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おいらにとっての9.11を書こうと思います............
最初にツインタワーの映像を見たときに「神の日」が到来したと感じました。
嘆き悲しみ、泣き叫んでいました。
時間がたってもあの出来事は忘れることが出来ません。
涙がとめどなく流れてなぜこのように悲惨なテロが起こりえたのかというよりも、とにかく悲しくてつらいという事実しかありませんでした。
飛行機がツインタワーに突っ込んだ映像が何度も何度も映像として流されます。
日本の報道では「人が死んだ」というよりも「起こりえない事態」ということに焦点が当てられ人間としての悲しみを感じない人間たちが淡々と実況している状況でした。
しかし人としての感情というのは前面に出してこそ、人間としての良心ではないでしょうか?
大きな構造物が大きな構造物にぶつかるということだけで確実に人は亡くなるのです。
そして崩れる光景を見てそこにある命が消えていくことに恐怖を感じました。
絶望という名の親しげな感情がおいらの肩をたたいて、振り向かせようとしていました。
タワーが壊れなかったならこの感情は少なくすんだでしょう。
でも確実に飛行機に乗っていた人たちの命が突っ込んだ瞬間に誰にでも必ず訪れるであろう死という事象が訪れたのです。
「人というのはなんと簡単に死ぬのだろう」と感じ苦しんでいる人がいることを考えると悲しくなりつらくなりました。
見たくない映像を見なければいけないと感じてしまうことはそんなに無いでしょう。
しかし事実を受け止め認識しなければなりません。
崩れていく音と映像を見ると恐怖で心臓を思いっきり握られるような感じに陥ります。
あのとき以降「悲しみ」というのは生きていると常について回る感情なのだと痛感するようになりました。
もっと言葉を多く書きたいのですが、胸がいっぱいになって言葉という形になりません。
あまりに辛く、あまりに酷いテロだったのでたまりません。
しかし絶対に忘れてはならないことだと感じます。
これはテロを起こした人たちの「悲しい動機」のことに関してもです。
彼らの動機は「自分たちの言い分が聴いてもらえない」こと「軍事力ではかなわない」ことからこのような衝撃的な行動に促したと言うことです。
人間としてはしてはいけないことを宗教は肯定してしまう危険性も覚えておく必要があります。
テロを起こした人たちの側にも「正義」があり「裁き」を下すことを実行する人がいるのです。
アメリカは軍事大国として多くの国を裁いてきました。
それがすべて正しい裁きではなかったことはベトナムや朝鮮半島問題を見ると明らかです。
また多くの火種を撒くだけ撒いて無視してきたのですから起こりえる事態だったのでしょう。
アメリカは支援していた国を切り捨てるようなこともしてきました。
よって悪いのはテロ側だけでなく軍事大国や国際連合加盟国などの国にも言えるのかもしれません。
毎年あのテロからこの日に事件に関しての特別番組が放送されます。
テロ当時は消防士は悲劇のヒーローとして勇敢さが讃えられ、賞賛されていました。
しかし彼らの残された家族は亡くなったことが辛いことを訴えていました。
「かっこよくなくても良い、死んで欲しくなかった」と語っていたのです。
昨年の9.11の記事で書いた
「志を持って今を精一杯生きているのか?」
「最善を尽くして生きているのか?」
という問いを考えてから、おいらは今の状況で出来る限り精一杯生きようと考えるようになりました。
また9.11の記事で「やりたいこともせずに」と書きました。
今でも完全ではありませんが、自分のやりたいことをするように最前を尽くしています。
それはカテゴリーの「Illut」や「カメラ&写真」を見ていただくと少しは解っていただけるかと思います。
生きたいと願いながら亡くなった人たちが復活した際に恥ずかしくないようにしておきたいと思っています。
そのときはたぶんおいらは存在しないと思いますし、思い出して欲しくもありません。
しかしもし思い出したときに「どんな人間だったのか?」とか「精一杯生きていたのか?」と考えられるときに「出来ることはしていた人間だった」と感じて貰いたいと思います。
年々このテロの扱いが報道で小さくなっていきます。
おいらは心に刻み込んでおこうと思います。
毎年涙を流すこの日のことを...........
最初にツインタワーの映像を見たときに「神の日」が到来したと感じました。
嘆き悲しみ、泣き叫んでいました。
時間がたってもあの出来事は忘れることが出来ません。
涙がとめどなく流れてなぜこのように悲惨なテロが起こりえたのかというよりも、とにかく悲しくてつらいという事実しかありませんでした。
飛行機がツインタワーに突っ込んだ映像が何度も何度も映像として流されます。
日本の報道では「人が死んだ」というよりも「起こりえない事態」ということに焦点が当てられ人間としての悲しみを感じない人間たちが淡々と実況している状況でした。
しかし人としての感情というのは前面に出してこそ、人間としての良心ではないでしょうか?
大きな構造物が大きな構造物にぶつかるということだけで確実に人は亡くなるのです。
そして崩れる光景を見てそこにある命が消えていくことに恐怖を感じました。
絶望という名の親しげな感情がおいらの肩をたたいて、振り向かせようとしていました。
タワーが壊れなかったならこの感情は少なくすんだでしょう。
でも確実に飛行機に乗っていた人たちの命が突っ込んだ瞬間に誰にでも必ず訪れるであろう死という事象が訪れたのです。
「人というのはなんと簡単に死ぬのだろう」と感じ苦しんでいる人がいることを考えると悲しくなりつらくなりました。
見たくない映像を見なければいけないと感じてしまうことはそんなに無いでしょう。
しかし事実を受け止め認識しなければなりません。
崩れていく音と映像を見ると恐怖で心臓を思いっきり握られるような感じに陥ります。
あのとき以降「悲しみ」というのは生きていると常について回る感情なのだと痛感するようになりました。
もっと言葉を多く書きたいのですが、胸がいっぱいになって言葉という形になりません。
あまりに辛く、あまりに酷いテロだったのでたまりません。
しかし絶対に忘れてはならないことだと感じます。
これはテロを起こした人たちの「悲しい動機」のことに関してもです。
彼らの動機は「自分たちの言い分が聴いてもらえない」こと「軍事力ではかなわない」ことからこのような衝撃的な行動に促したと言うことです。
人間としてはしてはいけないことを宗教は肯定してしまう危険性も覚えておく必要があります。
テロを起こした人たちの側にも「正義」があり「裁き」を下すことを実行する人がいるのです。
アメリカは軍事大国として多くの国を裁いてきました。
それがすべて正しい裁きではなかったことはベトナムや朝鮮半島問題を見ると明らかです。
また多くの火種を撒くだけ撒いて無視してきたのですから起こりえる事態だったのでしょう。
アメリカは支援していた国を切り捨てるようなこともしてきました。
よって悪いのはテロ側だけでなく軍事大国や国際連合加盟国などの国にも言えるのかもしれません。
毎年あのテロからこの日に事件に関しての特別番組が放送されます。
テロ当時は消防士は悲劇のヒーローとして勇敢さが讃えられ、賞賛されていました。
しかし彼らの残された家族は亡くなったことが辛いことを訴えていました。
「かっこよくなくても良い、死んで欲しくなかった」と語っていたのです。
昨年の9.11の記事で書いた
「志を持って今を精一杯生きているのか?」
「最善を尽くして生きているのか?」
という問いを考えてから、おいらは今の状況で出来る限り精一杯生きようと考えるようになりました。
また9.11の記事で「やりたいこともせずに」と書きました。
今でも完全ではありませんが、自分のやりたいことをするように最前を尽くしています。
それはカテゴリーの「Illut」や「カメラ&写真」を見ていただくと少しは解っていただけるかと思います。
生きたいと願いながら亡くなった人たちが復活した際に恥ずかしくないようにしておきたいと思っています。
そのときはたぶんおいらは存在しないと思いますし、思い出して欲しくもありません。
しかしもし思い出したときに「どんな人間だったのか?」とか「精一杯生きていたのか?」と考えられるときに「出来ることはしていた人間だった」と感じて貰いたいと思います。
年々このテロの扱いが報道で小さくなっていきます。
おいらは心に刻み込んでおこうと思います。
毎年涙を流すこの日のことを...........