葉織る。

言葉の中にそれを紡ぎ織った人が見えても、それは虚像かもしれない。

「はりかえどころ」に彼はいる。

2021-06-27 09:17:19 | 雑感

 京都テレビで火曜日に「新必殺仕事人」が再放送されているのを、録画して観ている。
 といってもほとんど早送りで、仕事のシーンだけじっくり観ているのだから邪道極まりない話だ。

 私が初めて必殺シリーズを観たのは高校生の時の「必殺仕事人Ⅳ」で、悪友との雑談か何かでその存在を知り、興味が湧いたのだ。
 で、実際に番組を観て何が驚いたって、勇次さんの投げた糸がいつの間にか天井近くの横に渡した柱に引っ掛かっていたことである。
 以来、その仕事っぷりをよく観るようになったのだが、今のように簡単に録画できる環境ではなかったし、他にやることも多かったので、「そろそろ仕事が始まる頃か?」というタイミングでチャンネルを合わせ、悪人が始末される場面、特に秀さんと勇次さんが観られれば満足で、主水さんなどは別にいいやと思っていたのだから、これまた邪道極まりない話である。

 さて、京都テレビではかなり前から仕事人の再放送をやっているのだが、「必殺仕事人」についても左門さんと秀さんのアクションを中心に観たり観なかったりで、やはり私にとって仕事人の魅力は、勇次さんの様式美がほぼ全てなのだろう。
 だから「必殺仕事人」が終了し、翌週からは「新必殺仕事人」がオンエアされると知った時は、それなりに期待が膨らんでしまった。
 何しろ「新必殺仕事人」は初見なので、勇次さんの初仕事に俄然興味がわいたのだ。

 だが?新必殺仕事人の初回を観たら、おやおや、勇次さんが悪人を「吊らない」のである。
 以後、第9話まで観ているが、吊ったり吊らなかったりで、吊っても「まあ、流れとして自然といえば自然」な動きになっているのだ。
 いや、それはまあ三味線の糸を投げて首にジャストで巻きつけるという時点で相当不自然なんだけど。

 とはいえ、「いつの間にか糸が柱に引っ掛かる描写が無いから不満」かというとそんなことは無い。
 他にも細かい演出が、私が高校生の頃に観た勇次さんの記憶とは違っているのだが、そんなこんなが寧ろ面白いと感じている。

 つまり「新必殺仕事人」の勇次さんは、その様式美を完成させるまでの過渡期にあるのだ。
 当時の制作のみなさんは、「ああでもないこうでもない」「この方がカッコいい」と試行錯誤しながら、勇次さんの動きを創っていたのだろう。
 その細かい工夫を一話毎に感じつつ、「今回は完成形に近づいた」「あ、ちょっと遠ざかった」と思いながら、悪人が始末される様をリプレイしている。
 いや、そんな楽しみ方をしていたら、そのうち私自身が吊られるのではないかと思うような鬼畜の所業ではある。

 ちなみに、時々早送りを止めた時に、三味線屋の看板が「はりかえどころ」となっているのを見て「あっ」と思うのだが、これは高校生の時の記憶が蘇っての「あっ」なのか、今になって気付いたから「あっ」なのか、自分でも分からなくて変な気分である。

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