葉織る。

言葉の中にそれを紡ぎ織った人が見えても、それは虚像かもしれない。

信心より、期待感より、平常心。

2021-06-20 09:24:00 | 仕事

 16日にオンエアされた「ガッテン!」を観た。
 この回のテーマは「おまじない」だったので、多分プラセボ関連だろうなと予測していたらビンゴであった。

 プラセボは、基本的には「偽薬を本物だと信じて服用することで得られる効果」である。
 だが、今回は「本物だと信じる」だけでなく、「偽物だと知りつつ期待する」ことでも効果が得られるというエピソードがあった。
 例えばパッケージから薬を取り出して飲む、といった一連の行為に意味があるようだが、こうなるとプラセボというよりも、ルーティーンといった方が近いのではなかろうか。

 というか、それこそ「おまじない」の本質はプラセボよりもルーティーンではないかと思う。
 懐かしの?五郎丸さんの印のような。
 で、今までにも似たような記事を書いているが、鍼灸やマッサージの本質は、プラセボを最大限に引き出すルーティーンではないか、というのが私の仮説である。

 それにしても、鍼灸やマッサージの研究機関では、まだまだ「この経穴を刺激したら、この効果」的な実験が中心なのだろうか。
 もっとプラセボやルーティーンという方向性の実験を、率先してデザインして欲しいと思う。

 ただ、自分で「鍼灸の本質は、プラセボを最大限に引き出すルーティーン」と書いておいて申し訳ないのだが、「プラセボ」「最大限」ということに囚われると、多分上手くいかないだろうな、とも思う。

 このやり方なら「上がる」けどこれは「下がる」というのは、ちょっと違うのだ。
 そういえば鍼灸の補瀉の概念。
 足りなければ補い、余計なものは瀉する、というのも、実は一種の方便ではなかろうか。
 補も瀉も、施術した結果としてそういう現象が起こるけれども、施術自体の目的ではないような気がするのだ。

 何というか、「出っ張りは引っ込めて、窪みは埋める」という感覚は、病気や怪我に対して具体的に行動する、という意味の情報として共有しやすいから、便利だし普及もしやすいのは分かる。
 でもそれよりも、「歪な球体を、ただ転がして滑らかな球体に近づけていく」感覚の方が、鍼灸やマッサージの本質に近いような気がするのだ。

 いや、これも「凸凹を平らにならす」ということに囚われると本質からずれていきそうだ。
 大事なのは形よりも、動きだからだ。
 …などといったことを下手に追求すると観念的になり過ぎるし、考えなさ過ぎると形骸化してしまう。
 その辺のバランスを保つためにも、まずは「ただ、凝りをほぐす」という原点を心がけて施術したい。

 目指すは「信心よりも、期待感よりも、平常心」である。

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