温度差がありすぎて困ります..........
確かに興奮する気持ちはわかるのですが、おいらは静かに見て内に秘めた感性が燃えさかっているタイプです。
おいらは普通の人から見るとかなり良い機材を使っていると見られているようです。
よって
・良い機材を持っている人が撮りに来ている風景を見ることが出来たこと
・それを使っている人(おいら)に挨拶をしてもらったこと
に舞い上がって延々と語る人が多いんです。
撮りに行くと後から乗り付けた人が興奮気味に語ります。
確かに良い風景を撮れるところを探して車を走らせることが多いおいらですが、おいらは静かに撮りたいんです。
また何をそんなに興奮する必要があるのか解りません。
気を遣う方なので疲れるんですな。
このような人の傾向として良い景色を見ている”自分”に酔っているのだと感じます。
また美しいことを確認するために延々と語りたいのでしょう。
おいらは普通の人よりは良い景色をよく見ている方なのかもしれません。
しかし今日行ったところはおいらの基準から書くと妥協して時間が間に合わないから時間がかからない所で比較的、良い景色が見れるところでした。
その人も言っていましたが、上の方に上がっていくとより良い景色が見れることは確かですし、時間があるのであればそうしたいのですが、このごろは忙しくて車で時間の掛からない所で道の整ったアクセスの良い場所という条件で撮れる景色を探しています。
確かに大自然は美しくそれに感動することは良いことです。
おいらも良く感動していますし、家で見返すことにより感動がよみがえってきます。
でもおいらの大前提として「静か」に見たいのです。
良い景色を見に行ってそれを撮っている人というのは余り見かけません。
それはあまりに当然の景色なのでそれは撮るまでもないという考えよりも、生活の忙しさのために自然の美しさに気付かないことの方が多いんです。
感動を分け合いたいという気持ちはわかります。
でも自分の感じている美しさと他の人が感じている美しさを全く同じモノだと考える人は大きな間違いを犯しています。
全く同じ価値基準を持っている人なんていないのですから、さも「自分の方が良い景色を見ているんだ」といわんとする語り方はあまりいい気持ちではありませんでした。
美しいモノを鑑賞ときと言うのは多くのことを考えます。
それは創造美を考えたり、存在の意味を深く黙想する事などが伴っているのでおいらは極力一人で見るようにしています。
もし他の人がいるとしたら再度一人で見直します。
それが不可能な場合は不完全燃焼して、おいらのなかで気持ちが悪いどんよりとしたイメージが募っていきます。
よってより美しいモノを追い求めて探し続ける傾向になっているように感じます。
今日は話した人の話を聞いていると一方的に彼の自己顕示欲を満たすための行為に見えました。
普段の彼のことは余り知りませんが、少し前に見たことがあります。
写真を撮っている人間にとって、特に重要性を与えられないアマチュアカメラマンに多いのですが、いかに自分が写真を撮っているのかを延々と言う人が多いんです。
ほんとにマジで写真を撮っている人は、自分の中で自己完結するような方法で撮ることが多いのです。
まだしもプロの場合は見る側の感性に訴えるような撮影しかしなくなります。
となると嫌でも客観性を求められ、自分の感性を押しつけるようなモノではダメになるのです。
まあ最近の人間の傾向としては、自分の美しいと感じたモノを押しつける人が多くなってきている傾向があるようですがね
あるアルピニスト(登山家)がなぜ山に登るのかと尋ねられた際の言葉と一緒です。
「そこに山があるから登るのだ。」と彼はいいました。
自然を撮るカメラマンの同期も一緒です。
「良い機材を持っている人が撮っているから良い景色」なのではなく
「そこに良い景色があるから撮っている」のだということを知って貰いたいものです。
写真というのは自己完結でしかなく、自然のごく一部、ごく一瞬を切り取ることしかできません。
よってそのときに見た自然の方が美しいということは書くまでもありませんね。
最も美しいことを分け合う方法はそれぞれの価値基準と感性で感じることでしょう。
よって言葉は邪魔になります。
多くを語るよりもただただ美しいモノに魅了されることによって楽しみたいモノです。
確かに興奮する気持ちはわかるのですが、おいらは静かに見て内に秘めた感性が燃えさかっているタイプです。
おいらは普通の人から見るとかなり良い機材を使っていると見られているようです。
よって
・良い機材を持っている人が撮りに来ている風景を見ることが出来たこと
・それを使っている人(おいら)に挨拶をしてもらったこと
に舞い上がって延々と語る人が多いんです。
撮りに行くと後から乗り付けた人が興奮気味に語ります。
確かに良い風景を撮れるところを探して車を走らせることが多いおいらですが、おいらは静かに撮りたいんです。
また何をそんなに興奮する必要があるのか解りません。
気を遣う方なので疲れるんですな。
このような人の傾向として良い景色を見ている”自分”に酔っているのだと感じます。
また美しいことを確認するために延々と語りたいのでしょう。
おいらは普通の人よりは良い景色をよく見ている方なのかもしれません。
しかし今日行ったところはおいらの基準から書くと妥協して時間が間に合わないから時間がかからない所で比較的、良い景色が見れるところでした。
その人も言っていましたが、上の方に上がっていくとより良い景色が見れることは確かですし、時間があるのであればそうしたいのですが、このごろは忙しくて車で時間の掛からない所で道の整ったアクセスの良い場所という条件で撮れる景色を探しています。
確かに大自然は美しくそれに感動することは良いことです。
おいらも良く感動していますし、家で見返すことにより感動がよみがえってきます。
でもおいらの大前提として「静か」に見たいのです。
良い景色を見に行ってそれを撮っている人というのは余り見かけません。
それはあまりに当然の景色なのでそれは撮るまでもないという考えよりも、生活の忙しさのために自然の美しさに気付かないことの方が多いんです。
感動を分け合いたいという気持ちはわかります。
でも自分の感じている美しさと他の人が感じている美しさを全く同じモノだと考える人は大きな間違いを犯しています。
全く同じ価値基準を持っている人なんていないのですから、さも「自分の方が良い景色を見ているんだ」といわんとする語り方はあまりいい気持ちではありませんでした。
美しいモノを鑑賞ときと言うのは多くのことを考えます。
それは創造美を考えたり、存在の意味を深く黙想する事などが伴っているのでおいらは極力一人で見るようにしています。
もし他の人がいるとしたら再度一人で見直します。
それが不可能な場合は不完全燃焼して、おいらのなかで気持ちが悪いどんよりとしたイメージが募っていきます。
よってより美しいモノを追い求めて探し続ける傾向になっているように感じます。
今日は話した人の話を聞いていると一方的に彼の自己顕示欲を満たすための行為に見えました。
普段の彼のことは余り知りませんが、少し前に見たことがあります。
写真を撮っている人間にとって、特に重要性を与えられないアマチュアカメラマンに多いのですが、いかに自分が写真を撮っているのかを延々と言う人が多いんです。
ほんとにマジで写真を撮っている人は、自分の中で自己完結するような方法で撮ることが多いのです。
まだしもプロの場合は見る側の感性に訴えるような撮影しかしなくなります。
となると嫌でも客観性を求められ、自分の感性を押しつけるようなモノではダメになるのです。
まあ最近の人間の傾向としては、自分の美しいと感じたモノを押しつける人が多くなってきている傾向があるようですがね
あるアルピニスト(登山家)がなぜ山に登るのかと尋ねられた際の言葉と一緒です。
「そこに山があるから登るのだ。」と彼はいいました。
自然を撮るカメラマンの同期も一緒です。
「良い機材を持っている人が撮っているから良い景色」なのではなく
「そこに良い景色があるから撮っている」のだということを知って貰いたいものです。
写真というのは自己完結でしかなく、自然のごく一部、ごく一瞬を切り取ることしかできません。
よってそのときに見た自然の方が美しいということは書くまでもありませんね。
最も美しいことを分け合う方法はそれぞれの価値基準と感性で感じることでしょう。
よって言葉は邪魔になります。
多くを語るよりもただただ美しいモノに魅了されることによって楽しみたいモノです。