1年半ぶりの再読である。無類の酒好きで知られた著者が、酒をやめた経緯や、その効用を説いたエッセイだ。
私はなんとなく、酒をやめられたら良いなと思って本書を手にし、その年末31日に、地元の希少銘酒『新政』を最期の記念に四合飲み、以来、一滴も口にしていない。
理由はさまざまあるが、背中を強く推してくれたのが本書だったのは確かである。卒酒1年4ヶ月のいま、振り返りの意味で再読したいなと思って手にした。
著者は面白おかしく、断酒当初のエピソードを紹介している。酒のない虚しさと、そのストレスから脱するには、酒を飲むしかない・・・という矛盾の極みといっていい論理に何度も陥ったことが語られる。やはりアルコールというのは薬物の一種と捉えてよい。太宰治の作品を読んでもそういう帰結を得ることが多々ある。とにかく飲む理由付けをするのだ。その理由を振り回し、振り回され、人生がその理由に彩られているのではないかといえるほどだ。依存症は、何も手が震えたり、朝から酩酊していなくても、罹患し得るのだと思う。私の経験上でも。
著者は身体の調子が良く、痩せることもできたという。酒には美味いものがセットになるが、酒がないなら大して美味いものも欲しくなくなったというわけだ。ここが唯一、著者と私の違いだ。私は競技レベルで運動をしているせいか、酒が飲めぬなら食ってストレス解消となってしまい、たいしてダイエット効果はない。もともと減らす余地の少ないのも一因だが。
正直、卒酒できて良かったと思いながらも、まだ未練はある。酒が彩っていた何かがあったのは確かで、酒もろとも、それらと疎遠になってしまった、という一面があったからだ。
例えば山でのソロキャンプや家族とのキャンプは激減した。ソロキャンの楽しみは、ツェルトの中で本を読みながら啜るウィスキーの味だった。家族とのキャンプはバーベキュー&酒が最大の楽しみだった。これらはコーヒーやノンアルビールでは代替し難いのである。
また、運動後の打ち上げというのがないので、皆で走りに行こうという発想があんまりなくなった。偶然にもコロナ禍で、こういう打ち上げができないから、私の卒酒とは関係なく、日本全体がそういう傾向なのだろうけど。
逆に言うと、私が比較的、容易に卒酒できたのは、コロナ禍の後押しもあったと思う。しらふの宴会は苦痛でしかないが、いまは宴会じたいが禁止されており、飲みにケーションを重視する私の職場も、飲酒は個人的なものとなっている。
さて、再読して思うのは、著者が「しらふ」で生きる道を選んだことは大正解だったに違いないということだ。文才が、「しらふ」の時間の拡幅によって、遺憾なく発揮されるなら、これは日本の文学にとって良いことだ。
一方、私も、トレイルランニングという競技において、総合入賞することを目指し、数年来の努力を続けてきた。このことを卒酒が後押しするのは当然で、練習は量も質も向上している。だが皮肉にも卒酒成功の一因だったコロナ禍が、練習の成果を発揮する大会を次々とつぶしていくのだ。「酒、飲んじまおうかな」と、囁く自分の声が聞こえる。せっかく抜け出たのに。
新型コロナよ、もうこれ以上、夢を奪わないでくれと瞑目した今日である。
