今日は良い天気でしたね~........
よって梅の花を撮りに出かけたのですが、撮りに出かけた時点では透き通ったスカイブルーではなかったのでyoshidaで撮影しました。
先日matsuyamaで街を撮れなかった鬱憤が溜まっていたので今日は夕日で変わるuwajimaの町並みを撮りに行きました。
3時ぐらいに行ったのですがuwajimaは駐車場が有料の所ばかりです。
何であんな所で有料なのか不思議なぐらいですな。
特に秀でたところはないので駐車場代を払ってまで撮ろうとは思いません。
だから宇和島東高校の裏にある明屋という本屋さんの駐車場に駐めて商店街まで歩いていきました。
かなり遠いと思っていたのですが、歩いてみると意外と近くて楽しく歩けました。
もちろんカメラを持って撮り歩いていたので2時間半ぐらい歩きました。
散歩がてら、撮影がてら、細かいところを見ながら克広いところを見ながら歩きました。
宇和島という街は案外と面白いですね~。
残念ながら宇和島城の開門時間を知らなかったので撮れなかったのですが、次は時間を見ましたので撮りに行こうと思います。
愛媛というのは文化を大切にするので昔の建物が所々にあります。
写真を撮るようになって良く感じます。
でも他の世界を見たいとも感じますね~。
もっと撮る世界を広げたいと感じるんですな。
今の活動範囲というのはなんて狭いのだろうとよく考えます。
西予地方でしか撮れていないのでもっと日本全国、世界各国を撮り歩きたいですな。
今日は車を駐めさせてもらった本屋さんで本を見たのですが、衝撃を受けました。
戦場カメラマンの写真が沢山載せられていました。
かなりショッキングな写真ばかりでした。
戦争の悲惨さ、むごさ、凄惨さをまざまざと見せつけられたという感じです。
人間というのは余りに大きな傷を負うと痛みというのが麻痺します。
見ていて非常にショッキングだったのは5歳ぐらいの少女が腕が爆発したようになっていた写真でした。
言葉でうまく表現できない心の痛みというのは実際に傷を負うよりつらいものです。
少女の腕はあれではもう使えないでしょう。
しかし少女は悲しそうな顔をしていましたが痛そうには見えませんでしたし、自分に何が起こっているのかを理解していないようでした。
将来のある少女が腕を失うことの悲しさを考えると胸が痛みます。
また死んだ我が子の両腕を持って見つめる父親の写真もありました。
あの本を見ていると
「人が死ぬということは簡単なんだ」
という訴えをしているように感じました。
また
「傷つけられても弱い立場の人間は我慢することでしかしのげない」
ということも訴えているように感じます。
戦場カメラマンというのは命がけです。
おいらは良く様々なシチュエーションを考えるのですが、写真を撮ることは命のやりとりの大きさを軽んじていることのような気がしないのでしょうか?
今の世の中ではゲームで多くの人間を撃ち殺すゲームが流行っており、ショッキングな写真を収集し、自己顕示欲を満たすために公開するようなモラルのない人間までいます。
命の大切さ、命の重要性を認識している人間が世界に伝えなければならないという責任を感じ撮っているのであれば、それは必要なことでしょう。
しかし「ゲーム感覚」や「知名度を上げるため」に撮るのであればそれは命を軽んじていることになります。
戦場カメラマンは良くジャーナリズムの最たるもので象徴的なものだと位置づけられていることがありますが、目的を見失っているのであれば人間のする最も最低なことになってしまいます。
平衡の取れた見方を持って大切なことを伝えて貰いたいものです。
自分の画像処理の知識というのに限界を感じています。
今の知識では加工のレベルのアップが難しいんですな。
今までのことを考えると「なぜ撮ることばかり考えていたのか」という大きな疑問が出てきます。
デジタルで撮る写真というのは一貫してカメラマンの技量に掛かっていることが良くわかるようになってきました。
フィルムよりも便利なのは良くわかりますし、加工もかなり出来ることも解ります。
しかし圧縮形式や加工によって劣化が生じることなどは知っていましたが、何がどのようになって劣化が生じているのかを理解できていませんでした。
最近そのあたりのことを調べて劣化の軽減方法、RAW現像の時点での補正によっての軽減などを理解できるようになってきました。
まあ楽しんでもっと調べていこうと思います。
よって梅の花を撮りに出かけたのですが、撮りに出かけた時点では透き通ったスカイブルーではなかったのでyoshidaで撮影しました。
先日matsuyamaで街を撮れなかった鬱憤が溜まっていたので今日は夕日で変わるuwajimaの町並みを撮りに行きました。
3時ぐらいに行ったのですがuwajimaは駐車場が有料の所ばかりです。
何であんな所で有料なのか不思議なぐらいですな。
特に秀でたところはないので駐車場代を払ってまで撮ろうとは思いません。
だから宇和島東高校の裏にある明屋という本屋さんの駐車場に駐めて商店街まで歩いていきました。
かなり遠いと思っていたのですが、歩いてみると意外と近くて楽しく歩けました。
もちろんカメラを持って撮り歩いていたので2時間半ぐらい歩きました。
散歩がてら、撮影がてら、細かいところを見ながら克広いところを見ながら歩きました。
宇和島という街は案外と面白いですね~。
残念ながら宇和島城の開門時間を知らなかったので撮れなかったのですが、次は時間を見ましたので撮りに行こうと思います。
愛媛というのは文化を大切にするので昔の建物が所々にあります。
写真を撮るようになって良く感じます。
でも他の世界を見たいとも感じますね~。
もっと撮る世界を広げたいと感じるんですな。
今の活動範囲というのはなんて狭いのだろうとよく考えます。
西予地方でしか撮れていないのでもっと日本全国、世界各国を撮り歩きたいですな。
今日は車を駐めさせてもらった本屋さんで本を見たのですが、衝撃を受けました。
戦場カメラマンの写真が沢山載せられていました。
かなりショッキングな写真ばかりでした。
戦争の悲惨さ、むごさ、凄惨さをまざまざと見せつけられたという感じです。
人間というのは余りに大きな傷を負うと痛みというのが麻痺します。
見ていて非常にショッキングだったのは5歳ぐらいの少女が腕が爆発したようになっていた写真でした。
言葉でうまく表現できない心の痛みというのは実際に傷を負うよりつらいものです。
少女の腕はあれではもう使えないでしょう。
しかし少女は悲しそうな顔をしていましたが痛そうには見えませんでしたし、自分に何が起こっているのかを理解していないようでした。
将来のある少女が腕を失うことの悲しさを考えると胸が痛みます。
また死んだ我が子の両腕を持って見つめる父親の写真もありました。
あの本を見ていると
「人が死ぬということは簡単なんだ」
という訴えをしているように感じました。
また
「傷つけられても弱い立場の人間は我慢することでしかしのげない」
ということも訴えているように感じます。
戦場カメラマンというのは命がけです。
おいらは良く様々なシチュエーションを考えるのですが、写真を撮ることは命のやりとりの大きさを軽んじていることのような気がしないのでしょうか?
今の世の中ではゲームで多くの人間を撃ち殺すゲームが流行っており、ショッキングな写真を収集し、自己顕示欲を満たすために公開するようなモラルのない人間までいます。
命の大切さ、命の重要性を認識している人間が世界に伝えなければならないという責任を感じ撮っているのであれば、それは必要なことでしょう。
しかし「ゲーム感覚」や「知名度を上げるため」に撮るのであればそれは命を軽んじていることになります。
戦場カメラマンは良くジャーナリズムの最たるもので象徴的なものだと位置づけられていることがありますが、目的を見失っているのであれば人間のする最も最低なことになってしまいます。
平衡の取れた見方を持って大切なことを伝えて貰いたいものです。
自分の画像処理の知識というのに限界を感じています。
今の知識では加工のレベルのアップが難しいんですな。
今までのことを考えると「なぜ撮ることばかり考えていたのか」という大きな疑問が出てきます。
デジタルで撮る写真というのは一貫してカメラマンの技量に掛かっていることが良くわかるようになってきました。
フィルムよりも便利なのは良くわかりますし、加工もかなり出来ることも解ります。
しかし圧縮形式や加工によって劣化が生じることなどは知っていましたが、何がどのようになって劣化が生じているのかを理解できていませんでした。
最近そのあたりのことを調べて劣化の軽減方法、RAW現像の時点での補正によっての軽減などを理解できるようになってきました。
まあ楽しんでもっと調べていこうと思います。