永遠の歌姫 ZARDの真実 第4話 [ZARD・坂井泉水は『負けないで』ヒット中も誰にも気づかれず、小田急線で通勤]

2017-05-27 20:07:43 | ZARD
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ZARD・坂井泉水は『負けないで』ヒット中も誰にも気づかれず、小田急線で通勤
永遠の歌姫 ZARDの真実 第4話
2017/5/27 16:12

 没後10年となるZARDのヴォーカル・坂井泉水さんを偲び、命日の5月27日、多くのファンが東京・六本木に設けられた献花会場を訪れた。『負けないで』『永遠』など誰もが口ずさめる大ヒット曲を多く残しながら、その短かった40年の人生は謎のヴェールに包まれている。坂井さんが所属したレコード会社でマネージメントオフィスのビーイングで、彼女のレコーディング・ディレクターを長年、務めた寺尾広氏が、その知られざる一面を明かしてくれた。

*  *  *
「実は私、ずっと寺尾さんがトラウマだったんですよ」

 坂井さんにこう言われて、レコーディング・ディレクターの寺尾氏はキツネにつままれたような気持ちになった。

「えっ?」

 寺尾氏はあらためて坂井さんの表情を見つめる。

「私のデビューの時のことです。覚えてますか?」
「いえ……」
「そばにいてほしいの、を私、1週間ずっと歌った」
「あっ、そんなこと、ありましたね」
「あれ以来、寺尾さんの顔を見る度に、私、またたくさん歌わされるのかな!?って思って(笑)」

 言われたのは2005年ごろだった。

「坂井さんがZARDでデビューした1991年から、僕はいろいろとレコーディングに携わってきました。でも、15年の間、まったく気づきませんでした」

 寺尾氏が坂井さんと出会ったのは、ZARDのデビュー直前。坂井さんが気を遣わないようにと、総合プロデューサーの長戸大幸氏が若手スタッフを中心にZARDのスタッフを編成したときに召集された。

「坂井さんの第一印象は、おとなしそうな女性、かな。姿勢がよくて、凛としていました」

 それからまもなく、デビューシングル「Good-bye My Loneliness」のレコーディングがスタートする。

「声量がすごくて、コンソールのヴォーカルのメーターが目一杯振れていた。おとなしそうな容姿とのギャップが大きかったことをよく覚えています」

 驚きだった。寺尾氏のモチベーションのメーターも振り切った。

「『Good-bye My Loneliness』の、<だから今は そばにいて欲しいの>、というフレーズの一番高いところの『て』が、坂井さん、当時は安定していなくて、何度も録音し直しました。カップリング曲の『愛は暗闇の中で』はすぐに録り終えたけれど、『Good-bye My Loneliness』はその部分だけでも一週間掛かりました。最後は、頭蓋骨を響かせるような声がポン!と出て、OKになりました」

 その時のことが、坂井さんにとっては、キャリアを通してのトラウマになったと打ち明けられたのだ。

「あっ、いえいえ、でも、あの一週間があったから、その後の私があると思っているんです」

 坂井さんは顔をほころばせた。

「申し訳なく感じました」

 寺尾氏は反省した。というのも、長戸プロデューサーに念押しされていたのだ。

「ディレクターとアーティストは、絶対に先生と生徒の関係になったらだめ。アーティストのほうが、音楽の中にたくさんのものが見えている。そのアーティストが作品をつくる、手助けをするのがディレクターの役割だということを忘れてはいけない」

 長戸氏のこの言葉を寺尾氏は肝に銘じていたのだ。

■スタジオでのお気に入りの出前はチャーハンと餃子

 レコーディング・スタジオに、坂井さんは家族と一緒に住む家から小田急線で通っていた。

「ビーイングの所属アーティストは、結構電車でスタジオに通っていて、坂井さんも例外ではありませんでした。彼女には、いわゆる“アーティスト・オーラ”を消す才能があったのか、混んだ電車に乗っていても気づかれなかったようです。『負けないで』が売れても、『揺れる想い』が売れても、ずっと電車移動。レコーディングは夕方にスタートすることがほとんどでした。レコーディングが深夜に及んだときはタクシーかスタッフの車で送ります。ただ、1990年代後半は自分で車を用意して、運転手を雇用していました。彼女は音を徹底的に追求するので、レコーディング時間がどうしても長くなったので。自分で運転できればよかったのかもしれませんが、彼女はペーパードライバーでした。大阪でのレコーディングや撮影にももちろん電車です。1人で新幹線に乗って、キャリーバッグを転がして来ました」

 100万枚を超えるヒットを連発しても、坂井さんの生活が派手になるようなことはなかった。ごくふつうの20代女性の感覚を失わなかったからこそ、多くのリスナーが共感できる歌詞をかけたのかもしれない。

 食事も、特別なものではなかったという。

「シンガーとしての、食べるものへの気遣いはありました。レコーディング中は特に。時間、内容、量……。歌うために何がいいか、どのくらいのペースで食べるのがいいか、いろいろと試していましたね。六本木のスタジオバードマンの時は、最初は外苑東通りにある叙々苑の焼肉弁当です。マッドスタジオでレコーディングしていた頃は、スタジオの近くにあったグッデイというお店でBLTサンドイッチを頼みました。時代は後になりますし、ごくまれですが、大阪でレコーディングしたときは、心斎橋の明治軒でオムライスを頼みました。そして、1990年代の後半に行き着いたのがチャーハンと餃子でした。高級なフカヒレチャーハンとかではなく、ごく一般的な五目チャーハンです。そして、歌の合間に少しずつ食べます。冷めても気にせず。加減に個人差はあるものの、シンガーは喉に少し油を与えるといい状態で歌えます。たぶん、チャーハンと餃子の油分は彼女の喉にちょうどよかったのでしょう。逆に、スタジオでは、ウーロン茶は口にしませんでした。歌に必要な油分を喉から洗い流してしまう心配があるそうです」

■シュークリームが苦手だった坂井泉水

 坂井さんに気を遣わせてしまったという失敗もした。

「1994年のアルバム『OH MY LOVE』のレコーディング中に、坂井さんが誕生日を迎えましてね。僕、ふだんは手ぶらでスタジオへ行くんですけれど、その日はシュークリームを買って行ってみんなで食べました」

 寺尾氏にとっては、楽しい思い出の1つだった。そして、2005年の「君とのDistance」の制作時も一緒に仕事をすることになった。

「長戸プロデューサーも僕も大阪で仕事をしているので、坂井さんもよく打ち合わせやレコーディングにやってきました。大きなキャリーバッグを両手で2つ転がしてきたこともあります。服が入っているのかと思ったら、1つは歌詞のもとが書かれたノートやレポート用紙がぎっしり詰まっていました。長戸プロデューサーから指示を受けた後は、歌詞ができるまでは一人で会議室にこもって書いていました」

 そして坂井さんは前年2月6日、大阪滞在中、誕生日を迎えた。

「あっ、寺尾さん、どうぞお気遣いなく。誕生日のプレゼントはいりませんから(笑)」

 会うなり、坂井さんに言われた。事情を訊くと、坂井さんはシュークリームが苦手だったのだ。10年前の誕生日のシュークリームは、坂井さんにとっては苦い思い出になっていた……。

「ゴメンね。知らなかったので」

 謝る寺尾氏。

「いえ、大丈夫です」

 坂井さんは表情をほころばせる。

「でも、坂井さん、あの時、シュークリーム、食べたよね?」

「そりゃあ、あの状況では食べますよ」

 坂井さんはさらに笑顔になる。

 そのとき、別のスタッフがスタジオにやってきた。

「坂井さん、お誕生日おめでとうございます! これ、差し入れです!」

 そういって、シュークリームがたっぷり詰め込まれた箱を掲げた。その場がしんと静まる。

「あれ、どうしたんですか?」

 状況を理解できずに立ち尽くすスタッフ。

 坂井さんは笑顔で「ありがとうございます」と言ってシュークリームを食べた。

「あれ? 坂井さん……大丈夫?」

 寺尾氏の心配をよそに坂井さんは

「あ、いえ……、美味しいシュークリームだったら食べられます」
「うわ~俺のは不味かったのか……」

 次の瞬間、スタジオ内は爆笑が響いた。

■途中からセルフプロデュースだった坂井泉水

 ZARDの輝かしいキャリアにおいて、「Good-bye My Loneliness」の「頭蓋骨を響かせるような声がポン!」と出ると寺尾氏が表現した歌唱が、持ち味の1つになったことは間違いない。

「2年後の『君がいない』のアルバムバージョンはコーラスも坂井さんですが、そこではE、つまり高音域のミまで、坂井さんは地声で出ましたから。かなり高い声です。最初は苦労していたけれど、2年ちょっとでこの音域が安定して出るようになりました。声は喉の筋肉によって発せられるので、正しく鍛えれば、どんどん状態はよくなっていきます。ただし、疲労もします。だから、2テイク目、3テイク目あたりまでがいいんです」

 初期は、坂井さんが歌い、寺尾氏がテイクを選び、エンジニアの島田勝弘さんがつなぎ、坂井さんがさらに選ぶ……という役割分担だった。

「でも、1992年の4枚目のシングル『眠れない夜を抱いて』から3枚目のアルバム『HOLD ME』のあたりで、ZARDのイメージや方向性をその時のディレクターや関係スタッフみんなが共有できてきた。サウンド面でも、ビジュアル面でも。サウンドに関しては、『TODAY IS ANOTHER DAY』以降、坂井さんのセルフプロデュースになり、やがて、彼女と島田さんの2人で進めるようになりました」

 この「HOLD ME」によって、ZARDはアーティストとしてのステージを上げた。

「デビュー時は坂井さんのロック性や、セクシーな声質も意識しながら制作していたけれど、『HOLD ME』からは明るいサウンドになっています。失恋を歌う切ない歌詞でも、曲は明るい。それがリスナーに受け入れられました。『負けないで』が売れる前で、ZARDの知名度はそれほどでもないにもかかわらず、最終的にミリオンヒットになりました。あそこで全員が自信を深め、ZARDの方向性も明確になりました」

 坂井さんが書く歌詞の自由度も増した。

「ZARDの曲は、そのほとんどはZARDのために書かれたものではなく、長戸プロデューサーのもとに届いたデモ音源から選ばれます。だから、坂井さんは、作曲家とは基本的に会っていません。作曲家に会うと、その人を尊重したり、気を遣ったりして、その気持ちが歌詞に影響します。必要以上にメロディーに合わせようとして言葉を選ぶかもしれません。それを長戸プロデューサーは避けようとしたのでしょう」

 ZARDの音作りに携わっていた寺尾氏が特に好きだったZARDの曲は「心を開いて」。

「サウンド面では、池田大介さんのアレンジとアンディ・ジョーンズのミックスが素晴らしかった。ドタッ!というドラムスから始まるイントロは、コンピューターの打ち込みで作っていますが、まるで生のドラムスのようです。その後に入ってくるピアノも好き。サビもエンディングも好きです。ZARDはサビのアタマにタイトルが入っているケースが多いんですよ。『負けないで』も『揺れる想い』も『きっと忘れない』も『あなたを感じていたい』も『こんなにそばに居るのに』も。でも、『心を開いて』のタイトルは、終盤にちょっと歌われるだけ。どこにでもありそうな日常、何でもないような風景を切り取って歌詞にしてしまう才能は素晴らしい。この歌、僕は最初、主人公が恋人に向かって、『心を開いて(ほしい)』、と思っているのだと思いました。ところが、素敵な男性と出会って、閉ざしていた自分の心が今度こそ開いてほしい、と歌っていると気づいて、胸が震えましたね」

 次に挙げたのは、バラードナンバーの「Forever you」。

「真実を切々と歌う曲です。ソナタ形式でね。Aメロ→A'メロ→サビ→Aメロ→間奏→サビ→Aメロという構成です。この30年くらい、日本のポップシーンのヒット曲の多くが、Aメロ→Bメロ→サビという構成ですが、その定型をいい意味で裏切った。新鮮でした。そして主人公が過去に思っていたこと、迷っていた体験は間違いじゃないという内容の歌詞も、歌い方も坂井さんの思いがこもっているし、演奏も全部が好きです。この思いはファンの方にも伝わっていたと思います。坂井さんがこの世を去った後に行った追悼ライヴでは、見に来てくださった皆さんが一音一音、一語一句を感じるようにサイリウムを振ってくれました」

 寺尾氏があげたもう1曲、「Today is another day」には特に思い出がある。

「2004年に1度だけ行ったツアー『What a beautiful moment Tour』。大阪のリハーサルスタジオでバンドだけで入念にリハーサルをしました。2月下旬に坂井さんにも大阪に来てもらい、数曲のリハを一緒にしただけでした。そして後はバンドだけでリハーサルをしているのを坂井さんは見ていました」

 リハーサルが終わった後、坂井さんから「寺尾さん、『Today is another day』が好きなんですか?」。

 唐突な質問だった。

「なんでですか?」
「この曲の時が一番楽しそうでした」

 曲に合わせて体を揺らす寺尾氏の姿を坂井さんは見ていたのだろう。

「ライヴで映える曲なんですよ。失恋を歌っていながらも、坂井さんが生で全開の声で歌うと、前向きになろう!という気持ちになる。とても共感できます。思い出深い曲です。ちなみに坂井さんはバンドとのリハーサルはその時だけで、あとは自分で練習していていました」

■『森のくまさん』みたいと体を揺らす

 坂井さんがこの世を去って10年経ってなおZARDの曲が多くのリスナーに支持されている理由を寺尾氏はどう考えているのか――。

「まず作品、特に歌詞、そして歌声。そしてその完成を目指す坂井さんの集中力と音楽への執着力でしょう。スタッフみんながOKを出しても、自分が納得しない限りは絶対に譲りません。そして、たとえ完成度が高くても、納得できなければ全部バラしてゼロからやり直す勇気も持っています。さらに、これは関係者全員が感じていることだと思いますけれど、自分が歌いながらも、坂井さんは常にリスナー目線の判断を大切にしていました」

 例えば、人気アニメの劇場版『名探偵コナン 水平線上の陰謀(ストラテジー)』の主題歌となった「夏を待つセイル(帆)のように」の曲を選ぶ打ち合わせの時のこと。長戸プロデューサーのもとに集まってきたデモ音源の中で、坂井さんが大野愛果さんのデモに反応した。

「『森のくまさん』みたいですね」

 そう言って体を揺らした。

「この曲を聴いていただくとわかると思いますが、『森のくまさん』には似ていません。つまり、坂井さんはイメージを伝えた。コナンのファンの子どもでも喜ぶような曲のイメージです。作業に作業を重ね、レゲエのリズムを取り入れたり、ストリングスを入れたり。あらゆる手法を施しました。それでも、最終的に、子どもでも魅力がわかるような音楽になっています」

 寺尾氏の話を聞いていると、ZARDとしての坂井さんは、デビューから亡くなるまで、ごく限られたスタッフのサポートで作品を生んできたことがわかる。

「坂井さんは内輪の人には常に気を遣いつつも、明るくハキハキと話していましたけれど、よく話をしていましたけれど、そこに知らない人が加わると、寡黙になるタイプでした。内弁慶とはちょっと違うけれど、繊細だったのでしょう」

 こうして、寺尾氏と坂井さんは、お互いの20代、30代の時間を共有した。しかし、坂井さんの最期に、寺尾氏は立ち会えなかった。

「最初に病だと聞いた時は思わず泣いてしまいました。結局僕はお見舞いには行っていません。メールでやり取りはしていましたが。坂井さんは歌詞を書いて、ライヴをやるつもりだと聞いていました。今ふり返ると、僕が知る坂井さんは、どの時期もまじめで、ストイックでした。プライベートでは、画を描いたり、ゴルフをやったり、愛犬と戯れたり、ジュエリーを自作したり、楽しんではいたようです。でも、僕が直接、接していた坂井さんは、いつも、自分の作品を作り上げるために貪欲に突き進んでいく女性でした」

(神舘和典)

永遠の歌姫 ZARDの真実 第3回 [ZARD 坂井泉水を救急車で運んだ時、スタッフが本名、年齢を知らず…]

2017-05-27 19:46:17 | ZARD
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ZARD 坂井泉水を救急車で運んだ時、スタッフが本名、年齢を知らず…
永遠の歌姫 ZARDの真実 第3回
2017/5/27 07:00

 2017年5月27日、10回目の命日を迎えたZARDのボーカル・坂井泉水さん。その最初から最後までレコーディング・エンジニアを務めたのが、島田勝弘氏だった。

 坂井さんとの最後のレコーディングは2006年4月。

 スタジオに響いた坂井さんの歌声に島田氏は心が震え、鳥肌が立った。

 その日、所属するレコード会社、ビーイングの所有するスタジオ、バードマンウエストに、坂井さんは母親に付き添われて現れた。

 この数日前、彼女に子宮頸がんが見つかり、6月には摘出手術を受けている。レコーディングしたのは「グロリアス マインド」。

 タイアップの話が進んでいたため、病を押してでも、サビだけは録音する必要があったのだ。

 レコーディングできる体調ではない――。

 島田氏は思った。しかし、坂井さんはヴォーカル録音のブースに入り、いつも通り、外から見えないようにカーテンを引いた。

 デビュー当初から、周囲の目を気にせずに思いきり歌えるようにと、ヴォーカル・ブースは中が見えないようにカーテンで遮られた。口を最大限開いて歌っても恥ずかしくないように配慮されたのである。

 ところが、次の瞬間、島田氏は自分の耳を疑った。スピーカーから響いた坂井さんの声には、万全なコンディションで臨んでいたかつてのレコーディングを彷彿させるほどの力があったのだ。

「自分のすべてを声にしたという歌でした」

 3テイクほど録音したら、坂井さんは母親とともにスタジオを後にした。その間わずか30分弱。一人残された島田氏はコンソールの前でしばらく動けずにいた。

■坂井泉水からもらった驚きのプレゼントとは?

 島田氏が坂井さんと出会ったのは1990年。ファーストシングル「Good-bye My Loneliness」のレコーディング前である。坂井さんが気を遣わないようにと、若手スタッフを中心にZARDのスタッフが集められ、総合プロデューサーの長戸大幸氏に招集された。それから、最後のレコーディングの「グロリアス マインド」まで、坂井さんの全キャリアのレコーディングに携わった。

 一致団結して作品を作るZARDのプロジェクトの中心にはいつも坂井さんがいた。そして、坂井さんのスタッフへの気遣いが団結力をさらに強くした。

 島田氏は誕生日にシルクのパジャマをもらったことがある。

 そこには次のメッセージが添えられていた。

<お誕生日 おめでとうございます(ハートマーク)
大した物ではありませんが、良かったら
使って下さい。実はちょっと サイズが(特におなかが……)
心配なのですが、もし小さかったら
奥様に貸してあげて下さいね(笑)
坂井泉水>

 誕生日にケーキを用意してくれたこともあった。

<Dear シマダさん(ハートマーク)
40('')歳 お誕生日
おめでとうございます
いつも長時間のレコーディングで
大変だと思いますが……
お互い体を壊さないように
より良い作品を作り続けたいですね
なぁ~んて まじめな文章になっちゃいましたが、
ケーキ食べて下さいね(ハートマーク)
泉水>

 このメッセージカードを今も島田氏は大切にもっている。

「パジャマはもったいなくて、1度も着ていません。実は今回このインタビューに対応することが決まった時に妻が思い出して、仕舞ってあったパジャマと手紙を見せてくれました。今も坂井さんにいただいたままの状態です。こうした気遣いをとてもされる人でした。実は僕、今年の3月に還暦を迎えたのですが、かつてのアシスタントたちがお祝いをしてくれました。その時に、以前ZARDのサブエンジニアをやっていた山田宗明君がシャンパンを持ってきてくれたんですけど、なんと、彼が会社を辞める時に坂井さんからもらったシャンパンでした。彼も、もったいなくて、18年間開けずに大切に持っていたそうです」

■身近なスタッフでも坂井泉水の本名を知らず

 こうして話を聞いていると、坂井さんとスタッフとの心の距離は近く、絆の強さもうかがえる。しかし、同時に、おたがいのプライベートには立ち入らなかった。

「ZARDの後期だったと思いますが、どの曲のレコーディングだったか……、常に全力で歌う坂井さんが過呼吸で倒れたことがありました。救急車を呼んで、病院まで僕が付き添いました。救急車の中では、救急隊員に坂井さんについてさまざま確認されます。名前、年齢、血液型……など。その時に、自分でも驚いてしまったのですが、僕は彼女のことを何も知りませんでした。本名すら言えなかった。ZARDの初期ではありませんよ。もう十何年も一緒にレコーディングをしていたにもかかわらず、坂井泉水という名前しか答えられなかったんです。ああ、坂井さんについて、僕は何も知らずに仕事をしていたんだ、と複雑な気持ちになったことを覚えています。そして同時に、彼女がスタジオでは、“ZARD・坂井泉水”であり続けたことを実感しました」

 坂井さんの入院中も、島田氏は直接会うことはなかった。

「次のレコーディング、楽しみにしていますね」

 電話での坂井さんの様子はいつも通りだったそうだ。

「うん。気を遣われるといけないので、お見舞いは遠慮しますね」

 島田氏は応えた。

「レコーディング途中の『グロリアス マインド』の話をしたと思います。タイアップ用のサビだけ録って、ほかの部分は英語詞の仮歌の状態でしたから」

 電話から数日後、坂井さんは不慮の事故により、帰らぬ人となった。

■盗まれたスタジオの愛用マグカップ

 特に忘れられない曲がいくつかある。

「まず、エンジニアの立場で好きなのは『心を開いて』です。音のバランスを整えて仕上げるミックスをアンディ・ジョーンズさんが手掛けました。アンディさんは、ローリング・ストーンズの全盛期の『スティッキー・フィンガーズ』『メイン・ストリートのならず者』『山羊の頭のスープ』『イッツ・オンリー・ロックンロール』やレッド・ツェッペリンの『レッド・ツェッペリンII』『レッド・ツェッペリンIII』『レッド・ツェッペリンIV』『聖なる館』などを手掛けている腕利きで。B'zのレコーディングに携わって、その後に『心を開いて』も依頼しました。コンピューターで打ち込んだデジタルのドラムスなのに、ものすごく躍動感がある仕上がりになっています」

 ストーンズとツェッペリン。世界最高峰のロックバンドのそれぞれ全盛期のアルバムを手掛けている世界一級のエンジニアが、ZARDのサウンドを手掛けていたのだ。

「この曲は生沢佑一さんと川島だりあさんのコーラスも素晴らしい。僕自身気に入っているし、坂井さんも喜んでくれて、FAXで彼女のハナマルマークが送信されてきました」

 島田さんが2曲目にあげたのは「雨に濡れて」。

「僕は学生時代にドラムスをやっていまして、ドラマー目線で好きなのが『雨に濡れて』です。打ち込みのドラムスが多いZARDの楽曲の中で、この曲は青山純さんが叩いています。青山さんは2015年に若くして亡くなられましたが、山下達郎さんやMISIAさんのバンドのドラマーでした。青山さんの演奏は、2拍目と4拍目のスネアドラムがほんの少し後ろに聴こえるんですよ。そのわずかなタイミングの違いによって、坂井さんの声と一緒に歌っているように聴こえる。歌詞に描かれている、雨のホームや、涙でにじむ歩道の風景がほんとうに見えるような曲です」

 ザ・スクエアやプリズムのメンバーとしても活躍した青山さんは、1980年代から2000年代の日本のポップシーンを代表するドラマーの一人だった。

 1曲1曲の質を高めるための、坂井さんの思いはすさまじかった。それは、スタジオワークにも表れていたそうだ。

「納得するまで何度でも歌いました。アレンジも、ミックスも、何度も何度も。作業は毎回CDの発売ぎりぎりまで行われて、時には発売後も直します。『運命のルーレット廻して』という、アニメ『名探偵コナン』のタイアップになった曲ではシングルおよびアルバムで20回以上アレンジをやり直しました。確かCDの発売日も変更になったはずです。この曲は、アニメでオンエアされた初期と後期では、まったく別バージョンになっています。アコースティックギターによるラテンのテイストの導入部のバックに、途中から打ち込みのドラムスがあったり、なかったり。ギターのソロも、打ち込みのベースラインやシンセも、ヴォーカルのリバーブも、かなり直しています。シングルリリース後にもミックスをやり直しているので、シングルバージョンとアルバムバージョンを聴き比べていただければはっきりとわかるはず」

 坂井さんは自分の作品の客観視を常に意識していた。

「アーティスト目線とリスナー目線。常に両方を持つように心がけていたと思います。自分の歌は、歌った直後は、自分ではなかなか判断できません。だから、何パターンも、当時はカセットテープに録音して、自宅に持ち帰って家族に聴かせて、その反応を確認していました。その結果、歌詞、メロディー、アレンジ、ミックス……が直しを重ねるごとに調和していきました」

 坂井さんはひと度スタジオに入ると、その集中力はすさまじかった。

 だから、ヴォーカルレコーディングのブースをカーテンで仕切る以外にも、彼女が集中できるように、島田氏は心がけていた。

「ZARDのレコーディングでは、僕は必ず1時間以上前にスタジオに入り、準備を整えました。レコーディングの準備に加え、のど飴や坂井さん専用の加湿器などを用意して待ちます」

「坂井さんが100%の力を発揮できる環境を用意するのも僕の役割ですから」

 喉を大切にする坂井さんは、デビューしてしばらくすると、カモミール・ティーを持参し、自分が持ち込んだマグカップで飲むようになった。

 レコーディング後に島田氏がそのマグカップを洗って次に備えていた。 

 その場所に坂井さんはもういないが、今もスタジオには当時、使ったグッズが置いてあるという。

※マグカップは2011年のZARD展で展示中に盗難されてしまったという。坂井さんがいたスタジオへ再び戻して欲しいと、ZARDのスタッフたちは願い続けている。

(文/神舘和典)