長崎めぐみ教会 tearoom 2

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試みの後、

2018-04-25 01:01:46 | ひつじかい日記(2)

 

2018年4月22日(日)

夜明け前にせき込む、これは一体何なのだろう。

自分の身体に起こってくる種々の変化に気持ちがついてゆけないまま、

教会総会の朝を迎えた。

今日は、K学園礼拝と重なって、新入生が10名ほど加わった。

 

メッセージは、 

学生にとっても身近な、いじめの問題にも少し触れた。

 

「第一のものを第一に」マタイ6:33-34

 

/ 私は4月から隣町の学童保育へ行っています。週に2回、それも数時間で、まだ7回ほどしか行っていませんが、現代の子ども社会を目の当たりに見ています。(それはまた、大人社会の縮小版、原型でもあります)    

2回目行った時のことです。小34年生の男の子が4人で遊んでいました。一人の男の子が少し弱めの男の子に向かって「XXはバカだから」とか、「だからXXはダメなんだ」とか、ヒドイ言葉を連発していました。私は心の中で、「男の子の世界ってこんなものなのかナ?」と思って、気にはなりましたが、何も言いませんでした。

 ところが最近その男の子が、私に向かって、「ただ見学にきている人だと思っていた」と、チョットバカにした様な言い方をしたのです。その時、その言葉に対して、大学生くらいの若い男の先生が、堂々とその子に向かって、「ちゃんとした先生なんだ」と言って叱ったのです。

 ここ数日この事を思い巡らしていて、最初見かけたゲームの時のヒドイ言葉を私はその場で注意しなければならなかったこと。けれども、その場の空気に飲まれて、私自身がその時しなければならないことから逃げてしまっていたことに気が付き、何も言わなかった自分が、とても恥ずかしくなりました。

 もし、教会でその様なことがあれば、神の国の法則に従って、弱い人の立場に立って、普通に注意したでしょう。けれど、教会から一歩出た社会では社会のルールがあることを知っているので、アッサリと神の国のルールよりも無意識の内に世のルールに乗り換えてしまっていたのだと思います。その時、私は神の国と神の義を第一にしなかったのです。

 神の国とは神がご支配くださるところです。それに対して、世のルールは、力のある者が力のない人を支配する世界です。イジメの世界もまさに力関係で成り立たせる世の世界そのものと言えます。

主イエスは、「まず神の国と神の義とを求めなさい(第一にしなさい)。そうすれば、これらのもの(世にあって必要なもの)は、すべて添えて与えられるであろう。」(33)と、仰られました。ですから、もし、私たちの心が神様のご支配の中にあり、神様の御心に従うものであるなら、私たちの心はすでに「神の国」にあるのです。

と。

 

23日(月)

相変わらず微熱と咳がとれないので、

今日は、呼吸器内科を受診した。

「扁桃腺の腫れがとれると熱も自然に治まるでしょう」

との医師の見解に、

ホットしたのものの・・・

×××

 

微熱を抱えながら動き回ることにも少し慣れてきたので、

買い物や車の洗車までしてしまった。

じっとしていると、本当に病人になってしまうようで、怖かった。

 

ほんの数週間前まで、

新たに出会った、子どもたちとの新鮮な世界に感動し、

この年になって、あれもこれもできる自分に驚いてもいた。

真剣に5月の休暇で海外へ旅立つことも模索していた。


けれど、

重たい体をひこづっていると、やはり、気持ちもなえてしまう。

今の自分はいったいどうしたのだろう。

どんなにしてもとれない微熱を抱えながら、

子どもクラブへ行き始めたことは、御旨に沿わなかったのだろうか?

などとアレコレ考えはじめ、

どこか、神さまの祝福に陰りがでてきているようにも思えたりして、

身体だけでなく心までだれてゆく、

そんな、「病」の本当の怖さを見せられている気がした。

 

24日(火)

朝、

大雨の中、教区の集いに出かけてゆく兄姉を見送って、

長崎駅のフードコートで朝食を済ませ、

本を1冊買って、教会に帰った。

この雨模様に対抗するかのように、

室内の電気をあかあかとつけて、出かけていった人たちのためにも静まりの時をもった。

2時ごろだっただろうか、

チャイムがなったので、玄関にでると、かわいい女の子が2人、雨に濡れながら立っていた。

ただそれだけのことなのに、

私の心に新しい元気と喜びが帰ってきた。


暫く、わたしたちの教会には、子どもの姿がなく、

私が子どもクラブに行き始めた動機の一つもまた、

子どもとの接点を求めたからだ。

「教会に子どもを!」

これは、今の私の、また、私たちの教会の切願だった。


そのような中で、子どもたちの姿を現実にそこに見たとき、

「ア、神さまは生きておられる。私たちの祈りを聞いておられる。」

と、反射的に思ったのだ。

祝福が陰り始めていた雲間から、突然天の光がこぼれ落ちてきたようなきもちになった。

 

 私は、スッカリ熱のことを忘れて、小2の女の子たちとの話に

夢中になっていた。

これは、落ち込みそうだった私への神さまからの「大丈夫!」のサインだったと、

今も、そう思う。



 

 

 


 


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