず経験するからなのでしょうかね~。
弟や妹が出来ると一度は幼心に「親を取られた」という気持ちを抱いてそれが後々の人生まで影響を与えていることも少なくないと考えています。
おいら自身も現在進行形で生きる価値を問い続けていますが、最近は少しは肯定的に生きることが出来るようになりつつあります。

その要因として記事に書いたとおりで
「Blogを書くこと」
「Creativeな活動をすること」
があります。

今でこそこのような記事を書けていますが、Blogを書き始めた頃の記事というのは自分の人生を呪うような事を沢山書いていました。
それにBlogでは書けないようなことも沢山あります。
「自死」を選べなかった、もしくは選んでいない(現在進行形)のも理由があるんですよね。
生きるということを「実感したい」と願っても直ぐに実感できる人というのはどれだけいるのでしょう?

おいらは鬱病に成り立ての頃は「他の人の評価」が生きる基準でした。
生きる全てが他人の評価に終始していたんです。
でも他の人の評価というのは努力との兼ね合いを考えると非常に低いモノです。
ちゃんと評価してくれる人の方が少ないですよね。
だから「自分で自分を評価する」大切さを考えるんです。

仮面鬱病という言葉をご存じでしょうね。
おいらもその口でしたから、営業スマイルや対外的な笑顔というのは鬱病の人は大の得意です。
しかし「心から笑ったことがここ数年無い」とか「心から楽しいと感じない」という人が少なくありません。
鬱病を患う人には、何かしなければならないと考える「強迫性障害」を併発している人が殆どです。
でも自分に出来る「分」を自分の生活の中から抽出すると「何かしなければならない」と考える事というのは余りに沢山ありすぎて実行できないという現実があります。
出来なくて当たり前なのに「自分は無力だ」、「自分には生きる価値がない」と考えてしまうんですよね。

そして一度自分が居ないつもりで自分を捨てたんですよ。
すると自分自身の行動がどれほど影響を与えているのかを把握できるようになりました。
少しは役に立てていると認識できるようになったんです。

上記の書き込みはおいら自身が考えていたことばかりです。
おいらは重度の鬱病になって8年程度経過しました。
その前から鬱病の気があったのに気が付いたのは2~3年前です。

おいらは華々しい栄華を誇っている人たちも必衰で忘れられていくと言うことを理解すると安心しました。
日本のテレビで取り上げられている失敗者をおいらは敗者だとは思えません。
曲がりなりにも生きていける環境がありますからね。
リアルに餓死で死んでいる国や地域の人たちの事は取り上げず、そのような人たちの生活環境、教育環境を改善するように努めている人はごく一部です。
自分がどうして生まれたのかさえ疑問を感じないまま死んでいく人が居るのですから、教育を受けて自身の存在の意義を問える自我を認識できるというのは人間特有の価値観なのでしょう。

「時間が解決する」というのは本当に実質的、物理的に長い時間がかかって実感することです。
生き急いでいた20代で直ぐに効果を求めていた時期がありました。
しかし効果を求めていた頃はことごとく全てが肩すかしを食らいまた落ち込んでいった経験があります。
直ぐに治るのはごく一部の人たちのようです。

自分の価値を高く評価してあげて下さい。
自分の努力を知っていて、我慢し、直向きに仕事をしているのを理解しているのは他でもない自分自身ですからね。
少なくとも自分の価値というのは鬱の度合いにもよりますが、100倍ないし数億、数兆、もしくはそれ以上に価値があります。

おいらはクリスチャンなので自分が行った些細なことでもそれが人の為になったならば、神様は見て下さっているという聖句を知っています。
それもかなりの救いになりました。

「森田療法」は学んだことがないので少し調べてみます。
おいらが助けになった本はデール・カーネギーという人の「道は開ける」という本です。
1700円程度の本ですが、おいらにとっては100倍出しても良いぐらいに価値のある本でした。(笑)
予算や時間のある際に是非読んでみて下さい。

長文失礼します。
返信する
目が覚めた (g)
2009-02-19 04:25:54
こんばんは。
なぜか夜中2:00に目が覚めて(しかも眠れず)
フラっと立ち寄ってみたら
コメントRes貰ったばかりだったので驚きました。
「これを見るために目を覚ましたのか!!」と(笑)

さて現時点、
上記コメントした時からは幾分回復してます。
(ほんとに海へ行こうかと思ってた。
クルマで2時間。駐車場完備の海。)
回復したとはいえ「自信満々」だった20代を思えば、
今の自分は「低空飛行」状態だという認識です。

>特に長子(長男、長女)が多いようですね。
そうなんですね。言われてみると私は長男。

>おいら自身も現在進行形で生きる価値を問い続けていますが、最近は少しは肯定的に生きることが出来るようになりつつあります。
ここまでポジティブになれるといいな、
と思いますが、
自分は、今は生きているもののネガティブ(仕方ないから生きる)です。でも、生きてます。

自分の場合、学生時代から芥川や太宰にあこがれてて
「30代でひたすら自らの生を悩んで、悩みぬいて、
死ぬのだ」
という超短命な人生観しか描けてなかったもので、
それに照らせば今は「余生モード(笑)」なのか、とも感じてます。
だから、現時点で「積極的な自分」不在なのは半ば自己責任とも感じてます。

しかし、なぜか家庭も持ち、なぜか子供もいて
、それはそれで数年経ってみると
「社会として放っておけない」
のが現在の生きてる理由、でしょうか。
そこに自分は存在しません。

>生きるということを「実感したい」と願っても直ぐに実感できる人というのはどれだけいるのでしょう?
私は実感できてない派です。
20代は「何で得られないんだ」ともどかしかった
ですが、今となっては得られないものだ、という
「悟り」モード。でも...

これもメディア上の話になってしまいますが、
「プロフェッショナル仕事のナントカ」系の番組で、
その道の一線級で働く方々が
「一途に打ち込む」
絵面が流され、
「俺も『打ち込む俺』になりたい!」
と感化されるのですが、
「じゃ、何に打ち込むの? > 自分」
がいつものこたえ。時間切れ。
世間で惹かれたモノゴトに手を出しては
見るのですが、なかなか見つからんです。

こうして改めて書いてみると
>だから「自分で自分を評価する」大切さを考えるんです。
ここまでたどり着いてない自分がよく判ります。
評価するっていっても、
起きて、食って、仕事して(成果もあがらなくて)
帰って、風呂はいって、寝る、という
単純な評価軸しかない自分には
「よし、今日はよくメシ食ったな(笑)」
ではあまりにも哀しい。

だから何かせねば、でも何するんだろう???(継続モード)

、という状態です。

この場でRes.して/受けてみて、改めて
自分が「おこちゃま」「お坊ちゃま」なのを
自覚したのは前進でした。

mumu_comさん、
自分はこれからも、上記の感じで相変わらず悩み続けますが、
mumu_comさんのお蔭で
自分が少し深呼吸できたのを実感してます。

>おいらが助けになった本はデール・カーネギーという人の「道は開ける」という本です。
一度読んでみます。

ありがとうございます。

乱文お許しください。

g
返信する
Unknown (mumu.com)
2009-02-19 23:25:59
#gさんへ
頻繁に覗いて下さっていたんですね。
返事が遅くなって申し訳ないです。

早期覚醒は疲れが余り取れないですね~.................
無事に生活を送られたでしょうか?

書くなら長くなるだろう事が予想されましたので、調子が良い日に返事を書こうと決めていました。
そして案の定で長くなってしまいました。
あなたの言葉には凄く責任感が詰まっていて真面目な方なのだろうと適当にあしらう事は躊躇われたことを添えておきます。
お許しください。

年上の方に偉そうなことを書いていますが、わたしの方が頭が悪いのは明白です。
学歴も浅いですし、出来ることと言えば毎日を精一杯生きることですからね。
わたしが仕事もまともにしていないことからも責任感の欠如というのが推し量れるかと思います。
それに決定的な違いはやはり経験の浅さが顕著に表れると言うことでしょうか。
わたしは机上の空論を振りかざすだけで実行に移さないTypeの人間です。

わたしも太く短くをMottoに高校を卒業して直ぐに死ぬことを考えていました。
生き急いでいたんです。
わたしは生きることに関してはずっと考えてきました。
例え肯定的に

「生きているだけで良いんだよ」

と家族や他の人から言われても自分自身がそれを認めようとしなかったのですから、自分の全てを否定して生きてきました。
自分を否定する作業というのは習慣になって定着して自分を肯定することなんて到底出来ない位置にわたしも居たんです。

でもふと立ち止まって他の人のことを思って生きている時に、そしてそれを実行して相手の益になったのが明らかな時に「自分の分」を得ることを否定することに違和感を覚えるようになっていったんです。
これはあるリアルな会話の中で

「自分の中で自分がどのような位置にいるの?」

と尋ねられたことが切っ掛けでした。
例えばあの人は素晴らしい人でわたしの中では評価の高い位置にいるというような感じでしょうか。
普通の人ならば鬱病の人の中でも「基準の中」に自分を入れて一番下の方に位置づける傾向があるらしいんですね。
しかしわたしの場合は「基準の中には自分を入れることなど到底出来ない」と判断しました。
自分の価値基準の中に自分自身を入れること自体が「烏滸がましい」と考えていたんですよ。
このような基準の下にいるとどのような傾向になるかは明白です。
肯定的な感情を抱くことすら自分には許せないと信じて疑いませんでした。
楽しい、嬉しいといったことを感じるのは人間様が行えることであってゴミと比較することすら烏滸がましいとさえ考えていたので直向きに下を見詰めて生きていました。

このように返答すると直ぐに尋ねられた方が

「自分に関してあなたは厳しすぎるんじゃない?」

「”絶対に”自分自身に寛容になってあげなければならない」

という内容の助言を頂きました。
わたし自身は基準の中に自分を入れないのは当然のことで、誰にも尋ねられたことは有りませんでしたので普通のことだと思っていたんです。
でも普通の人は普通は平均を取ると「中の上」程度の自己評価を行うようですね。
「基準の中にさえ入らない」という判断が如何に厳しいのかは今良く解ります。
まあ今でも自己評価は下の下ぐらいですが、精神的負担が劇的に向上するようになりました。
基準の中にさえ入らなかったんですから、無理くり強制的にでも入れるように心がけるようにしたんです。
何か物事を行う際に「人の役に立つかどうか」を考えるようになりました。
動機は人の為を思って行動するのが美しいとされていますが、これは後付でも何でもいいようです。

どうせなら20代前半で事故にでも遭って死ぬことを考えていたんですけどね。
自死というのは「クリスチャンとして許されない行為」というジレンマがわたしを苦しめました。
よって「人の過失によって死ぬなら良いじゃん」と考えてチャンスをずっと窺って死に損ねてきたというのが正確な表現でしょうね。

若い頃というのは実績も信用も無いのに直ぐに結果を認めて貰えるという夢のような考え方をしていました。
理解力や把握力が有る人間であればある程度経験すると自分の肌に合わない仕事というのは解りますよね。
特に鬱病になる方というのはこの辺りの感覚が非常に繊細で直ぐに仕事を飲み込み、覚え、教えられた以上の結果を出せるように思います。
それだけ努力をし、一生懸命物事を行います。
しかし周りの反応というのは人一倍なんて生ぬるいモノではなく人の何倍も努力しても「他の人と一緒」と見られます。
出る杭は打たれますし、努力に報いる人というのは居ないのが解るんですよね~。

わたしの性格はどうも独立して一人で物事を行う仕事が向いているようです。
もしくは出来高払いの仕事などに向くでしょうね。
人に雇われて安く使われるにしても人一倍働く傾向があるようですからね。
もしかしたらgさんもそうなのかもしれません。
唆している訳ではないので断っておきますね。

「経験者は語る」と良く世間では聴きます。
これは真実だと思いますね。
楽をして手を抜いて生きている人と一生懸命に考え努力を惜しまずに生きている人の「物理的な時間」というのは全く一緒です。
でも内容を考えると精神的な時間は後者の方が長く濃いモノであり、「物理的な時間」という観点では濃密で有意義な過ごし方をしているのは明白です。
わたしは手を抜くことよりも、見られていても見られていなくても手間暇惜しまず最善を尽くす人を評価していきたいと思いますし、自分もそうありたいと願っています。

また「自分の言葉」を軽いモノにしたくないという願いもあります。
発する言葉に意味を付して行きたいと願ってやみません。
舌というのは厄介なPartsでペラペラと適当な言葉を繰り出していきます。
こういった傾向がわたしの場合は強いモノですから、言葉を有用なモノに出来る人に憧れるんです。

自己疑心に陥り自分自身の価値を疑う時期にこのような言葉たちは痛烈なのかも知れません。
そのことを断っておきますね。
でも「あなたには価値がある」ということを少なくともわたしは知りました。

何かをしなくても良いんです。
今は休む時期なのだと思えるのは少し先かも知れませんが、

何かをしなければならないと考えるのは「強迫性障害」という障害なのだと思っていただけませんか?
おいらも心当たりがありまくりで「何かしなければならない」と思って行ったことで納得できたことは殆どありません。
理想が高すぎて達し得なかったんですよね.....

わたしの経験は過去の記事を読むと解るかと思うのですが、一つ一つの記事が無駄に長いので読むのが大変かと思います。
わたしの代表的なブラック(後ろ向き)な記事のリンクを張りますね。

「黒色の記憶」
http://blog.goo.ne.jp/mumu_com/e/d86c62d8ea751ef5baef45be2e474f49
「鬱やPTSDの夢への影響」
http://blog.goo.ne.jp/mumu_com/e/40132a41a1cbe81f7e499f71eab80691

これらの記事を書いてから1年半以上経過しました。
あの頃よりも自分が生きることを少しですが肯定できる自分が居ます。
BlogというToolを用いて心の闇を吐き出しているという感じでしょうかね。
それに鬱病は心の整理が出来ていないことからもわたし自身は起こっていました。
こういう点でわたし自身にとってのBlogの価値というのは「=生きる」でした。
今はリアルな生活でも役立つように努力しています。

デール・カーネギーさんの「道は開ける」については但し書きがあります。
Amazonのカスタマーレビューで評価の低い方のコメントを読まれてから本を手に取り立ち読みされて下さい。
相性がどうしてもありますからね。
わたしの場合はこの本との相性が良かったので役に立ちました。
Linkを張っておきますね。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4422100521/ref=s9_subs_c5_s1_p14_i1?pf_rd_m=AN1VRQENFRJN5&pf_rd_s=center-2&pf_rd_r=0W4G0ZE3TGTV1P2T6G1J&pf_rd_t=101&pf_rd_p=463376756&pf_rd_i=489986

考えを整理できずに綴ってしまったことをお詫びいたします。
mumu.comより
返信する
バランス (g)
2009-02-23 02:36:18
mumu.comさん、
>年上の方に偉そうなことを書いて
Web上は年齢関係なしですので気になさらず。(年を晒した自分の方が問題とも)

>「生きているだけで良いんだよ」
>
>と家族や他の人から言われても自分自身がそれを認めようとしなかったのですから、自分の全てを否定して生きてきました。
>自分を否定する作業というのは習慣になって定着して自分を肯定することなんて到底出来ない位置にわたしも居たんです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
思い出した!
自分は、大学時代に市販薬(カゼ薬)を一箱服用して自殺を試みました。
1時間ほどしてすごく苦しくなり、四畳半一間の下宿でのたうちまわってました。
でも翌日、目が覚めました。
そのとき思いました。
「自分はなぜか生きてしまったが、もう自分はいない(も同然)。だからこれからは周りに感謝して、周りに役立つように生きてゆこう」
と。
>>そこに自分は存在しません。
自分の書いた悩みそのものが、実は自分が過去に覚悟したことだと気づきました。
単純に解せば「自己矛盾」だった...自分の中がスッキリと整理され、
少し、落ち着きました。

ありがとう。

>「”絶対に”自分自身に寛容になってあげなければならない」
行動した自分を認める、というのは今の自分にも言い聞かせています。(前述「森田療法」の一部でもあります)
「自分はいない」自分が「自分を認める」というのは真逆に感じて、とっつきにくい感じがしたのを思い出します。
でも、後者の欠片を感じるようになっているのが今の自分です。
今回は前者の存在を思い出せず悩んでいたようです。
きっと「自分はいない」はヤジロベエの片端で「この存在も将来忘れてはいかんのだな」と感じた次第です。

>自死というのは「クリスチャンとして許されない行為」というジレンマがわたしを苦しめました。
この記述「大変だけれど、偉いな」と感じました。敬虔なんだな、と。

>しかし周りの反応というのは人一倍なんて生ぬるいモノではなく人の何倍も努力しても「他の人と一緒」と見られます。
>出る杭は打たれますし、努力に報いる人というのは居ないのが解るんですよね~。
そんなに居ないですね。
自分の場合、周囲の評価は「波のよう」で、返ってくるケースもあれば、無反応なケースもありました。
後者の場合、完全肩透かしでガックリです。
ただ「デジタルじゃない」「反発係数1じゃない」と捕らえるようにしてガックリを流すようにはしてます。

>何かをしなくても良いんです。
今は、そうかもしれません。

>わたしの代表的なブラック(後ろ向き)な記事のリンクを張りますね。
じっくり読もうと思います。自分のカコも含めて感じる部分があるかと。

>Amazonのカスタマーレビューで評価の低い方のコメントを読まれてから本を手に取り立ち読みされて下さい。
>Linkを張っておきますね。
レビュー読みました。結果「自分がどうするか」という観点で「十分読むに値する」と判断し、
さっそくBook-Off行ったのですがなかったです(笑)
小遣いに余裕が出たら調達します。

兎にも角にも「気づき」の機会をくださいました。
mumu.comさん、
ありがとうございます。

g
返信する
Unknown (mumu.com)
2009-03-03 00:45:40
#gさんへ
自殺未遂があったんですね。
自己矛盾に気が付いたのはgさん本人です。
わたしは何もしていませんよ。
よって感謝される理由もありません。
ただ助けになったのであれば幸いです。
助かることでもあり悲しいことでもありますが、人というのは忘れていく生き物ですからね。
薬を飲んでいると記憶障害が発生するのはおいらも身を以て認識していますので心中お察しいたします。

「行動した」自分を認める

という表現は的確ですね~。
というより「行動した事を認める」とかく方がより的確でしょうか。
自分を認めることは難しいでしょうからね。
行動して起こった結果は良いことにしろ悪いことにしろ、その人の業です。
「人は自分が蒔いたモノを刈り取る」という言葉があります。
これは行動などを植物を育てることに例えているようです。
自分が行った行為(種を蒔く)によって生じた結果が自分に反映する(刈り取る)ということですね。
よって良いことを行ったのであれば良いモノを得る資格が自然発生的に生じますし、悪いことでも同様です。
このことを弁えていなかった頃は自分だけが消耗して苦しい目に遭っていました。
この頃は最低限で自分が得ることが出来ることを把握できるようになってきましたので楽になっています。

自分のことを認めることは難しいのですが、行動によって発生した効果は認めざるを得ません。
これは過小評価している頃は予想外の反応や反響を生みます。

「自分が存在しないモノと考えていた頃には何故こんな事になるのか?」

と面食らったことも少なくありませんでした。
「そこまで言ってもらう理由はない」とか「そこまでして貰う理由はない」と考えていたモノでした。
でも素直に自分の最低限の分を受け入れることが出来るようになった時点から大きな見方の変化が伴うようになってきました。
仰有るように「肩透かし」も有りますし、波のように返ってくるのもあります。
逆に一度自分が存在しないと割り切ってしまうと「肩透かし」が当たり前だと思えるようになるのは強みだと思いますね。
自分自身でもこれが最大の強みになりつつあります。

普通の人が出来ない経験を出来たというのは意外と良い経験になっているのだな~と実感しています。
それに同様の経験をしている人の心情を察することも出来るようになっているので感情移入できますからね。

他の人には良く言われていることがあります。

「絶対にこの経験が役に立つよ」

ということです。
若い時じゃなくても良いのにと考えていました。
死ぬことを考えながら生きてきた身としては別にいつ何時死のうが構わないという気で生きてきましたので、わたし自身が抱えている矛盾も沢山ありますね~。
自分のことながらですが、周りで自分のことを死んで当然だと考えている人を見かけないことの方が不思議に感じて居るぐらいです。
よって鬱病の中でも大変な部類に入る重度なモノだったんだな~と感じていますね。

ご自身を過小評価しないで下さい。
気づいたのは他でもない「gさんご自身」なのですから。

mumu.comより
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