いろいろな人がいますよね..............
おいらが最も嫌いな人種は自分に酔いすぎてしまう輩です。
たしかに努力したかもしれませんが自分の自己顕示欲を満たそうとして技術を見せつけるような方法で用いる人には近づこうとも思いません。
それに対して非常に練習し鍛錬して習得した技術というのは一度経験したことならば良くわかります。
自分の立場をわきまえている努力をしている方のひたむきな姿勢が伴ってこそ技術は生かされるはずなのです。
この記事を書く切っ掛けは「朗読」でした。
よって「朗読」のことを念頭に読むと理解が深まると思います。
この世には二種類の人種に分けられます。
・本が嫌いな人
・本が好きな人
ついで更に二種類の人種に分けられます。
・勉強が嫌いな人
・勉強が好きな人
加えて更に二種類の人種に分けられます。
・会話の苦手な人
・会話の好きな人
更に加えて二種類の人種に分けられます。
・不器用な人
・器用な人
全てで下になった人は流暢に朗読するための下地が出来ているということを意味しています。
よって多少練習すれば感情を込めて読むことが出来るようになるでしょう。
しかしそこに過剰な自尊心を加えてしまいがちなんですな。
「自分はこれだけ読めるんだよ」とか「こんなに流暢に読めるんだ。すごいだろ」とも言わん限りの朗読を展開します。
おいらは自分に酔っている人が余り好きではありません。
全てで下になった人でも努力の仕方がありますし、それを知っているのであれば自分に酔うような朗読はしないはずなんですよ。
おいらはおいらの父上や知人達寄りも全てで上の条件では良い評価になるはずです。
おいらよりも全てで苦手だった方々から学ぶことの方が多いんですな。
流暢には読めますし、ある程度の感情を込めることもできるでしょう。
でも努力している方達の朗読には到底叶わないという結論に達しています。
父上はクリスチャンの集まりで初めて朗読を行なったときのことは今でも良く覚えています。
家族全員が朗読時間中息継ぎがうまくいかないぐらいに緊張して見守りました。
そしてお世辞にも流暢という言葉は当てはまらないモノでした。
しかしおいらの父上は「本が嫌い」で「勉強が嫌い」で「会話が苦手」で「不器用な人」だったことを鑑みると前に立って割り当てられていた文章を全て読み切れると言うことは大変な努力が必要でした。
その経緯をおいらは知っているわけです。
おいらはそのような努力をしている姿勢の「ひたむきさ」や「真剣さ」には到底叶わないというほどです。
文章作成に関しても起承転結を成立させることも解らないぐらいだったのですから過去の父上を知っているならば人前で講演を行ない立派に果たしている事は奇跡に近いことだいうことは言い切れるでしょう。
父上がどれぐらい「会話が嫌い」だったか解るエピソードがあります。
父上は客商売で予約の電話で成り立っていると言っても良いかもしれません。
しかし電話にはでなかったんですな。
母上があのころは専属の事務員のような事をしていましたからね~。
でも母上が買い物で出かけているとでないわけですよ。
それだけ会話が嫌いだった父上が伝道活動にでたり、まして人前で他の人が理解できるような話をするというのはまさに奇跡だと言っても良いほど凄いことなんですな。
この努力というのはすごいですよ。
加えてもう一人朗読の苦手だった方もいます。
この方は父上が聖書の事を共に学んでクリスチャンになられた方です。
この方もおいらは知っているが故にどれだけ朗読が苦手なのかを知っています。
父上と同じぐらいのLevelで朗読の練習に取り組まれています。
この方や父上の朗読を聞いていると華やかさはありませんが、いぶし銀の光る聖書を読ませる朗読をされる事がわかっています。
おいらは彼ら”よりも”「本が好き」で「勉強が好き」で「会話はある程度」で「器用な人」に入ると書きましたよね。
でもおいらがいくら流暢に読めるように練習しても感情を込めるように練習しても彼らの朗読には到底叶わないと痛感するわけです。
原因は純粋に聖書そのものから益を得て欲しいという純度の違いからくるんでしょうね。
よって「朗読」とはただ単に本を読むだけなのに人の性格が非常に強くでる作業であると言えるでしょう。
努力を怠らないようにしたいモノです。
しっかし、かなり書きたいことを書ききれていないので再度同じような記事を書くかもしれませんな........
おいらが最も嫌いな人種は自分に酔いすぎてしまう輩です。
たしかに努力したかもしれませんが自分の自己顕示欲を満たそうとして技術を見せつけるような方法で用いる人には近づこうとも思いません。
それに対して非常に練習し鍛錬して習得した技術というのは一度経験したことならば良くわかります。
自分の立場をわきまえている努力をしている方のひたむきな姿勢が伴ってこそ技術は生かされるはずなのです。
この記事を書く切っ掛けは「朗読」でした。
よって「朗読」のことを念頭に読むと理解が深まると思います。
この世には二種類の人種に分けられます。
・本が嫌いな人
・本が好きな人
ついで更に二種類の人種に分けられます。
・勉強が嫌いな人
・勉強が好きな人
加えて更に二種類の人種に分けられます。
・会話の苦手な人
・会話の好きな人
更に加えて二種類の人種に分けられます。
・不器用な人
・器用な人
全てで下になった人は流暢に朗読するための下地が出来ているということを意味しています。
よって多少練習すれば感情を込めて読むことが出来るようになるでしょう。
しかしそこに過剰な自尊心を加えてしまいがちなんですな。
「自分はこれだけ読めるんだよ」とか「こんなに流暢に読めるんだ。すごいだろ」とも言わん限りの朗読を展開します。
おいらは自分に酔っている人が余り好きではありません。
全てで下になった人でも努力の仕方がありますし、それを知っているのであれば自分に酔うような朗読はしないはずなんですよ。
おいらはおいらの父上や知人達寄りも全てで上の条件では良い評価になるはずです。
おいらよりも全てで苦手だった方々から学ぶことの方が多いんですな。
流暢には読めますし、ある程度の感情を込めることもできるでしょう。
でも努力している方達の朗読には到底叶わないという結論に達しています。
父上はクリスチャンの集まりで初めて朗読を行なったときのことは今でも良く覚えています。
家族全員が朗読時間中息継ぎがうまくいかないぐらいに緊張して見守りました。
そしてお世辞にも流暢という言葉は当てはまらないモノでした。
しかしおいらの父上は「本が嫌い」で「勉強が嫌い」で「会話が苦手」で「不器用な人」だったことを鑑みると前に立って割り当てられていた文章を全て読み切れると言うことは大変な努力が必要でした。
その経緯をおいらは知っているわけです。
おいらはそのような努力をしている姿勢の「ひたむきさ」や「真剣さ」には到底叶わないというほどです。
文章作成に関しても起承転結を成立させることも解らないぐらいだったのですから過去の父上を知っているならば人前で講演を行ない立派に果たしている事は奇跡に近いことだいうことは言い切れるでしょう。
父上がどれぐらい「会話が嫌い」だったか解るエピソードがあります。
父上は客商売で予約の電話で成り立っていると言っても良いかもしれません。
しかし電話にはでなかったんですな。
母上があのころは専属の事務員のような事をしていましたからね~。
でも母上が買い物で出かけているとでないわけですよ。
それだけ会話が嫌いだった父上が伝道活動にでたり、まして人前で他の人が理解できるような話をするというのはまさに奇跡だと言っても良いほど凄いことなんですな。
この努力というのはすごいですよ。
加えてもう一人朗読の苦手だった方もいます。
この方は父上が聖書の事を共に学んでクリスチャンになられた方です。
この方もおいらは知っているが故にどれだけ朗読が苦手なのかを知っています。
父上と同じぐらいのLevelで朗読の練習に取り組まれています。
この方や父上の朗読を聞いていると華やかさはありませんが、いぶし銀の光る聖書を読ませる朗読をされる事がわかっています。
おいらは彼ら”よりも”「本が好き」で「勉強が好き」で「会話はある程度」で「器用な人」に入ると書きましたよね。
でもおいらがいくら流暢に読めるように練習しても感情を込めるように練習しても彼らの朗読には到底叶わないと痛感するわけです。
原因は純粋に聖書そのものから益を得て欲しいという純度の違いからくるんでしょうね。
よって「朗読」とはただ単に本を読むだけなのに人の性格が非常に強くでる作業であると言えるでしょう。
努力を怠らないようにしたいモノです。
しっかし、かなり書きたいことを書ききれていないので再度同じような記事を書くかもしれませんな........