逃亡者達13
約束
あの人と一緒にいたい。そのためなら何でも差し出す。
帰ると決意は決まったが、発作後のラッセルは動かせなかった。
不安定な脈拍。うっかりと忘れられる呼吸。
医者を呼ぼうにもうかつな医師には見せられない。
やむを得ず、アレックスは一人でセントラルに戻ることにした。
そのことを言うと。
「ヤダ」
小学生でもあるまいにほほを膨らます。
食事を拒否してハンガーストライキの構えである。
「ラッセル」
さすがに2日目になって夕方を過ぎるころにはルイも本気で怒り出した。
それでなくても栄養状態は最低である。ここには点滴の設備も無い。静脈注射で補うのも限度がある。できるだけ食事から栄養を取るべきである。ようやく少し改善しかけたばかりで、ハンストなどしてはまた身体が続かなくなる。
あれから夜になると咳き込むようになっている。体力をこれ以上落とさせるわけには行かない。
「いいかげんに納得しなさい。なるべく急いで迎えに来る。いずれにせよセントラルの様子を見てこねば、部隊もそのままになっておるだろうし」
そこまで口にしたところでアームストロング元大将軍ははっと気づいた。
(しまった、こんなところで遊んでいる暇など無い。早くセントラルに、軍に戻らねば、マスタング殿との約束を)
それどころではなかったというのが本音だが、言い訳にしかならないことはよくわかっている。
あの日研究所のドアをたたき破ってラッセルを連れ出して、もう1月を越えてしまった。その間、軍にも妹にもブロッシュにさえも連絡していない。
退役したとはいえ軍人として公人としての立場を完全に忘れていいはずはない。
第一、 今まで妹にまかせっきりにしていたとはいえ自分は財団の当主である。
砂漠の真ん中で子供の遊び相手をしていられる身ではない。
ついこの子から手を離せなくて、いや離したくなくてすべてを忘れていることにした。
それにこの子にも立場がある。これ以上つらい思いはさせたくないし、ゆっくり休ませたいのも本音である。だが、まだ31歳だ。隠居するには早すぎる。そのあたりもキャスリンとよく相談せねばならない。
財団が手を回せば、戸籍を作り変え名を変えて過去を捨てて生きるのも難しくは無い。ようはこの子の気持ちしだいだ。今は精神的に参っているから軍への協力は絶対にしたくないだろうが落ち着けば気持ちも変わろう。この子の才能をこのまま砂漠に埋めるのはあまりにも惜しい。
それだけのことを1秒で考えるとアレックスはラッセルを見た。まっすぐに。
青い瞳と銀の瞳が互いに姿を映しあう。そのとたん、目をそむけたのはラッセルのほう。
「いやだ」
子供のようにそれだけを言うと毛布にもぐりこんでしまった。
頭からかぶって顔を見せない。
「ラッセル、もうわかっておるな」
軍属の形とはいえ、15年も軍にいた彼がわからないはずは無い。ただ、言いたいのだ。いやだと。
「朝になったら出る。ここには医師を手配してすぐ送るから、ちゃんと言うことを聞くのだぞ」
「ヤダ」
声にもならないような小さな声で。
毛布がテントの形になっている。そのとがった頂点が震える。
必死で咳を押さえ込んでいるのだ。
いやだと言いながらもルイに心配をかけて、出られなくしたりしてはいけないとわかっている。
いつものように一緒に眠ろうといいかけた。しかし、押し殺したような声で(咳を押さえているためだろう)
「行っちゃえばいいんだ」と、
ようやくの思いでそう言った彼の気持ちを無視できなかった。
「用意をしてくる」
そういって部屋を出た。
ドアの閉まる音に抑えられなくなった咳の音が重なった。
この夜2人はここに来て初めて別の寝室で眠った。
気休めにしかならない咳止めを持っていった家事女は枕に顔をうずめる青年を見つけた。
「ルイ、おいていかないで、一人はいやだ。こわい。あなたがいないとこわい。いかないで」
家事女が入ってきたことにも気づかず、ラッセルは黒い影におびえていた。
脳障害
財団系の病院から来た医師は彼を診察した。
彼は目を覚ましている。しかし。
「ルイ様。結論だけ申し上げます。この方が回復する見込みはありません。
出血による酸素欠乏で脳の記憶に関する部位と、高次機能部位が死滅しています。専門の病院で機能回復のトレーニングをすればある程度、指示に従える程度には回復するかもしれませんが、この方のお体の様子から見てトレーニングに耐え切れません」
ラッセルの目は開いている。だが、自分のことを話されているということもわからないのだ。
その目には何の反応も見えない。
今日最初の朝日が窓から光を差し入れた。
彼の手のひらに光が当たる。それを握ろうとでも言うように手が結ばれる。その手を我輩の前に持ってくる。
彼は笑った。幼い、子供の顔で。
手を開く。
もちろんそこに光が握りこまれているはずは無い。
しかし見えた。いく粒もの光の粒子。
「エドワード・エルリック。これはそなたの意思か。この子がもう苦しまないように、もう一度産まれさせたのか」
医師は礼儀正しく、ご当主の声を聞こえなかったことにした。
微笑むご当主はすでに絶望という衣を脱ぎ捨てていた。
最初、血に染まるシーツに包まれた冷たい肌をしたラッセルを抱き上げたとき、これは悪夢の続きであってくれと祈った。
何が原因かはわからない。
おそらく張られていた胸の傷の結界が一時的に完全に消滅した。
肺は大量の血液が常にある臓器である。
その臓器で体を貫く傷があればどうなるか。
一度に流れた血がシーツを冷たくするころには、シーツに包まれていたラッセルはその冷たさを感じなくなっていた。
すでに死体にしか見えない彼を血に染まったシーツから下ろす。
言葉を話せない女がそれでも祈りの言葉を唇に浮かべた。
その女を怒鳴りつける。
「馬鹿者!!この子が死ぬわけは無い
部屋を暖めろ!毛布をありったけもってこい!急げ!!」
アレックスが使用人を怒鳴ったのはこれが最初で最後であった。
言葉を使えなくなった女はそれでも必死でない知恵を絞り昨日ご主人様が連絡していた病院に電話した。当初病院は何も言わない電話をいたずらと判断した。しかし、あまりに繰り返されるそれにたまたま出た医師があることを思い出した。
今、隠れ家で休んでおられるご当主のところには口の聞けない家事女がいる。
医師は違っていた場合の減給を覚悟の上で、昨日聞いていたご当主の別荘に来た。
下した診断は無慈悲としか表現できなかった。
名は告げられなかったがこの銀色の青年が何者か、すぐにわかった。
国境の守護獣の役から、やっと解放された彼は、今度は自分自身からも解放された。
失踪14プライドの対価
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約束
あの人と一緒にいたい。そのためなら何でも差し出す。
帰ると決意は決まったが、発作後のラッセルは動かせなかった。
不安定な脈拍。うっかりと忘れられる呼吸。
医者を呼ぼうにもうかつな医師には見せられない。
やむを得ず、アレックスは一人でセントラルに戻ることにした。
そのことを言うと。
「ヤダ」
小学生でもあるまいにほほを膨らます。
食事を拒否してハンガーストライキの構えである。
「ラッセル」
さすがに2日目になって夕方を過ぎるころにはルイも本気で怒り出した。
それでなくても栄養状態は最低である。ここには点滴の設備も無い。静脈注射で補うのも限度がある。できるだけ食事から栄養を取るべきである。ようやく少し改善しかけたばかりで、ハンストなどしてはまた身体が続かなくなる。
あれから夜になると咳き込むようになっている。体力をこれ以上落とさせるわけには行かない。
「いいかげんに納得しなさい。なるべく急いで迎えに来る。いずれにせよセントラルの様子を見てこねば、部隊もそのままになっておるだろうし」
そこまで口にしたところでアームストロング元大将軍ははっと気づいた。
(しまった、こんなところで遊んでいる暇など無い。早くセントラルに、軍に戻らねば、マスタング殿との約束を)
それどころではなかったというのが本音だが、言い訳にしかならないことはよくわかっている。
あの日研究所のドアをたたき破ってラッセルを連れ出して、もう1月を越えてしまった。その間、軍にも妹にもブロッシュにさえも連絡していない。
退役したとはいえ軍人として公人としての立場を完全に忘れていいはずはない。
第一、 今まで妹にまかせっきりにしていたとはいえ自分は財団の当主である。
砂漠の真ん中で子供の遊び相手をしていられる身ではない。
ついこの子から手を離せなくて、いや離したくなくてすべてを忘れていることにした。
それにこの子にも立場がある。これ以上つらい思いはさせたくないし、ゆっくり休ませたいのも本音である。だが、まだ31歳だ。隠居するには早すぎる。そのあたりもキャスリンとよく相談せねばならない。
財団が手を回せば、戸籍を作り変え名を変えて過去を捨てて生きるのも難しくは無い。ようはこの子の気持ちしだいだ。今は精神的に参っているから軍への協力は絶対にしたくないだろうが落ち着けば気持ちも変わろう。この子の才能をこのまま砂漠に埋めるのはあまりにも惜しい。
それだけのことを1秒で考えるとアレックスはラッセルを見た。まっすぐに。
青い瞳と銀の瞳が互いに姿を映しあう。そのとたん、目をそむけたのはラッセルのほう。
「いやだ」
子供のようにそれだけを言うと毛布にもぐりこんでしまった。
頭からかぶって顔を見せない。
「ラッセル、もうわかっておるな」
軍属の形とはいえ、15年も軍にいた彼がわからないはずは無い。ただ、言いたいのだ。いやだと。
「朝になったら出る。ここには医師を手配してすぐ送るから、ちゃんと言うことを聞くのだぞ」
「ヤダ」
声にもならないような小さな声で。
毛布がテントの形になっている。そのとがった頂点が震える。
必死で咳を押さえ込んでいるのだ。
いやだと言いながらもルイに心配をかけて、出られなくしたりしてはいけないとわかっている。
いつものように一緒に眠ろうといいかけた。しかし、押し殺したような声で(咳を押さえているためだろう)
「行っちゃえばいいんだ」と、
ようやくの思いでそう言った彼の気持ちを無視できなかった。
「用意をしてくる」
そういって部屋を出た。
ドアの閉まる音に抑えられなくなった咳の音が重なった。
この夜2人はここに来て初めて別の寝室で眠った。
気休めにしかならない咳止めを持っていった家事女は枕に顔をうずめる青年を見つけた。
「ルイ、おいていかないで、一人はいやだ。こわい。あなたがいないとこわい。いかないで」
家事女が入ってきたことにも気づかず、ラッセルは黒い影におびえていた。
脳障害
財団系の病院から来た医師は彼を診察した。
彼は目を覚ましている。しかし。
「ルイ様。結論だけ申し上げます。この方が回復する見込みはありません。
出血による酸素欠乏で脳の記憶に関する部位と、高次機能部位が死滅しています。専門の病院で機能回復のトレーニングをすればある程度、指示に従える程度には回復するかもしれませんが、この方のお体の様子から見てトレーニングに耐え切れません」
ラッセルの目は開いている。だが、自分のことを話されているということもわからないのだ。
その目には何の反応も見えない。
今日最初の朝日が窓から光を差し入れた。
彼の手のひらに光が当たる。それを握ろうとでも言うように手が結ばれる。その手を我輩の前に持ってくる。
彼は笑った。幼い、子供の顔で。
手を開く。
もちろんそこに光が握りこまれているはずは無い。
しかし見えた。いく粒もの光の粒子。
「エドワード・エルリック。これはそなたの意思か。この子がもう苦しまないように、もう一度産まれさせたのか」
医師は礼儀正しく、ご当主の声を聞こえなかったことにした。
微笑むご当主はすでに絶望という衣を脱ぎ捨てていた。
最初、血に染まるシーツに包まれた冷たい肌をしたラッセルを抱き上げたとき、これは悪夢の続きであってくれと祈った。
何が原因かはわからない。
おそらく張られていた胸の傷の結界が一時的に完全に消滅した。
肺は大量の血液が常にある臓器である。
その臓器で体を貫く傷があればどうなるか。
一度に流れた血がシーツを冷たくするころには、シーツに包まれていたラッセルはその冷たさを感じなくなっていた。
すでに死体にしか見えない彼を血に染まったシーツから下ろす。
言葉を話せない女がそれでも祈りの言葉を唇に浮かべた。
その女を怒鳴りつける。
「馬鹿者!!この子が死ぬわけは無い
部屋を暖めろ!毛布をありったけもってこい!急げ!!」
アレックスが使用人を怒鳴ったのはこれが最初で最後であった。
言葉を使えなくなった女はそれでも必死でない知恵を絞り昨日ご主人様が連絡していた病院に電話した。当初病院は何も言わない電話をいたずらと判断した。しかし、あまりに繰り返されるそれにたまたま出た医師があることを思い出した。
今、隠れ家で休んでおられるご当主のところには口の聞けない家事女がいる。
医師は違っていた場合の減給を覚悟の上で、昨日聞いていたご当主の別荘に来た。
下した診断は無慈悲としか表現できなかった。
名は告げられなかったがこの銀色の青年が何者か、すぐにわかった。
国境の守護獣の役から、やっと解放された彼は、今度は自分自身からも解放された。
失踪14プライドの対価
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