扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記

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JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。

Mind Darkness No.75 2010.01.28

2010-01-28 15:37:11 | Photo & Photography & Camera
この頃は思考がかなり大きく変化しつつあります................................

これは買い物に関しての考え方の変化が大きいのですがね。
おいらは自分自身への投資を極力最小限にするために考えてきました。
その中の一つに写真関連の機材というのがあって強力に作用してきました。
自分自身が自分自身の好みのために購入するという行為は自己中心的であるという思考でずっときました。
ところがこれが大きく変化しつつあります。
考え方に根本的な変化が訪れたのは対人関係での他人の反応に変化があることに気が付いたからでした。
自分の感情と他人の感情の因果関係に関しては思っているよりもよく解ります。

人間というのは芯のしっかりしている人の発言を重要視する傾向があります。

中でも自分の役割をはっきり把握して最善を尽くしている人間で出来ないことははっきり断る事が出来ている人間ほど信頼をおく傾向もあるようです。
出来ないことでも出来る範囲でしっかり対応するという姿勢を示しているならばなお良いでしょうね。
出来ないことでも出来る範囲で物事を行っていると人は成長しより一層の自分を高める努力を払っているはずです。

興味深いのは

・自尊心がない人間
・何も出来ないと考えている人間
・役立たずだと考えている人間

と自分で考えている人間は他人からの低く見られている可能性が高いと言うことでしょうか。
自分を低める努力を払っているおいらですがね。
ある程度の分は認めることが出来るようになってきています。
自分への思考は大きく変化してきて「他人は他人、自分は自分」という認識を明確にすることが出来るようになった時点から大きく進歩しました。

自尊心が培えない原因の大きなモノとして他人の評価に依存しすぎていると言うことがあるでしょう。
これは「何も出来ない」とか「役立たずだ」と考えている理由も同様ですがね。
他人というのはすべての自分自身の努力を把握することは不可能です。
自尊心がない人間の多くは非常にStoicに、そしてSevereに自分を評価しがちです。
そして自分が依存している評価者がそれをすべて知ってもらえているという錯覚を抱きがちです。
ところが評価者たちの多くは「自分に甘く、他人に厳しい」という評価基準を採用している人間が非常に多くいるんですな。
こうはなりたくはないという気持ちが多いのですがね。
そのような評価基準を他人に押しつけておきながら自分に甘いという矛盾を依存している人間は盲信してしまうモノなんですよね。

ここからはChristianとしての考え方になっていきますが、少し書きます。
何よりも追い求めるべきなのは神の是認であって他人の評価ではないと言うことでしょう。
人間というのは非常に不安定な生物です。
精神的にも肉体的にも不安定です。
極論を書くと死んで亡くなってしまうのですからな。
亡くなってしまうモノに評価を求めてもそこからは何も生まれないでしょう。
それに聖書の言葉にこのようなモノがあります。

「何をしていても、人にではなく神に対するように魂を込めてそれに携わりなさい」

他人の評価を求めるのは建設的なモノとはなりにくいのは上記に書きました。
理由は努力していても全てを汲むことは不可能であること、そもそも他人を評価する気などさらさら無い人間の方が多いことなどがあります。
たとえあったとしても精神的な波がどうしてもあります。
それに会話の機会がとれないなどして褒めたいと思っていても忘れていくモノなのです。
よって自分自身がそれを適切に評価してやらねばならないんですな。
これが出来るようになって見方がものすごく変わりました。
何かしら行動する事は何もしないよりもマシなのは書くまでもないでしょう。
だったなら少なくとも行動したことを評価し自分自身を適切に扱ってやらねばならないでしょう。
自尊心のない人間は多くの場合に他人が同様のことをしたならばそれを見逃すことは余りないでしょう。
それがどれほどの努力が払われたモノかを良く理解できる人間ならばなおさら高い評価をするモノです。
なのに自分自身が行った同じ程度の物事に対しては「価値がない」という不平等な評価基準を採用しています。

これは
「自分自身が自分を褒めるなんて可笑しな事だ」
とか
「自分がしたことなんて価値が無くて当たり前なのだ」
という思考から来ます。
この気持ちがわからなくはありません。
おいらも同様の価値観で生きてきましたからな。

仕事や生活の中での行動によって給料や感謝の言葉を貰うことがあるかと思います。
人間の生活の中での原則というのは「等価交換」で成り立っています。
しかし「現実はよく働く人間」と「全く働く気がない人間」がいますよね。
よって「等価交換が成立していない」というのは周知の事実なのかも知れません。
これは「お金の質」にも繋がっていくかと思いますね。
前者の「お金の価値」と後者の「お金の価値」は同じ金額でも内容は大きく異なります。
これは聖書中のJesus Christusが大きく評価した貧しい寡婦の寄付でも理解できます。
前者のお金の価値は喩えるならば実がギッシリ詰まった糖度の高い果物みたいな感じでしょうか。
それに対して後者のは腐った後に水分が無くなり乾涸らびてしまったカスカスの果物のようです。
どちらが食べたいかというとおいらは前者の果物を食べたいと思います。
サボろうという輩は精神的に腐っていると言っても良いかもしれませんな。
内容もなく、ただただ言い訳で乗り切ろうとする人間です。
口先だけの人間をおいらは信頼しませんし、評価することもありません。

ところでサボるのと休憩するのとでは意味合いが違ってきます。

人間には休憩が必要です。
これは仕事の効率にも繋がっていますよね。
サボるというのは仕事を始めからやる気がない人間のことでしょう。
休憩は違います。
Refreshというのはものすごい威力があります。
仕事の効率を上げるに当たっては休憩を挟む方がはかどるというのも周知の事実でしょう。
しかしほとんどの経営者はこのことを理解していません。
ずっと働き続けていることが美徳とされている風潮があります。
休まず働き続ける事が美しいと考えている人が少なくないんですな。
負担としてはずっと仕事をし続けている人と適切な休憩しながら仕事をしている人とでは後者の方が効率よく仕事が出来ることが20世紀代半ばには証明されています。
でも日本の風潮というのは

「とにかく仕事をしているのが美しい」

という固定観念を植え付けられています。
確かにですがね。
継続的に物事を行うというのは大切ですし、そうでなければならないとは思っています。
おいらは性格的には一気に仕事を片付けてしまう方があっていますので休憩を取ることが非常に大きな悪行のように考えていました。
今でもこのような思考というのはほとんど変わっていません。
ただずっと続けるという観点から見ると見方が変わっていくかと思います。
根を詰めて一気にしてしまうと言うのは短期的で短絡的な行動であると言うことが理解できるんですよね。
一時的に一つの仕事を一気にやってしまうというのは、そこから先の仕事のことを”考えずに”行動しているのだという認識を抱かねばならないんですな。
仕事というのは一日だけではありません。
一週間だけではありません。
一年でもないでしょう。
仕事を芸術の域にまで高めるには自分の状況を把握し最善を尽くしはしますが、逆に「欲張らない」という弁え方も備えている人だとおいらは認識しています。
仕事を美しいモノとしたいならば、平衡のとれた休憩は不可欠だと言うことですな。
本気で仕事をしたいならばその仕事が好きになるはずです。
そして仕事が煮詰まったときに「手を休める」という行為を意識的に取り入れるならば新しい発想なり発見なりが生まれてくると言うことが多いんですよね。
仕事を愛している人というのは四六時中、仕事の改善方法や最善の方法を模索していきます。
すばらしい発明の多くはPrivateで生まれているという事は休憩や休息などの重要性を再認識させてくれるはずなのです。

Blogを不定期にすると書きたいことが山のように出てきて困ります。
毎日書くというのは無理だという結論に行き着きましたが、正直なところ毎日書く方が精神的には楽なのかも知れませんね。
続きを書こうと思ってますが、最初の自分自身の評価を高める理由に関して書かねばなりませんな。
飛びに飛んでこんな記事になってしまいましたが、お許しください。

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