続き。もうひとつの水場の変化が風呂。以前のはいわゆる風呂場という感じで広く、洗い場はタイルで湯船は頑張ってまたぐ高さのものだったし、なぜか大きめの窓も付いていた。窓にプチプチを二重に張っても冬はとても寒く、いつもシャワーを出しっぱなしで入っていた。でも今はユニットバスなので寒さの心配はなく、安心して入っていられる。これも嬉しい変化のひとつ。
21-1-21
さらに続く。しかし、いいことばかりでもない。今度の住まいには音の心配があるのだ。自分では聞こえ具合を知りようがないけれど階下への音に気を付けねばならない。前の家は一軒家のようなものだったのでほとんど気にせず生活と制作ができたが、これからは違う。いい変化がたくさんあったのだから、そのくらいは頑張りたい。そして、それが自然になり当たり前になるはず。
21-1-22
前の家が更地に。昨日、近くを通ったのでその家の前に行ってみると真ん中に大きな重機がドンとあるだけで建物は一切なくなっていた。2ヶ月前まで住んでいた家がなくなってしまうと、引っ越しがもっともっと遠い過去のことのような気がした。記憶を辿るきっかけを失うと思い出は急に遠のいて行く。近い内になくなるとは思っていたがいざなくなってみると寂しいものだ。
21-1-23
テレビのニュースのときにアナウンサーの顔を小窓に映すことに苦言を呈したが、どうやらこちらの意とは逆の流れで、他局もどんどんやり始めている。ニュースに限らずそれが増えているのは流行りなのだろうか。しかし、落ち着いて画面に集中できなくするあの目障りな小窓の意味がどうしても理解できない。あれを喜ぶ視聴者の心理はどんなものなのかを是非知ってみたい。
21-1-24
押し売りならぬ押し買いというのがあるらしい。不用品の無料出張買取と銘打って個人宅に行き、依頼された品物の買取後に言葉巧みに貴金属を出させて居座り、なかば強引に安い値段で買い取ってしまうのだ。よほど相場に詳しい人でなければ簡単に騙されてしまうに違いない。押し売りや強引な販売にはクーリングオフもあるだろうけど、こちらの場合はどうなるのだろう。
21-1-25
テレビの情報番組で昼食と夕食をランチとディナーと言っていた。その人達は日常的にランチとディナーを食べているようだ。そもそもディナーは晩餐と習ったし、夕食はサパーだった。そんな豪華な食事を毎日のようにしている人はそう多くはないと思うのだが、自分を基準にしてはいけないのか。昼飯や昼御飯、晩飯や晩御飯は食べているけれど、ディナーなんて無縁。
21-1-26
「なぜか、お正月がずっと前のことに感じてしまう」と言うと「私もそう思う」と同調してくれる人が何人かいた。「どうしてなんだろう?」と投げ掛けると、合点のいく理由を出してくれた人がいる。それは「きっと、いつものお正月がなかったからだよ」というもの。これにはなるほどと頷けたし納得もした。いつものお正月は1年前になるわけだからずっと前に感じるのも当然だ。
21-1-27
風呂のタオル掛けに肘をぶつけた。どこかにぶつける機会が増えた気がする。注意力と距離感が鈍くなってしまったのだろう。それは仕方ないにしても、もっと深刻なのはいつどこで付けたかわからない切り傷やすり傷を見つけたとき。痛みの感覚さえ衰えているわけだ。傷付けたそのときにわからないと処置さえできなくなる。これは怖いので、ぶつけないよう気を付けたい。
21-1-28
度々あるスーパーでのインスタントコーヒーの安売り。ありがたいけど、ふとどっちが正常なのかと疑問も湧く。安売りの値段に慣れると、そのときしか買わなくなり、普段の値段がとても高く思えてしまうのだ。つまり、通常価格では買わなくなった。安売り価格が通常になり、通常価格が異常に思えてしまうのだ。1個ずつ買っているのに家には常に2個の瓶が並んでいる。
21-1-29
コロナ禍でも札幌転入は増えているという。人口の一極集中は止まらないようだ。その分転出の地方があるわけで、このままでは集中はさらに進み、地方はより深刻な状況になってしまう。自分も54年前に希望を叶えるために浦河から札幌へ移り住んだわけで、目的や動機こそ違え転入する人の気持ちはわかる。しかし、国の存続のためにも地方を守る本気の政策が必要だ。
21-1-30
40年余り刑務所に入っていて出所できる見込みのない無期懲役の人が生に対する意欲を持っているのは命があればそれを持続させようとする動物的な自然な欲求なのだろう。つい最近テレビでこの様子を見て、何のために生きるかの根源的な答えは『命があるから』だと再認識した。極めて特殊な環境であっても迫害や虐待を受けずに衣食住が保証されるなら生を求める。
21-1-31