
♬ ひつじかい日記
2016年2月18日(木)
6時 デボーション 早朝のめぐみは格別。
食後、二階の書斎周辺の片付け。
たわわになった、未整理、未処分の文書類。
要、不要を分ける。
不要だけでもゴミ袋2、5袋分は有に。
ここまで手がけると、きりのよいところまで完成したい。
2時に「聖書の学び」に大学生が来る予定。
少しあせる。
そこへ「遅れます」のメール。
思わず「感謝」と書きかけて、
「待っています」に替えた。
2時40分、来訪。
今日のテーマは「罪について」
まず、
2種のガラスのコップの水を通して、
人間の内に内在する「罪」を説明。
二種ともそのままにしていると、違いがわからないほとキレイな清んだ水。
しかし、片方は棒でかき混ぜると、
下に沈殿していた泥が舞い上がり、あっと言う間に泥水に。
しかし、片方のコップの水はどんなに混ぜてもきれいなまま。
もともと泥がないからだ。
聖書は、
「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」(ロ3:23)
と記すが、私たち人間もまた、
穏やかにしていると、まるで、罪などどこにもなかったかのように、
キレイな思いで満たされいるかもしれない。
しかし、一旦、誰かが気に入らないことを言ったり、
悪口を言われたり、自分が損をするような立場に置かれると、
みるみる沈んでいた泥のような思いが湧き上がり、
怒りや妬みの渦となる。
それが人間の心の状態である。
聖書の人間の罪の見解はまさに、泥の入ったコップの方であると、説明。
マルコ6章で、主イエスは「罪」を具体的に示す。
「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。
すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。
不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。
これらの悪はすべて内部から出てきて、人を汚すのである」(20-23)と。
多くの人はここまでくると、
罪の存在に気が付く。
(気が付いている)
しかし、
続いて、
ヨハネ第一の手紙1章9節を開き、
「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、
神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、
すべての不義からわたしたちをきよめてくださる。」
となると、頑固として口を紡ぐ。
だれでも、自分の隠れた部分に触れてほしくないからだ。
私もそうだったから、そのあたりは良くわかる。
しかし、聖書は、
その真実な罪の悔い改めをもって、
「キリストのうちにある新しい人」(コリント人への第二の手紙5:17)を約束する。
キリストにある新しい命の発芽は、
悔い改めの狭き門を通過と共に、各々の内に始まってゆく。
それは、
「神に受け入れられる魂は、悔いし砕けた魂」で、
「聖霊が示す罪を認める」という道を通って、
人は初めて、
主イエスの十字架が自分の罪の身代わりであったと、
十字架による罪の赦しの確信に至る。
❁
わがやのクリスマスローズは、例年、葉っぱの茂みでお顔がよく見えないのだが、
今年は突然の大雪、寒波襲来で、
雪解けと共に、
一瞬にして、グググーート、太陽を探すかのように、首が伸びて、
おかげで白い清楚な愛らしい花弁が顔をシャガメなくてもよく見える。
チョット深刻な環境、狭き門を通過すると、
人もまた不思議とググーート伸びる。
主イエスは「滅びに至る門は広い」と仰られたが、
真実な罪の悔い改めの中から新たな命がスタートすることを、
悔い改めを通過した者たちは知っている。
次回のテーマは「十字架について」。
この方の上に、
新たな命、再生の御業がご聖霊の導きの中でなされますように!
2016年2月19日(金)
デボーションは、サムエル記下の「ウザ打ち」の箇所を通過。
以前、一緒に奉仕をしていた先輩から、
「ウザにならないでください」、
と、言われたことを思いだす。
この箇所だけは、良く理解できなかった箇所だ。
アビナダブの子ウザは、ダビデの命で契約の箱を運んだのだから、
ダビデは、車に乗せる段階で、契約の箱は祭司が担ぐものである、
と言うことを、なぜ言わない。
なぜ、ウザだけ裁きにあうはめに・・・
などど、その理解はここ10年余り堂々巡りだった。
けれど、
ここ数日そのことを考えながら、
契約の箱は神の隣在を現わすということだが、
神のご隣在、神の御業に人間の手を加えることはできない。
もしかすると、今までの自分の奉仕(働き)が、
いかに主を憂えしめる、人間的な画策に満ちていたのだろうかと、神の御前に問いただされると、
ああ、なぜ、もっと、神ご自身のお働きを畏れて、待つことができなかったのだろうかと、
憂える。
ガムシャラに生きてきて、時折、分を超えてしまっていることがあったかもしれない。
そんな自分を振り返りつつ
霊的なことがらは、
その人が神様から直接示される時が来なければ、
本当にはわからない分野なのだだろうか、とも思い、
はたまた、
アレヨ、コレヨ、と先輩ぶって、後輩たちを憂えしめた、
自分自身が、いっそう憂える存在に思えた。
2016年2月18日(木)
6時 デボーション 早朝のめぐみは格別。
食後、二階の書斎周辺の片付け。
たわわになった、未整理、未処分の文書類。
要、不要を分ける。
不要だけでもゴミ袋2、5袋分は有に。
ここまで手がけると、きりのよいところまで完成したい。
2時に「聖書の学び」に大学生が来る予定。
少しあせる。
そこへ「遅れます」のメール。
思わず「感謝」と書きかけて、
「待っています」に替えた。
2時40分、来訪。
今日のテーマは「罪について」
まず、
2種のガラスのコップの水を通して、
人間の内に内在する「罪」を説明。
二種ともそのままにしていると、違いがわからないほとキレイな清んだ水。
しかし、片方は棒でかき混ぜると、
下に沈殿していた泥が舞い上がり、あっと言う間に泥水に。
しかし、片方のコップの水はどんなに混ぜてもきれいなまま。
もともと泥がないからだ。
聖書は、
「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」(ロ3:23)
と記すが、私たち人間もまた、
穏やかにしていると、まるで、罪などどこにもなかったかのように、
キレイな思いで満たされいるかもしれない。
しかし、一旦、誰かが気に入らないことを言ったり、
悪口を言われたり、自分が損をするような立場に置かれると、
みるみる沈んでいた泥のような思いが湧き上がり、
怒りや妬みの渦となる。
それが人間の心の状態である。
聖書の人間の罪の見解はまさに、泥の入ったコップの方であると、説明。
マルコ6章で、主イエスは「罪」を具体的に示す。
「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。
すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。
不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。
これらの悪はすべて内部から出てきて、人を汚すのである」(20-23)と。
多くの人はここまでくると、
罪の存在に気が付く。
(気が付いている)
しかし、
続いて、
ヨハネ第一の手紙1章9節を開き、
「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、
神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、
すべての不義からわたしたちをきよめてくださる。」
となると、頑固として口を紡ぐ。
だれでも、自分の隠れた部分に触れてほしくないからだ。
私もそうだったから、そのあたりは良くわかる。
しかし、聖書は、
その真実な罪の悔い改めをもって、
「キリストのうちにある新しい人」(コリント人への第二の手紙5:17)を約束する。
キリストにある新しい命の発芽は、
悔い改めの狭き門を通過と共に、各々の内に始まってゆく。
それは、
「神に受け入れられる魂は、悔いし砕けた魂」で、
「聖霊が示す罪を認める」という道を通って、
人は初めて、
主イエスの十字架が自分の罪の身代わりであったと、
十字架による罪の赦しの確信に至る。
❁
わがやのクリスマスローズは、例年、葉っぱの茂みでお顔がよく見えないのだが、
今年は突然の大雪、寒波襲来で、
雪解けと共に、
一瞬にして、グググーート、太陽を探すかのように、首が伸びて、
おかげで白い清楚な愛らしい花弁が顔をシャガメなくてもよく見える。
チョット深刻な環境、狭き門を通過すると、
人もまた不思議とググーート伸びる。
主イエスは「滅びに至る門は広い」と仰られたが、
真実な罪の悔い改めの中から新たな命がスタートすることを、
悔い改めを通過した者たちは知っている。
次回のテーマは「十字架について」。
この方の上に、
新たな命、再生の御業がご聖霊の導きの中でなされますように!
2016年2月19日(金)
デボーションは、サムエル記下の「ウザ打ち」の箇所を通過。
以前、一緒に奉仕をしていた先輩から、
「ウザにならないでください」、
と、言われたことを思いだす。
この箇所だけは、良く理解できなかった箇所だ。
アビナダブの子ウザは、ダビデの命で契約の箱を運んだのだから、
ダビデは、車に乗せる段階で、契約の箱は祭司が担ぐものである、
と言うことを、なぜ言わない。
なぜ、ウザだけ裁きにあうはめに・・・
などど、その理解はここ10年余り堂々巡りだった。
けれど、
ここ数日そのことを考えながら、
契約の箱は神の隣在を現わすということだが、
神のご隣在、神の御業に人間の手を加えることはできない。
もしかすると、今までの自分の奉仕(働き)が、
いかに主を憂えしめる、人間的な画策に満ちていたのだろうかと、神の御前に問いただされると、
ああ、なぜ、もっと、神ご自身のお働きを畏れて、待つことができなかったのだろうかと、
憂える。
ガムシャラに生きてきて、時折、分を超えてしまっていることがあったかもしれない。
そんな自分を振り返りつつ
霊的なことがらは、
その人が神様から直接示される時が来なければ、
本当にはわからない分野なのだだろうか、とも思い、
はたまた、
アレヨ、コレヨ、と先輩ぶって、後輩たちを憂えしめた、
自分自身が、いっそう憂える存在に思えた。
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