中医学には、補シャ(『シャ』の漢字が出ません。片仮名で勘弁して下さい)という概念があります。
これは、「氣が足りなければ補い、邪氣があればシャす(取り去る)」という治療の原則のひとつです。
つまり、補シャについて考えるなら、「氣」の思想を避けては通れないんですね。困っちゃったなあ。
と言うのも、私は「氣」については少々極端な私見を持ってまして、その上で(それ故にと言うべきか?)「氣とはこういうものだ」と、断定してしまうのは時期尚早だと思っているのです。「氣」の定義がハッキリしていないのに、その「氣」を補うだの取り去るだの、その方法や理論についてあれこれ言っても良いのだろうか?と。
ま、いいか。「氣」について全く触れずに東洋医学を語るなんて、どだい不可能なんだから。
補シャについては、鍼灸治療では手順や要領などが色々あるのですが、按摩では現在はあまり意識はされません。これは、按摩が長い間、治療よりも慰安の技術として捉えられてきたからです。
勿論、実際には按摩でも補シャの方法があります。例えば「経脈の流注に従えば補、逆らえばシャ」といった具合です。この経脈というのは、氣の流れる道、河のようなものです。
で、ツボとか経穴というのは、道の例えで言うなら、信号や歩道橋、駐車場、停留所等。河の例えで言うなら、浅瀬や深み、滝等の、流れのポイントになる部分の事です。経脈は線路で、ツボ(経穴)は踏み切りや駅、みたいな例え方もあります。流注とは、この道なり河なり線路なりの進行方向や流れ方を示したものです。
つまり、とにかく流注に従って施術するのを心がけている私は、補ばかりでシャが無いということです。
実は私は、補シャという考え方には納得していません。足りなければ補うとか、余計なものは取り去るとか、そういう発想は、氣にしろ邪氣にしろ、それが「実在する何か」という前提で成立します。
でも私は、氣というのは必ずしも「有る」とは思っていないのです。「有る」のでなければ「無い」のですから、「無い」モノを補うのも取り去るのも無理があります。
ならば、何故流注に従っているのか?について、次回。
これは、「氣が足りなければ補い、邪氣があればシャす(取り去る)」という治療の原則のひとつです。
つまり、補シャについて考えるなら、「氣」の思想を避けては通れないんですね。困っちゃったなあ。
と言うのも、私は「氣」については少々極端な私見を持ってまして、その上で(それ故にと言うべきか?)「氣とはこういうものだ」と、断定してしまうのは時期尚早だと思っているのです。「氣」の定義がハッキリしていないのに、その「氣」を補うだの取り去るだの、その方法や理論についてあれこれ言っても良いのだろうか?と。
ま、いいか。「氣」について全く触れずに東洋医学を語るなんて、どだい不可能なんだから。
補シャについては、鍼灸治療では手順や要領などが色々あるのですが、按摩では現在はあまり意識はされません。これは、按摩が長い間、治療よりも慰安の技術として捉えられてきたからです。
勿論、実際には按摩でも補シャの方法があります。例えば「経脈の流注に従えば補、逆らえばシャ」といった具合です。この経脈というのは、氣の流れる道、河のようなものです。
で、ツボとか経穴というのは、道の例えで言うなら、信号や歩道橋、駐車場、停留所等。河の例えで言うなら、浅瀬や深み、滝等の、流れのポイントになる部分の事です。経脈は線路で、ツボ(経穴)は踏み切りや駅、みたいな例え方もあります。流注とは、この道なり河なり線路なりの進行方向や流れ方を示したものです。
つまり、とにかく流注に従って施術するのを心がけている私は、補ばかりでシャが無いということです。
実は私は、補シャという考え方には納得していません。足りなければ補うとか、余計なものは取り去るとか、そういう発想は、氣にしろ邪氣にしろ、それが「実在する何か」という前提で成立します。
でも私は、氣というのは必ずしも「有る」とは思っていないのです。「有る」のでなければ「無い」のですから、「無い」モノを補うのも取り去るのも無理があります。
ならば、何故流注に従っているのか?について、次回。
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