今までこの言葉でどれだけ諦めてきたのだろうか.............
おいらは納得できなければ物事の意義をいつまでも考える性格(たち)です。
加えて周りの環境には恵まれてこなかった事は明白でおいらが言っていることは「机上の空論」であり「夢」とか「理想」の類だと解釈する方達だけでした。
2007.12.28に先日に引っ越された方と話をしたことなんですけどね。
おいらの言うことはおいらからすれば「Real」で「現実的」というか「達成可能」な事なんですよね。
おいらは出来ないことは言いませんし、要求はしません。
要求の裏には絶対に欲求する人へのKickbackは絶対です。
どちらかというとおいらはKickbackを前提に物事を考えますからな。
以前にも書きましたけどね。
まず買い物の基本は「他者ありき」です。
モノを買うことでも親の許可を貰うのですが、買ったモノから絶対に他の人がおいらが買って事から恩恵を得るような方法で用いることは間違いないでしょう。
買って直ぐにはKickbackは無いに等しいことは間違いないでしょう。
おいらも直ぐに解って貰えなくても良いと思っていますしね。
まあ往々にしてこの考えが誤解を生むわけですが..........
しかし最低限のマナーとして出来ることは行なっていくという姿勢は変わりありません。
昨日の話の中でベースとなるところは全く変わっていないことを言いました。
「仕事に対するスタンス」については特に全く変わっていません。
おいらは仕事からも「自らの手の業を歓びたい」とずっと考えてきましたし、平衡をとれるのであればクリスチャンとしての活動と共に行ないたいと願っていました。
しかしこの考えは「絶対に間違いなのだ」という事を前提に考えている方によってことごとく否定されてきました。
また親からの全くの理解の無さというのもこのことに拍車をかけてきました。
理解をして貰えないことほど人間の欲求が高くなることはないでしょう。
理解というのは人には不可欠の要素である
と言うことをここに書いておきます。
理解というのは一人でも良いのです。
肯定でなくても良いですし、賛成なんていりません。
一定の理解を示して貰えることのどれだけ貴重なことなのかと言うことを知って貰いたいですな。
人間というのは一人一人が行えることは微々たるモノです。
しかしその一人一人が持つ可能性というのは無限大で世の理(ことわり)の範疇であれば何者にも成り得るんですな。
年齢がNeckになるということは全ての分野で言われますし、スポーツの分野や知識Levelや認識力など「自身の能力」ではどうにもならないことの中では制限がありますが、少なくとも自身の能力の範疇では何者にでも成れる可能性が少なからずあり得るわけです。
おいらの中ではこの考えは当然のことでこのことを理解できない人間に付き合うことは非常に苦痛になります。
たしかにおいらは他の人よりも劣等な人間ですし、行なう仕事は苦痛が伴わなければならないという意識が少なからずあります。
というか強要されてきましたからね~。
この条件付けによりパブロフの犬のごとく自己否定が日に日に強くなっていきました。
それまでも自己否定はけっこう強かったのですが、それ以上に強くなっていったわけです。
しかしおいらを洗脳できなかった事からおいらの自身の考えは想像以上に強いという認識が生まれました。
また最近の行動から周りの認識が変わりつつあるという事を昨日の会話の中で指摘されました。
また理解の事に戻るのですが、ただ一人の理解者から人の伸びシロは飛躍的に上昇します。
これは盲目のSingerであり伝説であるレイ・チャールズの歌に対するスタンスと一緒です。
彼は「盲目」というコンプレックスを一人の教師の素晴らしい発想の転換から、見事に自らの最大の強みに変え己の人生をCreativeなモノにしたと言っても過言ではないでしょう。
まあすべての成功が善であるとはおいらは考えられませんがね。
Conservativeな考え方にはおいらは賛同しかねます。
おいらは自身の考えにははっきり言って自信がありませんが、基準にも様々な種類がありますよね~。
その中のちょっとした事にもある一定の基準を持っていますし、その基準がぶれることは余程のことがなければありません。
それは何事に対しても他の人のためであれば「全てのことを神に対するように」最善を尽くすという基準です。
しかし全てを奉仕活動で行なうことはまず不可能です。
これは当然のことですし生活には「衣食住」が必要なわけです。
よって最低限の給料を貰う活動によりこれらを賄う必要があるのですから「仕事」というのは人として生活するのであれば絶対にしなければなりません。
仕事というのは「お金を貰う最低限のこと」をしそれによって給料を貰うという活動です。
でもおいらは仕事を「お金を貰う最低限のこと」で満足するモノには出来なかったんですな。
仕事というのは少なくとも「他の人のために行なう」事が前提にあり出来ることをせずに「手を抜く」なんて事はおいらからすると常軌を逸した活動です。
「継続的に行える範疇の中で」個々の仕事は、
己の持っているポテンシャルを総動員して最高のパフォーマンスを展開する
ことは当然でありおいらからすれば必然な訳ですよ。
たしかに手を抜いているという勘違いが起こるのは頻発するのはある程度は仕方がありません。
でも「手を抜いた」わけではなく「お客さんが要求したこと」に応じた仕事に最善を尽くすわけで出し惜しみとも全く違います。
おいらの仕事の定義は
お客さんが要求したこと以下でも以上でもなく要求したことだけを行なう
ということなんですな。
まあ「+α(おまけ)」はあるでしょうけどね。
そしてその要求以上のことが出来てもしないというのもけっこう重要なことなのです。
仕事というのは一回だけではありませんからね~。
継続的に行なっているのであれば要求通りに行なうことは非常に重要になります。
要求以上のことを行なうとそのお客さんの「ハードル」が上がるわけで次も要求通りよりも「余分なことを行なってくれるのは当たり前だ」という「甘え」が発生します。
よって「+α(おまけ)」にも注意が必要でしょう。
おいらがこの記事で書きたいことは、
要求されたことはCostとの兼ね合いの中での最善を尽くしたい
ということなんですな。
この部分のことの語弊が非常に大きかったわけです。
理解できないことは苦痛でしかありませんでした。
また自己否定が非常に強い際に仕事を選ぶということにタイトルの通り自分自身に「そこまでの価値はない」とずっと言い続けて居るわけです。
昨日の会話の中で周りの認識が変わっているのだから仕事に関しては「自分のやりたい通りに行なえばいいのではないか」と言う意見も頂きました。
まあおいらの解答は「前向きに検討します」という限りなく行動しない方向で確定しているわけですけど.........(笑)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
え~っとここで書くのも筋違いなのかもしれませんが、今年の途中から伏せ字を導入しているんですよね。
背景ベースの色が白なので「字を白くすると、あ~ら不思議??字が消えるではありませんか!!」というわけです。
......どういう訳だよ。くだらね~........
今回はおまけとして画像を隠してありますので探してみて下さい。
ではでは
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ttp://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/4e/df25cdc16685b5fe8a1519ad6600f5ad.jpg
おいらは納得できなければ物事の意義をいつまでも考える性格(たち)です。
加えて周りの環境には恵まれてこなかった事は明白でおいらが言っていることは「机上の空論」であり「夢」とか「理想」の類だと解釈する方達だけでした。
2007.12.28に先日に引っ越された方と話をしたことなんですけどね。
おいらの言うことはおいらからすれば「Real」で「現実的」というか「達成可能」な事なんですよね。
おいらは出来ないことは言いませんし、要求はしません。
要求の裏には絶対に欲求する人へのKickbackは絶対です。
どちらかというとおいらはKickbackを前提に物事を考えますからな。
以前にも書きましたけどね。
まず買い物の基本は「他者ありき」です。
モノを買うことでも親の許可を貰うのですが、買ったモノから絶対に他の人がおいらが買って事から恩恵を得るような方法で用いることは間違いないでしょう。
買って直ぐにはKickbackは無いに等しいことは間違いないでしょう。
おいらも直ぐに解って貰えなくても良いと思っていますしね。
まあ往々にしてこの考えが誤解を生むわけですが..........
しかし最低限のマナーとして出来ることは行なっていくという姿勢は変わりありません。
昨日の話の中でベースとなるところは全く変わっていないことを言いました。
「仕事に対するスタンス」については特に全く変わっていません。
おいらは仕事からも「自らの手の業を歓びたい」とずっと考えてきましたし、平衡をとれるのであればクリスチャンとしての活動と共に行ないたいと願っていました。
しかしこの考えは「絶対に間違いなのだ」という事を前提に考えている方によってことごとく否定されてきました。
また親からの全くの理解の無さというのもこのことに拍車をかけてきました。
理解をして貰えないことほど人間の欲求が高くなることはないでしょう。
理解というのは人には不可欠の要素である
と言うことをここに書いておきます。
理解というのは一人でも良いのです。
肯定でなくても良いですし、賛成なんていりません。
一定の理解を示して貰えることのどれだけ貴重なことなのかと言うことを知って貰いたいですな。
人間というのは一人一人が行えることは微々たるモノです。
しかしその一人一人が持つ可能性というのは無限大で世の理(ことわり)の範疇であれば何者にも成り得るんですな。
年齢がNeckになるということは全ての分野で言われますし、スポーツの分野や知識Levelや認識力など「自身の能力」ではどうにもならないことの中では制限がありますが、少なくとも自身の能力の範疇では何者にでも成れる可能性が少なからずあり得るわけです。
おいらの中ではこの考えは当然のことでこのことを理解できない人間に付き合うことは非常に苦痛になります。
たしかにおいらは他の人よりも劣等な人間ですし、行なう仕事は苦痛が伴わなければならないという意識が少なからずあります。
というか強要されてきましたからね~。
この条件付けによりパブロフの犬のごとく自己否定が日に日に強くなっていきました。
それまでも自己否定はけっこう強かったのですが、それ以上に強くなっていったわけです。
しかしおいらを洗脳できなかった事からおいらの自身の考えは想像以上に強いという認識が生まれました。
また最近の行動から周りの認識が変わりつつあるという事を昨日の会話の中で指摘されました。
また理解の事に戻るのですが、ただ一人の理解者から人の伸びシロは飛躍的に上昇します。
これは盲目のSingerであり伝説であるレイ・チャールズの歌に対するスタンスと一緒です。
彼は「盲目」というコンプレックスを一人の教師の素晴らしい発想の転換から、見事に自らの最大の強みに変え己の人生をCreativeなモノにしたと言っても過言ではないでしょう。
まあすべての成功が善であるとはおいらは考えられませんがね。
Conservativeな考え方にはおいらは賛同しかねます。
おいらは自身の考えにははっきり言って自信がありませんが、基準にも様々な種類がありますよね~。
その中のちょっとした事にもある一定の基準を持っていますし、その基準がぶれることは余程のことがなければありません。
それは何事に対しても他の人のためであれば「全てのことを神に対するように」最善を尽くすという基準です。
しかし全てを奉仕活動で行なうことはまず不可能です。
これは当然のことですし生活には「衣食住」が必要なわけです。
よって最低限の給料を貰う活動によりこれらを賄う必要があるのですから「仕事」というのは人として生活するのであれば絶対にしなければなりません。
仕事というのは「お金を貰う最低限のこと」をしそれによって給料を貰うという活動です。
でもおいらは仕事を「お金を貰う最低限のこと」で満足するモノには出来なかったんですな。
仕事というのは少なくとも「他の人のために行なう」事が前提にあり出来ることをせずに「手を抜く」なんて事はおいらからすると常軌を逸した活動です。
「継続的に行える範疇の中で」個々の仕事は、
己の持っているポテンシャルを総動員して最高のパフォーマンスを展開する
ことは当然でありおいらからすれば必然な訳ですよ。
たしかに手を抜いているという勘違いが起こるのは頻発するのはある程度は仕方がありません。
でも「手を抜いた」わけではなく「お客さんが要求したこと」に応じた仕事に最善を尽くすわけで出し惜しみとも全く違います。
おいらの仕事の定義は
お客さんが要求したこと以下でも以上でもなく要求したことだけを行なう
ということなんですな。
まあ「+α(おまけ)」はあるでしょうけどね。
そしてその要求以上のことが出来てもしないというのもけっこう重要なことなのです。
仕事というのは一回だけではありませんからね~。
継続的に行なっているのであれば要求通りに行なうことは非常に重要になります。
要求以上のことを行なうとそのお客さんの「ハードル」が上がるわけで次も要求通りよりも「余分なことを行なってくれるのは当たり前だ」という「甘え」が発生します。
よって「+α(おまけ)」にも注意が必要でしょう。
おいらがこの記事で書きたいことは、
要求されたことはCostとの兼ね合いの中での最善を尽くしたい
ということなんですな。
この部分のことの語弊が非常に大きかったわけです。
理解できないことは苦痛でしかありませんでした。
また自己否定が非常に強い際に仕事を選ぶということにタイトルの通り自分自身に「そこまでの価値はない」とずっと言い続けて居るわけです。
昨日の会話の中で周りの認識が変わっているのだから仕事に関しては「自分のやりたい通りに行なえばいいのではないか」と言う意見も頂きました。
まあおいらの解答は「前向きに検討します」という限りなく行動しない方向で確定しているわけですけど.........(笑)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
え~っとここで書くのも筋違いなのかもしれませんが、今年の途中から伏せ字を導入しているんですよね。
背景ベースの色が白なので「字を白くすると、あ~ら不思議??字が消えるではありませんか!!」というわけです。
......どういう訳だよ。くだらね~........
今回はおまけとして画像を隠してありますので探してみて下さい。
ではでは
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