「告白」2010年/日本
監督・脚本:中島哲也
原作:湊かなえ
出演:松たか子、木村佳乃、岡田将生 他
実は、湊かなえさん原作の映像作品は、
「北のカナリアたち」しか観たことがなかった。
さらに言えば、小説もほぼ読んだことがなかった。
「告白」は、文庫本発売時に手には入れていたものの、
その頃は別の作家の作品に夢中で、読む機会がなかった。
けれど、つい最近、フリマで「花の鎖」の文庫本を100円で購入し、
たまたま長編を読み終えたばかりだったので、その夜から読み始めた。
あっという間に読み終え、
横浜の書店「有隣堂」の販売促進担当だったという方の解説にあった通り
読み終えた直後にもう一度、読み返した。
湊かなえ作品の大きなテーマの一つは「母親」だと言われている。
「花の鎖」で描かれた数パターンの母親像とはまた違うであろう
母親像を知りたくて、長年本棚にしまったままだった「告白」を読むことにした。
今更ながら、2009年の本屋大賞に選ばれた作品は、やはりおもしろかった。
あまりにおもしろくて平日の3日ほどで読み終えてしまった。
読み進めても読み進めても、一向に本心が解らない登場人物たち。
映画化にあたり脚本も務めた中島哲也監督もインタビューで話していたように、
登場人物が話していること、書いてあること、
つまりこの作品の中にある「言葉」には、事実だという保証がない。
エンディングまでものすごい勢いで登場人物の言葉だけで突っ走るにも関わらず、
湊かなえさんは、最後まで登場人物に“本心”を、
“本心”だと確信できる言葉を語らせることはなかった。
その語りが事実なのか虚構なのか嘘なのか、
嘘の場合、故意なのか気付かぬうちの発言なのかも教えてくれなかった。
物語を思い返す度に非常に恐ろしく不気味。
「告白」の後味の悪さや、胸が今もざわざわする要因は
人の発する言葉の不確実さと、その恐ろしさにあるのかと思う。
いま、心の中で感じていることを、全くうまく表現できないのが悔しいが、
このような人の感覚や思考も含めて、この作品の中の言葉に翻弄された。
映画では、主演が松たか子さんということだけは知っていた。
あまりに難しい役柄だっただろう。松たか子さん以外考えられない。
血が通っていない言葉、人間味のない表情にゾッとする。
その中で所々見せるのが、瞳や表情のものすごく細かな動き。
「あ、いまこの瞬間の言葉は本心かもしれない」と思わせる表現。
最後の最後まで、圧倒された。
そして、少年AとBを演じた少年の迫真の演技。
小説や台本を何度も読み、意見を交わし合ったという生徒役の若者たち、
少年Bの母親をヒステリックなほど静かに演じた木村佳乃さん皆、
本当に本当に巧かった。素晴しかった。
そして、原作とは少し違う解釈をせざるを得ない、
または原作の解釈を不気味に鮮やかに広げさせる演出。
言うまでもなく、最後のシーンには圧倒された。
あまりに凄すぎて声が出た。同時に涙が出た。
言葉を嘘だと解釈すれば、また違う方向に解釈ができる。
いくらでも解釈は広がる。
映し出された映像以外の解釈も無限に存在する。
原作も崇拝するが、この作品を映画化しようと思った
中島哲也監督の頭の中を崇拝する。
まだこの映画のレビューは読んでいないが、
おそらく最も議論の対象になりやすいであろう
基本的でいて、物語の核である担任森口悠子の言動について、
私の解釈は。
森口悠子の告白は、まぎれもなく全て本心である。
しかし、
本心ではあるが、言葉としては嘘である。
本心は、必ずしも正しい言葉では表す必要などなく
故意に、または気付かぬうちに、それは相手に湾曲して伝えられる。
最初から最後まで、彼女は教師であった。
こう感じている。
映画の一言。
「苦しくなるほどの言葉の凄み。」