書いて良いモノかどうか考える訳です..........
書きたいことは山のようにあります。
しかしそれを消化しきれていない状態で記事にすることほど愚かなことはないとか考えるようになりました。
特に長文の記事を書く場合に考えるんですな。
学ぶことは食べる事と関連づけられて表現されることが多く動物の習性も用いられることが多いですよね。
クリスチャン関係の表現方法を借りるのであれば本を読み取り入れることを「食べる」と言いますし、それを再度考慮し黙想することを「反芻する」と言います。
そして自分の身となり肉となるということですな。
そこまでの過程を経ていない記事を今まで沢山書いてきて「かなり馬鹿丸出しだな~」と良く思う訳です。
また「固い食物」を取り入れていくことの重要性も考えます。
「固い食物を食べる」とは簡単に書くと難しい内容を学び理解すると言うことを示しています。
でも固い食物を消化できる人がどれだけいるのか疑問を感じています。
余りにも霊的に幼い人間が多すぎるとか感じる訳です。
固い食物を食べることが出来る人というのは年齢はあまり関係ありません。
理解し、適応し、知恵となって指針としている人がどれほどいるでしょうか?
実年齢と精神年齢、霊的年齢というのは全く関係ありません。
また頭の良さを計る為の一つの基準として「I.Q.」というのがありますがこれは絶対的な指針にはなりもしません。
I.Q.というのは知能指数でしか計れない人間的には不完全な基準です。
確かに知能指数が優れていれば記憶力や思考力が優れている指針となりはしますが、人間的に優れているかというと社会不適合者の方が多いのかも知れません。
極端に結果が良すぎると人間というのは嫌悪を抱いてしまいます。
よって認めたくないという心理が働いてしまうでしょうし、自分の劣等感をCoverしようと多数決という手法を用いて自主防衛手段を講じる傾向にあります。
人間というのは優位性を保とうとして躍起になる生き物ですからな。
劣っていることを認めてしまうと敗北だと考えがちです。
しかし人間というのは一部の人間が築いた手法で測れるほど単純なモノではなく、限りなく球体に近い多面体を持っている訳です。
良いところもあれば悪いところもあります。
「I.Q.」という知能指数を測る方法を編み出した方たちはそこまで考えずに作られたのでしょうかね.........
ところで記事にする基準です。
色々とComputer関係の情報などは流動的ですので気軽に書くことが出来ますが、逆に精神的な事はおいらの考えをまんま反映してしまう訳です。
そして意図していない捉えられ方をされることも多くなっていきます。
だから難しいんですよね。
調子が悪いときに無理して書くと全く辻褄が合っていない間違った記事を量産してしまうことが多いことも気がついています。
でも書きたいことを書かずにる事は苦痛を伴います。
だから本当にしんどいときは書きたいように書いてもいいやと言う感じで書いてしまうんですな。
すると当然のごとく自責の念に襲われる訳です。
だいぶん慣れてきましたけどね。
なるべく消化し身となり肉となっている事から書いていきたいと願っているmumu.comでした。
書きたいことは山のようにあります。
しかしそれを消化しきれていない状態で記事にすることほど愚かなことはないとか考えるようになりました。
特に長文の記事を書く場合に考えるんですな。
学ぶことは食べる事と関連づけられて表現されることが多く動物の習性も用いられることが多いですよね。
クリスチャン関係の表現方法を借りるのであれば本を読み取り入れることを「食べる」と言いますし、それを再度考慮し黙想することを「反芻する」と言います。
そして自分の身となり肉となるということですな。
そこまでの過程を経ていない記事を今まで沢山書いてきて「かなり馬鹿丸出しだな~」と良く思う訳です。
また「固い食物」を取り入れていくことの重要性も考えます。
「固い食物を食べる」とは簡単に書くと難しい内容を学び理解すると言うことを示しています。
でも固い食物を消化できる人がどれだけいるのか疑問を感じています。
余りにも霊的に幼い人間が多すぎるとか感じる訳です。
固い食物を食べることが出来る人というのは年齢はあまり関係ありません。
理解し、適応し、知恵となって指針としている人がどれほどいるでしょうか?
実年齢と精神年齢、霊的年齢というのは全く関係ありません。
また頭の良さを計る為の一つの基準として「I.Q.」というのがありますがこれは絶対的な指針にはなりもしません。
I.Q.というのは知能指数でしか計れない人間的には不完全な基準です。
確かに知能指数が優れていれば記憶力や思考力が優れている指針となりはしますが、人間的に優れているかというと社会不適合者の方が多いのかも知れません。
極端に結果が良すぎると人間というのは嫌悪を抱いてしまいます。
よって認めたくないという心理が働いてしまうでしょうし、自分の劣等感をCoverしようと多数決という手法を用いて自主防衛手段を講じる傾向にあります。
人間というのは優位性を保とうとして躍起になる生き物ですからな。
劣っていることを認めてしまうと敗北だと考えがちです。
しかし人間というのは一部の人間が築いた手法で測れるほど単純なモノではなく、限りなく球体に近い多面体を持っている訳です。
良いところもあれば悪いところもあります。
「I.Q.」という知能指数を測る方法を編み出した方たちはそこまで考えずに作られたのでしょうかね.........
ところで記事にする基準です。
色々とComputer関係の情報などは流動的ですので気軽に書くことが出来ますが、逆に精神的な事はおいらの考えをまんま反映してしまう訳です。
そして意図していない捉えられ方をされることも多くなっていきます。
だから難しいんですよね。
調子が悪いときに無理して書くと全く辻褄が合っていない間違った記事を量産してしまうことが多いことも気がついています。
でも書きたいことを書かずにる事は苦痛を伴います。
だから本当にしんどいときは書きたいように書いてもいいやと言う感じで書いてしまうんですな。
すると当然のごとく自責の念に襲われる訳です。
だいぶん慣れてきましたけどね。
なるべく消化し身となり肉となっている事から書いていきたいと願っているmumu.comでした。