仕事の講習を受けているのですが..................................................
おいらの仕事へのStanceと他の人の仕事へのStanceが全く違うことが顕著になりつつあります。
おいらは別に仕事から高額の報酬を得ることを求めてはいません。
これは価値観の相違や物質への欲求などの相違が大きいでしょう。
そもそも個人的な見解や定義を他人に押し付けることに大きな違和感を覚えています。
知識や知恵への認識の違いが明るみになった途端においらとの価値観とは相容れないモノなのだな~と理解した次第です。
知識とはなんでしょうか?
辞書の定義を書き出してみましょう。
1.知ること。認識・理解すること。また、ある事柄などについて、知っている内容
2.考える働き。知恵。
3.哲学で、確実な根拠に基づく認識。客観的認識。
おいらの場合の知識の定義は3番目の「客観的認識」という意味合いが深いモノです。
今回学んだ内容の知識の定義を書き出してみます。
・あらゆる情報を仕事や成果に繋げるモノ
というモノです。
聖書的見解からの答えも書き出しておくべきでしょうね。
では聖書の辞書のような本から調べた答えを書き出してみます。
・基本的に、知識とは、個人的な経験、観察、研究などによって得られた諸事実に通じていることを意味しています。
聖書は、正しい知識を求め、蓄えることを強く勧め、金(Gold)よりも正しい知識を推奨しています。
聖書から紐解く知識の源はどう転んでも神であることは明確に確認できます。
当然ながら命も神からの贈り物で、知識を得るには命が不可欠です。
全てのモノは神によって創造されたので、人間の得る知識は神の創造物の研究に基づいているのも事実です。
ということから人の見地の知識を得るのと神の見地の知識を得るのとでは雲泥の差があることを示しています。
これは残酷なまでに明白に人の行動基準を変えていきます。
人間が人間を教えることにより害を成してきました。
人が人を害するというのは教える人間が意図せずとも発生してきたんですよね。
そう考えると迂闊に人の考えを鵜呑みにすると言うのは非常に愚かな考えでしかありません。
「良いことを言っているんだ」と考える「良いこと」の基準は個人的な見解からしか見られていないことから非常に偏った見方に陥ることもありますからな。
では知恵についても書きましょうかね。
辞書で調べた知恵の定義から書いていこうと思います。
・物事の道理を判断し処理していく心の働き。
物事の筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力。
となっていました。
次いで昨日学んだことを書き出してみます。
・あらゆる情報を経済的価値に変換するモノや結びつけるモノ。
「経済的価値」という部分がPointですな。
これは自己犠牲の精神からも発生するでしょうか?
自己犠牲の理解できない人には感謝の念が発生することは絶対にありません。
学習し、理解できるようになるならば感謝の念が発生して経済的効果が発生することがあるかも知れませんがね。
全く効果を期待せずに行動することほど大きな自己犠牲は無いでしょう。
感謝も期待せず、こちらの経済的価値のあるモノから差し出す精神をどれだけの人間が保有しているでしょうか?
「経済的価値」に制限するというのは非常に安易な考えだと感じてしまう自分が居ます。
普通の仕事へのStanceというのは当然こういった考え方なのでしょうけどね。
おいらは知恵の本質を少なくとも知ることが出来ているのだと知ることが出来ました。
聖書的見解からの知恵の定義と考えを書き出してみます。
・聖書的な意味での知恵という言葉によって強調されているのは、知識や理解に基づく的確な判断力です。
問題を解決するため、危険を避けたり防いだりするため、特定の目標を達成するため、あるいはそうする点で他の人に助言する為に、知識や理解を首尾良く用いる能力のこと。
知恵には広い知識や深い理解という意味合いがあり、知恵の特徴である判断の的確さや明確さは、そうした知識化や理解から生じます。
賢い人は「知識を蓄える」、つまり活用できるように知識の蓄えを持っています。
人は得ている知識に基づいて行動したり発言したりしていきます。
これは知恵のDatabaseが知識であることを示していますし、知識と知恵の関係は非常に密接なモノとなっていることを示しているのでしょう。
このような言葉があります。
「知恵は主要なモノである。
知恵を得よ。
あなたの得る全てのモノを持って理解を得よ。」
そして知恵の基盤となるモノもあります。
「神への恐れは知恵の始めであり、最も聖なる方についての知識が理解なのである。」
上記の言葉を見ると「狂信的」でMad Christianだと言われても仕方がないような言葉に見えますが、意味合いは全く異なっています。
書くのが面倒なので割愛しますが、恐れというのは恐怖ではなく言い意味での恐れを抱くべきモノだということですな。
車の運転をする際に道路交通法というのがありますが、道交法があるので安全運転をするのではなく、危険な状況を作り出さないように守るのと同様だということでしょうか。
他にも知恵に関してはこういう言葉もあります。
「金(お金)が身の守りであるように、知恵も身の守りだからである。
しかし知識の利点は、知恵がそれを所有するモノたちを生き続けさせることにある。」
これは「経済的価値」という縛りには入りきらないモノとなっていますよね。
経済的価値に命を含めるならば確かに「経済的価値」として入りますが、「生き続けさせる」ところにはお金だけでは説明がつかない人間関係や対人関係なども包含されるのですから無理があります。
そもそも人の命を金に換算することは倫理的にどうとか言う以前に人は損得抜きで人を「好き」になったり「愛する」ようになるんですよ。
「好き」になることや「愛する」ことほど金に換算できないモノはないでしょう。
「好きになったからお金頂戴」
「これだけ愛しているのだからお金を貰う権利がある」
と誰が言うでしょうか?
愛にも様々な形態のモノがありますけどね。
聖書中で良く用いられる愛の定義としては「原則に基づいた愛」、「共通の事柄に関心を持つ友人間の愛情」、「近親者やとくに親子間の自然の情愛」といったモノがあります。
これも話が違ってきますな。
基本的に示すべきは「原則に基づく愛」であって他のモノはこの愛に包含されるようになっています。
よって「仕事上の繋がり」という縛りでは人の感情を繋ぎ止めておくことの限度が発生するのは間違いないでしょう。
つまり「経済的価値」という言葉で縛るというのは関係が浅いことを示して居るんですな。
「仕事の知識」というのは確かに重要ですし、この知識がなければ生活が出来ません。
でも職種というのは世の中にはそれこそごまんとある訳です。
一つの職種である程度のLevelになると他の人の仕事への理解が深まることは間違いありません。
しかしそういった他の人の仕事への理解が深まるまでには自分の仕事を楽しんだり、愛おしむぐらいにならなければ難しいのも現状です。
よって人から押し付けられる教育というのは限界があるということですな。
確かにチャンキング機能などを用いると条件反射的に物事を行えるようになっていきます。
違いが発生するのはそこに楽しみを見出そうとするかどうかの個人の感情的な部分になっていきます。
自分の利得のみを追求する人にとってはこういうことは面倒なことになっていきますからな。
お金に汚い人間というのは往々にして人間関係でも良好な関係を構築することは出来ていないはずです。
それに発言にも人の感情を顧みないモノが多いんですよね。
これは身を以て経験していますので言い切ることが出来ます。
「愛」という言葉を誤用して人に押し付けるようになっていくんですよ。
多くの人の愛の定義は「お金への」とか「自分が好意を持って貰うような」という前書きを持っています。
おいらも全ての人に示すことは不可能ですが、示したい愛としては前書きに「無私の」というのを付けたいと願ってやみません。
何だか難しい書き方になってしまいましたな。
そう言えばおいらの物言いというのはRealな生活でも難しいモノのようです。
会話の中では難しい言葉を使うことは余りありませんがね。
教育を受ける際には質問する際には当然ながら疑問が発生します。
その疑問を投げかける時に使う言葉が難しいようです。
難しいかどうかを教える人が決めるというのはおかしなことだと思いますな。
おいらは生きることを難しく解釈していると見る人もいるようです。
よっておいらの言葉は難解な言葉に写るのでしょうね。
このBlogも結構難しい書き方になっていることも少なくないでしょう。
これはおいらの個人的な見解を綴るモノですので仕方がない所もありますな。
話を戻します。
知識の定義が「あらゆる情報を仕事や成果に繋げるモノ」となると問題があります。
もし仕事以外のことで問題が発生したならばどう対処するのでしょうか?
仕事や成果に繋げるというのは結局はお金な訳ですよ。
お金そのものは人間関係を円滑にするような要素は殆どありません。
お金というのはただの紙ですからね。
「お金の価値」には円滑にする要素は多々発生しますが、人間が欲しているモノはこちらの方なのですよ。
ではただの紙を得る為に貴重な関係である友人関係や親交のある関係を損なうのでしょうか。
それは大きな間違いですよ。
金はモノを得る為の手段でしかありません。
しかし物質というのは何れは損なわれる事象が必ず発生します。
建造物に使用される石というのは建築素材の中でも非常に堅固なモノです。
下記の言葉を見てみると人間生活で主要な役割を果たすモノの中でも丈夫な部類に入る物質にも限界があることを示しています。
「あなた方はこれらのすべてのものを眺めないのですか。
あなた方に真実に言いますが,石がこのまま石の上に残されて崩されないでいることは決してないでしょう。」
これは非常に優雅で壮観な佇まいを誇った「聖書時代の神殿」を見て語られた言葉です。
実際に文化が興り、発達し、衰退し、滅んだ後には埋もれたり、風化して壊れたり、多くの場合は破壊されたりしてしまいます。
そして考古学者達が必死で埋もれた文化を発掘して居るんですな。
人が行う仕事には結局は限界があるということなんですよ。
よって仕事をする以前に人格から変革していく必要性が発生していくという訳です。
ここでまず書くこととしては人格というのはまず変えることは「不可能に近い」という部分です。
人格を形成しているモノを考えると良く解ると思うのですが、人間というのは自分が取り入れているモノの中から人格が構築されますし、自分の精神傾向により対人関係を構築されていきます。
「好きこそものの上手なれ」という言葉もありますが、往々にして自分が好むモノ「=趣味や性格、学んでいること」によって物事の行い方が違ってきます。
よって取り入れるモノにSensitiveになることは必然なんですな。
取り入れるモノは「知識」です。
よって知識によって良い方向にも悪い方向にも行く訳です。
悪いことを取り入れることも「”悪い”知識」を取り入れることになります。
人というのは流れに任せたままにしておくと傾向としては悪いモノを取り入れる傾向があるんですな。
よって意識して悪いモノを取り入れないようにしていかねばならないと言うことですね。
また人間は人間に害になることを教えることの方が多いと言うことも注目するべき点ですな。
長文になったのでまた別に書こうと思います。
眠いので風呂入って寝ます。
ではでは
おいらの仕事へのStanceと他の人の仕事へのStanceが全く違うことが顕著になりつつあります。
おいらは別に仕事から高額の報酬を得ることを求めてはいません。
これは価値観の相違や物質への欲求などの相違が大きいでしょう。
そもそも個人的な見解や定義を他人に押し付けることに大きな違和感を覚えています。
知識や知恵への認識の違いが明るみになった途端においらとの価値観とは相容れないモノなのだな~と理解した次第です。
知識とはなんでしょうか?
辞書の定義を書き出してみましょう。
1.知ること。認識・理解すること。また、ある事柄などについて、知っている内容
2.考える働き。知恵。
3.哲学で、確実な根拠に基づく認識。客観的認識。
おいらの場合の知識の定義は3番目の「客観的認識」という意味合いが深いモノです。
今回学んだ内容の知識の定義を書き出してみます。
・あらゆる情報を仕事や成果に繋げるモノ
というモノです。
聖書的見解からの答えも書き出しておくべきでしょうね。
では聖書の辞書のような本から調べた答えを書き出してみます。
・基本的に、知識とは、個人的な経験、観察、研究などによって得られた諸事実に通じていることを意味しています。
聖書は、正しい知識を求め、蓄えることを強く勧め、金(Gold)よりも正しい知識を推奨しています。
聖書から紐解く知識の源はどう転んでも神であることは明確に確認できます。
当然ながら命も神からの贈り物で、知識を得るには命が不可欠です。
全てのモノは神によって創造されたので、人間の得る知識は神の創造物の研究に基づいているのも事実です。
ということから人の見地の知識を得るのと神の見地の知識を得るのとでは雲泥の差があることを示しています。
これは残酷なまでに明白に人の行動基準を変えていきます。
人間が人間を教えることにより害を成してきました。
人が人を害するというのは教える人間が意図せずとも発生してきたんですよね。
そう考えると迂闊に人の考えを鵜呑みにすると言うのは非常に愚かな考えでしかありません。
「良いことを言っているんだ」と考える「良いこと」の基準は個人的な見解からしか見られていないことから非常に偏った見方に陥ることもありますからな。
では知恵についても書きましょうかね。
辞書で調べた知恵の定義から書いていこうと思います。
・物事の道理を判断し処理していく心の働き。
物事の筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力。
となっていました。
次いで昨日学んだことを書き出してみます。
・あらゆる情報を経済的価値に変換するモノや結びつけるモノ。
「経済的価値」という部分がPointですな。
これは自己犠牲の精神からも発生するでしょうか?
自己犠牲の理解できない人には感謝の念が発生することは絶対にありません。
学習し、理解できるようになるならば感謝の念が発生して経済的効果が発生することがあるかも知れませんがね。
全く効果を期待せずに行動することほど大きな自己犠牲は無いでしょう。
感謝も期待せず、こちらの経済的価値のあるモノから差し出す精神をどれだけの人間が保有しているでしょうか?
「経済的価値」に制限するというのは非常に安易な考えだと感じてしまう自分が居ます。
普通の仕事へのStanceというのは当然こういった考え方なのでしょうけどね。
おいらは知恵の本質を少なくとも知ることが出来ているのだと知ることが出来ました。
聖書的見解からの知恵の定義と考えを書き出してみます。
・聖書的な意味での知恵という言葉によって強調されているのは、知識や理解に基づく的確な判断力です。
問題を解決するため、危険を避けたり防いだりするため、特定の目標を達成するため、あるいはそうする点で他の人に助言する為に、知識や理解を首尾良く用いる能力のこと。
知恵には広い知識や深い理解という意味合いがあり、知恵の特徴である判断の的確さや明確さは、そうした知識化や理解から生じます。
賢い人は「知識を蓄える」、つまり活用できるように知識の蓄えを持っています。
人は得ている知識に基づいて行動したり発言したりしていきます。
これは知恵のDatabaseが知識であることを示していますし、知識と知恵の関係は非常に密接なモノとなっていることを示しているのでしょう。
このような言葉があります。
「知恵は主要なモノである。
知恵を得よ。
あなたの得る全てのモノを持って理解を得よ。」
そして知恵の基盤となるモノもあります。
「神への恐れは知恵の始めであり、最も聖なる方についての知識が理解なのである。」
上記の言葉を見ると「狂信的」でMad Christianだと言われても仕方がないような言葉に見えますが、意味合いは全く異なっています。
書くのが面倒なので割愛しますが、恐れというのは恐怖ではなく言い意味での恐れを抱くべきモノだということですな。
車の運転をする際に道路交通法というのがありますが、道交法があるので安全運転をするのではなく、危険な状況を作り出さないように守るのと同様だということでしょうか。
他にも知恵に関してはこういう言葉もあります。
「金(お金)が身の守りであるように、知恵も身の守りだからである。
しかし知識の利点は、知恵がそれを所有するモノたちを生き続けさせることにある。」
これは「経済的価値」という縛りには入りきらないモノとなっていますよね。
経済的価値に命を含めるならば確かに「経済的価値」として入りますが、「生き続けさせる」ところにはお金だけでは説明がつかない人間関係や対人関係なども包含されるのですから無理があります。
そもそも人の命を金に換算することは倫理的にどうとか言う以前に人は損得抜きで人を「好き」になったり「愛する」ようになるんですよ。
「好き」になることや「愛する」ことほど金に換算できないモノはないでしょう。
「好きになったからお金頂戴」
「これだけ愛しているのだからお金を貰う権利がある」
と誰が言うでしょうか?
愛にも様々な形態のモノがありますけどね。
聖書中で良く用いられる愛の定義としては「原則に基づいた愛」、「共通の事柄に関心を持つ友人間の愛情」、「近親者やとくに親子間の自然の情愛」といったモノがあります。
これも話が違ってきますな。
基本的に示すべきは「原則に基づく愛」であって他のモノはこの愛に包含されるようになっています。
よって「仕事上の繋がり」という縛りでは人の感情を繋ぎ止めておくことの限度が発生するのは間違いないでしょう。
つまり「経済的価値」という言葉で縛るというのは関係が浅いことを示して居るんですな。
「仕事の知識」というのは確かに重要ですし、この知識がなければ生活が出来ません。
でも職種というのは世の中にはそれこそごまんとある訳です。
一つの職種である程度のLevelになると他の人の仕事への理解が深まることは間違いありません。
しかしそういった他の人の仕事への理解が深まるまでには自分の仕事を楽しんだり、愛おしむぐらいにならなければ難しいのも現状です。
よって人から押し付けられる教育というのは限界があるということですな。
確かにチャンキング機能などを用いると条件反射的に物事を行えるようになっていきます。
違いが発生するのはそこに楽しみを見出そうとするかどうかの個人の感情的な部分になっていきます。
自分の利得のみを追求する人にとってはこういうことは面倒なことになっていきますからな。
お金に汚い人間というのは往々にして人間関係でも良好な関係を構築することは出来ていないはずです。
それに発言にも人の感情を顧みないモノが多いんですよね。
これは身を以て経験していますので言い切ることが出来ます。
「愛」という言葉を誤用して人に押し付けるようになっていくんですよ。
多くの人の愛の定義は「お金への」とか「自分が好意を持って貰うような」という前書きを持っています。
おいらも全ての人に示すことは不可能ですが、示したい愛としては前書きに「無私の」というのを付けたいと願ってやみません。
何だか難しい書き方になってしまいましたな。
そう言えばおいらの物言いというのはRealな生活でも難しいモノのようです。
会話の中では難しい言葉を使うことは余りありませんがね。
教育を受ける際には質問する際には当然ながら疑問が発生します。
その疑問を投げかける時に使う言葉が難しいようです。
難しいかどうかを教える人が決めるというのはおかしなことだと思いますな。
おいらは生きることを難しく解釈していると見る人もいるようです。
よっておいらの言葉は難解な言葉に写るのでしょうね。
このBlogも結構難しい書き方になっていることも少なくないでしょう。
これはおいらの個人的な見解を綴るモノですので仕方がない所もありますな。
話を戻します。
知識の定義が「あらゆる情報を仕事や成果に繋げるモノ」となると問題があります。
もし仕事以外のことで問題が発生したならばどう対処するのでしょうか?
仕事や成果に繋げるというのは結局はお金な訳ですよ。
お金そのものは人間関係を円滑にするような要素は殆どありません。
お金というのはただの紙ですからね。
「お金の価値」には円滑にする要素は多々発生しますが、人間が欲しているモノはこちらの方なのですよ。
ではただの紙を得る為に貴重な関係である友人関係や親交のある関係を損なうのでしょうか。
それは大きな間違いですよ。
金はモノを得る為の手段でしかありません。
しかし物質というのは何れは損なわれる事象が必ず発生します。
建造物に使用される石というのは建築素材の中でも非常に堅固なモノです。
下記の言葉を見てみると人間生活で主要な役割を果たすモノの中でも丈夫な部類に入る物質にも限界があることを示しています。
「あなた方はこれらのすべてのものを眺めないのですか。
あなた方に真実に言いますが,石がこのまま石の上に残されて崩されないでいることは決してないでしょう。」
これは非常に優雅で壮観な佇まいを誇った「聖書時代の神殿」を見て語られた言葉です。
実際に文化が興り、発達し、衰退し、滅んだ後には埋もれたり、風化して壊れたり、多くの場合は破壊されたりしてしまいます。
そして考古学者達が必死で埋もれた文化を発掘して居るんですな。
人が行う仕事には結局は限界があるということなんですよ。
よって仕事をする以前に人格から変革していく必要性が発生していくという訳です。
ここでまず書くこととしては人格というのはまず変えることは「不可能に近い」という部分です。
人格を形成しているモノを考えると良く解ると思うのですが、人間というのは自分が取り入れているモノの中から人格が構築されますし、自分の精神傾向により対人関係を構築されていきます。
「好きこそものの上手なれ」という言葉もありますが、往々にして自分が好むモノ「=趣味や性格、学んでいること」によって物事の行い方が違ってきます。
よって取り入れるモノにSensitiveになることは必然なんですな。
取り入れるモノは「知識」です。
よって知識によって良い方向にも悪い方向にも行く訳です。
悪いことを取り入れることも「”悪い”知識」を取り入れることになります。
人というのは流れに任せたままにしておくと傾向としては悪いモノを取り入れる傾向があるんですな。
よって意識して悪いモノを取り入れないようにしていかねばならないと言うことですね。
また人間は人間に害になることを教えることの方が多いと言うことも注目するべき点ですな。
長文になったのでまた別に書こうと思います。
眠いので風呂入って寝ます。
ではでは