加藤和彦さんの自殺について、19日の朝日新聞に、北山修さんが追悼文を寄せていた。
加藤和彦さんを評して、「趣味は一流、生き方も一流だった。ギタープレーヤーとしても一流で、プレーヤーすなわち「遊び手」としても一流。グルメであり、ワインに詳しく、ソムリエの資格をとるほどで、何をやらしても天才の名に値するレベルだった」と。
最後の一文に注目したい。
「昔話に花を咲かせ共に老後を過ごすことを楽しみにしていた仲間として、そしてこれを食い止めねばならなかった医師として、友人としては、実に無念である」。
遺書を残したり、数日前から「死にたい」と漏らしたり、愛用のギターを友人に渡していたことから、「覚悟の」自殺だと報道するものもある。
たしかに、彼の行動を表面的にみれば、整然と計画的に死に向かって準備を整えていたといえるだろう。
しかし友人の北山修さんによれば、「食い止めなければならなかった」ものだと指摘していた。
北山修さんは、精神科医だから、彼のコメントは、知っていたらと言うことなのだろう。
加藤和彦さんが、うつ病であったことを如実に指摘しているものと考えるべきだろう。
そうだとすれば、「覚悟」の自殺をさせたのは、ほかならぬ「うつ病」の症状に影響を受けた彼の「こころ」がそうさせた。ここに至るまで、最近うつ状態で仕事がはかどらないともらしていたという。
そうなのだ、加藤和彦さんの周りに彼のサインを見逃さず、精神科医への受診を勧める人がいなかったことが、悔やまれる。北山修さんの顔が思い浮かばなかったのかなあ。
追悼文全文
もはや、あの人懐っこい笑顔が見られないかと思うと本当に心が痛む。それにしても、やられた。すべて計算ずくだったと思う。ワイドショー的なマスコミ報道の減る週末を選んだのも、あいつ一流の作戦だったのだろう。
彼は「振り返る」のが大嫌いだったが、大した戦績だったので、嫌われるのを承知で書こう。私は、一時期同じバンドのメンバーにして、楽曲を作る仲間、そして人生の良きライバルだった。それで故人を呼び捨てにするが、お許しいただきたい。今から数十年前のこと、その加藤がこう言ったことがある。
「お前は目の前のものを適当に食べるけど、僕は世界で一番おいしいケーキがあるなら、全財産はたいてもどこへだって飛んでいく」
趣味は一流、生き方も一流だった。ギタープレーヤーとしても一流で、プレーヤーすなわち「遊び手」としても一流。グルメであり、ワインに詳しく、ソムリエの資格をとるほどで、何をやらしても天才の名に値するレベルだった。
それがゆえに、凡百とのおつきあいの世界は、実に生きにくいものだっただろう。しかし私たちには、そんな背の高い天才の肩の上に乗ったら、見たことない景色が遥か遠くまで見えた。
加藤和彦が日本の音楽にもたらしたもの、それは「革命」だった。作品だけではなく、彼の生き方ややり方が新しかった。六〇年代、若者の革命が幾つも夢想される中、ほとんど何も持たない若いプレーヤーたちが芸能界のエスタブリッシュメントに挑んだのだ。はっきり言って、私たちは、アマチュアで、関西にいて、大した機会に恵まれなかった。そして振り返るなら、多くの、「若者の戦い」の中で、あの音楽の戦いだけは一瞬成功したかに見えたし、クリエーター加藤和彦は、このプレーヤーたちの戦いの旗手となった。
自主制作の「帰ってきたヨッパライ」が300枚作られ、結果的に280万枚を売った半年で、日本の音楽の流れが大きく変わったのだ。大先生が作る作品を歌手が歌うという「上から下」の主流に、自作自演という「下から上」への波が音を立てて流れ込んだのである。その上、新興のシンガー・ソングライター・ブームに対し、加藤の志向は主にバンドにあり、フォークル、ミカバンド、最近では和幸と、ソロ中心に偏ることはなかった。私のようなセミプロを傍らに置いて、たててくれたのも、バンド志向の優しいリベラリズムであったと思う。
後ろは振り返らない、そして同じことは絶対にやらないというモットーを貫き通した彼は、おいしいケーキを食べるために全財産をはたいて、また手のとどかぬところに飛んで行った。戦友としては、その前だけを見る戦いぶりに拍手を贈りたい。しかし、昔話に花を咲かせ共に老後を過ごすことを楽しみにしていた仲間として、そしてこれを食い止めねばならなかった医師として、友人としては、実に無念である。
以上が朝日新聞19日朝刊の文化面に寄せられた追悼文だった。
なぜという思いが又頭をもたげた。先頭を走ってきてもうやることが無くなったって、後から音楽を志すものたちが聞いたら怒り出すぜ、まったく。
加藤和彦さんを評して、「趣味は一流、生き方も一流だった。ギタープレーヤーとしても一流で、プレーヤーすなわち「遊び手」としても一流。グルメであり、ワインに詳しく、ソムリエの資格をとるほどで、何をやらしても天才の名に値するレベルだった」と。
最後の一文に注目したい。
「昔話に花を咲かせ共に老後を過ごすことを楽しみにしていた仲間として、そしてこれを食い止めねばならなかった医師として、友人としては、実に無念である」。
遺書を残したり、数日前から「死にたい」と漏らしたり、愛用のギターを友人に渡していたことから、「覚悟の」自殺だと報道するものもある。
たしかに、彼の行動を表面的にみれば、整然と計画的に死に向かって準備を整えていたといえるだろう。
しかし友人の北山修さんによれば、「食い止めなければならなかった」ものだと指摘していた。
北山修さんは、精神科医だから、彼のコメントは、知っていたらと言うことなのだろう。
加藤和彦さんが、うつ病であったことを如実に指摘しているものと考えるべきだろう。
そうだとすれば、「覚悟」の自殺をさせたのは、ほかならぬ「うつ病」の症状に影響を受けた彼の「こころ」がそうさせた。ここに至るまで、最近うつ状態で仕事がはかどらないともらしていたという。
そうなのだ、加藤和彦さんの周りに彼のサインを見逃さず、精神科医への受診を勧める人がいなかったことが、悔やまれる。北山修さんの顔が思い浮かばなかったのかなあ。
追悼文全文
もはや、あの人懐っこい笑顔が見られないかと思うと本当に心が痛む。それにしても、やられた。すべて計算ずくだったと思う。ワイドショー的なマスコミ報道の減る週末を選んだのも、あいつ一流の作戦だったのだろう。
彼は「振り返る」のが大嫌いだったが、大した戦績だったので、嫌われるのを承知で書こう。私は、一時期同じバンドのメンバーにして、楽曲を作る仲間、そして人生の良きライバルだった。それで故人を呼び捨てにするが、お許しいただきたい。今から数十年前のこと、その加藤がこう言ったことがある。
「お前は目の前のものを適当に食べるけど、僕は世界で一番おいしいケーキがあるなら、全財産はたいてもどこへだって飛んでいく」
趣味は一流、生き方も一流だった。ギタープレーヤーとしても一流で、プレーヤーすなわち「遊び手」としても一流。グルメであり、ワインに詳しく、ソムリエの資格をとるほどで、何をやらしても天才の名に値するレベルだった。
それがゆえに、凡百とのおつきあいの世界は、実に生きにくいものだっただろう。しかし私たちには、そんな背の高い天才の肩の上に乗ったら、見たことない景色が遥か遠くまで見えた。
加藤和彦が日本の音楽にもたらしたもの、それは「革命」だった。作品だけではなく、彼の生き方ややり方が新しかった。六〇年代、若者の革命が幾つも夢想される中、ほとんど何も持たない若いプレーヤーたちが芸能界のエスタブリッシュメントに挑んだのだ。はっきり言って、私たちは、アマチュアで、関西にいて、大した機会に恵まれなかった。そして振り返るなら、多くの、「若者の戦い」の中で、あの音楽の戦いだけは一瞬成功したかに見えたし、クリエーター加藤和彦は、このプレーヤーたちの戦いの旗手となった。
自主制作の「帰ってきたヨッパライ」が300枚作られ、結果的に280万枚を売った半年で、日本の音楽の流れが大きく変わったのだ。大先生が作る作品を歌手が歌うという「上から下」の主流に、自作自演という「下から上」への波が音を立てて流れ込んだのである。その上、新興のシンガー・ソングライター・ブームに対し、加藤の志向は主にバンドにあり、フォークル、ミカバンド、最近では和幸と、ソロ中心に偏ることはなかった。私のようなセミプロを傍らに置いて、たててくれたのも、バンド志向の優しいリベラリズムであったと思う。
後ろは振り返らない、そして同じことは絶対にやらないというモットーを貫き通した彼は、おいしいケーキを食べるために全財産をはたいて、また手のとどかぬところに飛んで行った。戦友としては、その前だけを見る戦いぶりに拍手を贈りたい。しかし、昔話に花を咲かせ共に老後を過ごすことを楽しみにしていた仲間として、そしてこれを食い止めねばならなかった医師として、友人としては、実に無念である。
以上が朝日新聞19日朝刊の文化面に寄せられた追悼文だった。
なぜという思いが又頭をもたげた。先頭を走ってきてもうやることが無くなったって、後から音楽を志すものたちが聞いたら怒り出すぜ、まったく。