中丸美繪ブログ

「モーストリー・クラシック」で「鍵盤の血脈 井口基成」連載中。六年目。小澤征爾伝も脱稿間近。

小澤征爾さんー関係者取材

2016年11月01日 10時43分41秒 | 日記
いよいよ大詰めの取材です。

日本フィルの創立60周年パーティーで東条碩夫さんに会う。

彼はかつてFM東京にご勤務なさっていたようで、そのころから小澤さんのファンだったという。
それならば、それならば、ぜひぜひお聞かせいただきたい、と取材を申し込んだ。

東条がその場で披露してくれたのは、日本フィルの首席指揮者だった小澤さんが、江戸京子さんと離婚し、入江美樹さんと再婚することになったときらしい。
日本フィルの練習場はかつて新宿区の曙橋にあり、そこに週刊誌の記者が再婚問題で駆けつけてきていて、小澤さんから話を聞こうとしていたようである。

しかし、小澤さんは、それに応じるつもりもない。
それどころか、「あなたたち、こんなくだらないことして、大学出ているんでしょう?」とおっしゃったとか。

東条さん曰く「小澤さんもまだ若くて血気盛んで、そんなこといってたなあ」

それでも東条さんにとっては、小澤さんは「新しい世代の指揮者」で、小澤さんが日本フィルに登場するようになって、小澤を追いかけるようになったのだという。

サイトウ・キネン・フェスティバルも第一回からいってらっしゃるとのこと。わたしは第一回は見逃しているので、そんな話もぜひ聞きたいし、どうも裏話もたくさんありそうである。

小澤俊夫さんの講演会

2016年10月25日 09時53分04秒 | 日記
小澤俊夫さんは小澤征爾さんのお兄さんだ!

もう二年、いや、さ、三年ほどまえになってしまうのだろうか。わたしが俊夫先生に取材させていただいたのは。

そうそう、あれは小澤征爾さんが、サイトウ・キネン・フェスティバルで「子どもと魔法」を指揮して完全復帰をはかった年のこと。
天皇皇后両陛下も、10数年ぶりに松本にいらした。

小澤さんは、この短いオペラを指揮し、ー40分ぐらいかー後半は別の指揮者で、ファルスだった。
2013年で、まだ東日本大震災の傷も癒えてない・・・いや実際、いまも癒えてないが、ー両陛下は、そんなときにファルス、つまりコメディのようのものはご覧になれないというわけで、前半のオペラだけを見て退出なさったのだった。

その晩は、松本のホテルでパーティがあった。
そこで、俊夫先生がいらしたわけである。
わたしが名乗ると、「あなたが書いた斎藤先生の伝記読みましたよ」と。
わたしも俊夫先生の昔ばなしの再話が好きで、語り口がリズムがある・・・つまりそもそもは口承文学だから、覚えやすい、リズムにのりやすいものになっていくはずであって、ーーー俊夫先生とはいちどゆっくりお話ししかったわけです。
また征爾さんの成長するまでを語れるのは、さくらおかあさんが亡くなってしまったあとは、俊夫先生しかいない・・・・ということで、「小澤昔はなし研究所」へお邪魔して、二時間半ぐらいか、徹底的にお話をきくことができたわけだった。

日本女子大で講演があるというのを、今年の松本でのパーティで先生から伝えられた。

わたしは、愛蔵の浦島太郎ほか、小峰書店から発刊されたものをもって日本女子大へ。

浦島太郎でも、ほかの昔話でも、三回繰り返す・・・・というのがある。
これはグリム童話でもほかでもそうらしい。
世界的に伝承文学を研究している高名な学者は、これはギリシャの詩人がそもそも作り、それが世界中へ伝播していった、という説をとっているらしいが、俊夫先生は、これは口承文学として、伝えるとき、語るときに心地よいからという説で、わたしは俊夫先生に大いに同意した。

だって、音楽でもそうですもの。
同じメロディを三回繰り返す・・・けっこうあります。
だから斎藤秀雄は「三回目は違うように弾くように」と教えたくらいで、三回繰り返すというのは、人間の生理ではないかとおもった。
講演終了後、音楽でも三回繰り返しますよね、そうだよね、リズムなんだよね、という意見をやりとり・・・・。

俊夫先生は、柳田國男と面識もあり、それどころか、口承文学のあとをたくされた、、、という立場にあり、それを語るとき、演台でおもわず、涙ぐんでいらしたようだ。

征爾さんを語ったとき、お父さんを語ったとき、泪もろい、とおっしゃり、わたしは、「先生もですか?」「そうかもしれないね」というやりとりがあった。
先週も、おもわず、まだ20代だったときに大家柳田國男からいわれた言葉を、まざまざと思い出したようです。
感動的だった。

休憩を15分はさんだものの、二時間、立板に水のごとく、講演は進んでいった。
すごいね!
征爾さんが81歳なのだから。。。。

家には、絵本の「浦島太郎」もある。これはとても美しい絵本だ!!!




小澤征爾さん関係・・和波さん岩崎洸さんと、「女王井口秋子」

2016年10月19日 16時42分06秒 | 日記
和波さんからご招待いただいて、昨日は、東京文化会館へ。
ヴァイオリンの和波さんと、岩崎洸さん、ピアノの土屋さんのピアノ・トリオの演奏会でした。

和波さんはもともと能弁で、岩崎さんもそうなのですけれど、和波さんが主宰ということでか、岩崎さんは控えめにしてらしたですね。
岩崎さんは、斎藤秀雄門下のチェロの俊秀で、子供のときから斎藤秀雄と議論をするようなタイプで、先生からも一目おかれた生徒だったようです。
そのお姉さんというのが、岩崎淑さんで、おうちも家族全員が音楽家だったらしく、・・
わたしは10年ぶりくらいで、客席に岩崎淑さんを見つけました。

松本の小澤フェスの総括している元エプソンの武井さんと並んでらしたですね。
武井さんは、武井さんで、こんど11月に食事をすることになっています。というのも、小澤征爾伝のために取材をし、また武井さんとは、このフェスがはじまったときからもう20年も知り合いなのです。わざわざ諏訪から出てきて演奏会に・・・「和波さんは、おれの誕生日のときに諏訪にきて演奏してくれたのよ」といってました。和波さんはいきとどいたかた。

いまや、小澤フェスに最初からいるのは、岩崎さんが抜けてしまったので、和波さんと、あとお二人くらいでしょうか。

昨日、演奏会では珍しくトークがはいったのですが、和波さん曰く。
「コンサートで演奏家がおしゃべりするのが世界的傾向になってしまったらしく、今回もトークがあるのか、という問い合わせがあり、しゃべらないでさっさと演奏してくれというかたもいるとおもいますが、ちょっとだけ・・・・と」話しはじめました。
「まだ結婚している」と紹介されたピアノの土屋さんも、よく話されるかただというのがわかりました!
わたしは、おふたりに取材をもうしこみました。

また岩崎淑さんに、「モーストリー・クラシック」で井口基成伝を連載しているとお伝えすると、11月に、井口秋子先生門下の「秋玲会」があるとのこと!!!
すごいです!
さすが「女王井口秋子」です。
「モーストリー・クラシック」前号、前々号は、秋子先生の誕生からドイツ留学までのところを書きました。
お弟子さんがまだいらして、なんと毎年か一年おきだかに集まり、芸大のお弟子さんと桐朋のお弟子が交互に幹事をつとめているそうです。

開催場所はゆかり成城学園前。
あそこに、井口家はあったのですよね。

さすが女王だ!!!!




小澤征爾さんと、日本フィルー今年、創立60周年になった!

2016年10月08日 11時31分32秒 | 日記
9月27日、ピエタリ・イン記念首席指揮者就任披露演奏会があった。
今年、日本フィルは創立60周年を迎えるということで、その演奏会に先立って関係者を招いた祝賀パーティーもあった。

理事長の平井さんがちょっとさわりを述べてらしたが、「日本フィルの経営的に辛く苦しい歴史」は、わたしが現在執筆中の小澤征爾さんも大いに関係している。

文化放送がそもそも創立した日本フィルだった。当初は渡邊暁雄が常任指揮者である。
ところが、東京オリンピック後の不況で、文化放送・フジテレビの経営が悪化。
そのあたりで、それまで客演していた小澤さんが登場してくるのですね。

渡邊暁雄を退かせて、小澤さんを首席指揮者にして立て直しをはかろうとするのだ。
ところが、当時、サンフランシスコ響の音楽監督をしていた小澤さんとの契約は、年に2、3回帰国という契約。
小澤さんの人気は高かったが、定期会員数は減少してしまった。

そこから日本フィルの苦しい歴史が!
そもそも「財界4天王」といわれた水野成夫・・・・彼が文化放送の社長になって日本フィルをつくった。ところが、経済が苦しくなったとき、まっさきに切り捨てられそうになる・・・
いろいろな手段で企業は、日本フィルに迫ってくる。

当時、日本フィルはN響と並び称されたオーケストラで、定期演奏会のプログラムもきわめて充実していた。
これは渡邊と事務局、文化放送の日本フィル担当者の意思が、藝術性、アカデミックなものをめざしていたためで、特筆すべきなのは、日本人作曲家への委嘱である。
数ヶ月、彼らを食べさせるために支払いをおこなって、作曲に没頭させた。ここから武満徹や黛俊朗や、池辺晋一郎などもデビューしていった。
これがなかったら、日本人作曲家はそうそう育たなかっただろう。

日本フィルの会員は多く、そのなかには独身時代の美智子さまも!
若杉弘さんもいた!

しかし、小澤さんが芸術院賞受賞の際に、昭和天皇に直訴するも、日本フィルは解散・・・・。

一ヶ月たたないうちに、小澤さんは新しく旗揚げされた新日本フィルの首席指揮者に移ってしまった・・・・。
一方、日本フィルのほうは・・・。

このあたりは、来年出版予定の小澤征爾伝を読んでくださいね。
ガッチリと書いて、数日前に150枚を編集者に渡しました。

この日本フィル60周年、パーティーには、創立指揮者渡邊暁雄さんの長男でピアニストの康雄さんもきてらした。
鳩山邦夫さんとは従兄弟関係で、去年彼のコンサートには、邦夫夫妻の姿もあった。
「小澤さんの本はいつできるの?」
わたしは康雄さんにもインタビューしている。
「来年です」
「小澤さんが元気なうちに出版しないとね」
「そうなんです。康雄さんの取材で、とくにオフレコというのはないですよね?全部、べつにかまわないですよね?」
 康雄さんは、小澤さんのボストン交響楽団デビューを聴いている。当時、ボストンのニューイングランド音楽院に留学していて、なんとその日は、そのシンフォニーホールのチケットもぎりをしていたというのだ。
父上から聞いた話あり、N響事件の話あり・・・なかなか康雄さんの話は充実していて、それこそ美智子妃殿下まで登場して、それに小澤さんがこういったなんていう話まであるので、いいのか・・・ということもあった。
「僕の話のなかに、オフレコ・・なんていうの、あったかなああ』
「そうですよね。では、遠慮無く書かせてもらいます」

ちょっと歩くと、音楽評論家の東条さんが!
「小澤さんは、日本フィル時代から知ってるよ、僕はそのころ東京FMに勤めていて、日本フィル録音していたりしたから」
とのこと。なんでも小澤さんの再婚のときには日本フィルの練習所まで週刊誌記者が押し寄せてきて、「そのころ小澤さんもそうとう生意気だったから」、詰め寄られて、「あなた、大学出ているんでしょ、こんなくだらないこと!」なんて、暴言もはいたという。まわりにいった日本フィル関係者が、なにもそこまで言わなくてもと、ヒヤヒヤしていたらしい。
東条さんとはランチをすることになっている。

インキネンのプログラムは、ワーグナーである。
わたしは、当然シベリウスだとおもっていたのだが・・・。

インキネンの肖像入りの一筆箋が、サントリーホール入り口で配られた。思わずわたしは「かっこいい・・・」とつぶやいてしまう。
演奏には、ほとほと感心。
オーケストラのメンバーも肝のすわり方がいつもと違った!
歌手は、インキネンのお友達のおふたりで、平井理事長によると「お友達価格で引き受けてもらった」とのこと。
とくにソプラノのリーゼ・リンドストロームがよい。
ベーレンスを思わせる髪型でもあり、ソプラノスピントがばんばんくる!
パンフをみると、「トゥーランドット」のタイトルロールも歌っている。なるほどそうよね。声にそれほど重さも特徴もないが、正確で危うくない。
わたしはまた彼女の声をききたいとおもった。
「ジークフリード「と「神々の黄昏」からの抜粋だったが、これがうまくつながれていた。これまでで一番、日本フィルの演奏会を堪能した晩となった。
スタンディング・オーベーションで、拍手が鳴り止まなかった。


やはりワーグナーというのはすごい!
これで日本フィルも一皮剥けた・・・これからも剥ける・・・。
作品が楽員を成長させ、オーケストラを成長させ、指揮者をも成長させるということはあると思う。

そういうば、小澤さんのワーグナー「リング」というのはなかったのは、残念だなあ・・・しかし、ピアノの本庄さんによると、「小澤さんには振れない・・・」とのことなのだが。
小澤さんにオペラを勧めたカラヤンは、オペラを振らなかったら、ヴェルディもワーグナーも知らないで終わってしまう・・・といっていた。。。

ワーグナー自身がライフワークときめ、26年間にわたって作曲しつづけた壮大な作品である。
わたしは「神々の黄昏」が好きだ!


朝比奈隆御大が癌だったことは、本人も奥様も知らなかったのに!某

2016年09月27日 13時03分42秒 | 日記
「モーストリー・モーツァルト」11月で、音楽プロデューサーの某氏が、朝比奈と小澤のことを書いている。

わたしはそのなかのある記述が気になって仕方がない。

それは、「彼が癌に冒されていることを知っていたわたしは」というくだりだ。

この部分を読んで、わたしはこのかたへの信頼が揺らいでしまった!

怪しい・・・・。こういうこと簡単にかけるものか!

どうして朝比奈が癌ということを本人の生前に知っているわけがあるのか。

それを知った経緯は書いてないが。。。
知っていた人は、息子の千足さん、もうひとりの息子で住友銀行へ勤務しているかた、奥さんたち・・・・・に限られているのである。

それは、わたしが朝比奈さんの評伝を書いている関係で、千足さんから聞いたことである。


朝比奈は93歳になった秋、名古屋公演を最後に舞台に立つことはなく、年末に逝った。
その数年前から癌だったが、「高齢のこともあり、父は意外と気が弱いところもあるので、本人には知らせなかった」と千足さん。

「オーケストラ、それは我なり 朝比奈隆 四つの試練」の最後のほうを読んでいただけばわかると思うが、この某音楽プロデューサーが知るはずもないのである。
わたしは朝比奈さんが亡くなってから初めて千足さんから聞いた。
彼いわく。「オーケストラ、それは我なり」から引用しよう。

<90歳を超えてからは、仕事ができる状態ではなかったのですが、周りがカバーして、維持の気力で父は仕事をつづけてきたんです。実は、父は長く癌をわずらっていました。
 本人には隠していたんですが、まず戦慄洗顔になってしました。手術しても体力がないから治らないし、手術をしたら父にもバレますし。放っておいたといえばそうなのですが、シカゴ交響楽団を指揮したときから前立腺癌の兆候はあった。90歳になる前に癌はみつかっていたのです。ほかにもいろいろ癌があったようですが、いちいち調べることはしなかった。
 東京での仕事が増え、先生、先生と言われて体調も上向きになりましたし、文化勲章をいただいて天皇陛下が演奏会にいらしたというのも父を元気づけました。父の直接の死因は食堂癌でしたが、これが見つかったのは最後のコンサートとなった名古屋公演の後でした。
 本人は健康だと思っていても寿命はあるわけですし、仕事ができる限り放っておこうと、弟と話し合ったのです。母には父の病気のことは内緒にしていました。父は母と二人だけで住んでいたので、母がもし知ったら黙っていることはできないだろうと感じて、そうしたのです。おふくろに知らせたのは、名古屋公演のときでした。
 そのとき町子(朝比奈隆の妻】は「知らなくてよかった」と千足に感謝の気持ちを表した。
 私が二十一世紀を迎えるにあたってという問いを発したとき、「わたしはまだまだ生きるつもりだから」と力強く応えた朝比奈がすでに病を抱える身だっったとは……。 
 わたしの脳裏には、晩年の一連のコンサートの様子がつぎつぎに浮かんでは消えていくのだった。>

 某プロデューサーって、いったい・・・。
 彼は、わたしの本をよんで、自分も知っていたと勘違いしてしまったのか・・・・もうご高齢だし・・・などと、想像してしまった。
 そういえば、音楽界では、評判が?。
 演奏家をある協会へ斡旋して・・手数料がなんとか。その話を聞いたときは、まさか、と信じていなかったけど・・・今回、それは本当かもしれない、と考えてしまった。
なにより、彼のこれまで書いてきたことが???になってしまったわたし。

「オーケストラ、それは我なり 朝比奈隆 四つの試練」の解説も、音楽関係者の物書きでは最長老ということでかいてもらっていた。もっとも最初はなんといっても、朝比奈応援隊の一番手である評論家の宇野功芳さんに描いて欲しかったのだが、「高齢で、解説書くには本を全部読まないといけないでしょう・・・いまの自分には期限をきられて読む体力がない」とおっしゃったということで、このかたになったのだったが。

文庫が出版されたら、このかたとごいっしょにお食事でも、といっていた編集者も、彼とのお食事は??とのわたしの質問に、無言だったよね。
完全に引いていたよね・・・。

暑い夏・・・頭もぼうっと、勘違い・・・ってわけでしょうか。
出典を明らかにしてほしいですよね。。。こういう大切なことって。。。。
いったい、どこのどなたからいつごろ、聞いたのでしょうか!






小澤征爾さんが指揮する今年の姿・・・そのあとの想定外の展開

2016年09月21日 11時05分32秒 | 日記
 締め切りがはいったりして中断しておりました。

 今年の松本の小澤フェス・・・小澤さんが指揮をした日のことについて書きましょう。

 当日の演目はまたまたブラームスからベーt−ヴェンに変更となった。
 それも発表は8月になってからだったから、知らないファンも多かったのではないだろうか。

 このフェスの推進者で、小澤さんとは数十年来のつきあいとなる武井さんによると、小澤さんは、プログラム変更を三月ぐらいから言い出していたらしい。
武井さんは反対したが、小澤さんのなかで、体力への自信が回復しなかったからだろう。

 新日本フィル、ベルリンフィルと振り、そのあとパリで10日ばかり風邪をひいて寝込んでしまったという。
今年はスイス国際アカデミーがタングルウッドで開かれることになったが、それも欠席。
チェロの原田さんたちだけで、例年ような内容で開かれたという。
おそらく小澤さんにしたら、スイスよりタングルウッドのほうが、体質的にも気分的にもあっているからだろう、と思われた。
あるいは、毎年、勉強会のあとにおこなわれるコンサートの企画が、タングルウッド音楽祭のなかでおこなわれたほうが、シンプルだということかもしれない。

さて、当日、ルイージ指揮のオネゲルの第3交響曲「典礼風」・・・この音量にまず度肝を抜かれた。
大音量というのは、なかなかオーケストラから引き出すことはできないのだが、これはサイトウキネンならでは、といったところだろうか。
わたしは、この演奏を堪能した。

つぎがいよいよ小澤だった。
もう登場したときから、拍手である。
これは朝比奈の晩年を思わせた。
小澤さんは、また痩せたようだ。
なんとなく、大丈夫か・・という気持ちに支配される。
そんなこと考えながら聞いているので、音楽より小澤さんの体調がきになってしかたがなくなってくる。
指揮台に座った状態で指揮し、一楽章を終わったところで、降りて、ヴィオラの店村さんと川本さんの前あたりにおいた、また別の椅子に座る。いつもは一本のペットボトルからなのだが、川本さんが店村さんにもう一本別のものをわたし、それも小澤さんは飲む。

その休憩?が異常に長い。
え!?大丈夫なんだろうか。最後まで振れるのだろうか。
なぜそんなに無理して振る必要があるのだろうか。
指揮者の性なのだろうか。
そういえば、朝比奈は「指揮者は立っているのが仕事です」といっていて、最後の最後・・・まで座らなかった。
最後となった演奏会でも、意識が朦朧として演奏者のほうにカラダがゆらりと揺れながらも建ち続けた。
コンサートマスターは終わったときに、「先生、もういいんです。終わったんです」と思わず口にした。
その2ヶ月後、朝比奈は逝ってしまったのだ。

小澤の姿は、わたしにそんなことを思い出させた。
小澤さんはこれで、最後かもしれない。
22日の演奏会は振れないかもしれない。
2楽章のあとが、さらに長い・・・。

しかし、3、4は休むことなく、そのまま振った。
しかしなあ・・・・わたしは全然曲を堪能する気分になれなかった。

アンコールでは、着替えてしまったルイージまでひっぱりだして・・・というより、ルイージの腕にもたれかかって、小澤さんはやっと出てきた。
しかし、なんと楽員用の椅子に座り込んでしまったのである。
ひょっとすると、来年は振れないかもしれない。
もう最後だ・・・。
そう思ったのである。
みな感激して、拍手がやまない。
スタンディング・オーベーションである。

わたしは悲しくなった。
小澤さん、そこまで頑張らなくても・・・と。

こうして演奏会は終わり、こんどはパーティー会場へ。
結局小澤さんは現れないまま、ルイージなどの挨拶・・・「どういうわけか理由はわかりませんが、三度このフェスに呼ばれています」
彼が最初である、そんなに呼ばれた人は・・・。
小澤さんがよほど気に入ったのだろう。

奥さんのヴェラさんも、小澤さんが最後まで振れたので、ほっとしたのだという。
お兄さんの小澤敏雄先生もパーティにいた。
「征爾が最後まで振れて本当によかった」
ご身内の方々は、きょう、最後まで振れないのではないか、と相当危惧していたということだ。

以前、取材した小澤さんのスキーの先生である杉山夫妻もいた。
そこで、なんと小澤さんが今年の三月にスキーをした、という話を聞く。
去年2月に滑ったのは、知ってました。
でも、今年!
今年も春先までは、そんなに元気でいらしたんだ!
そのまま新日本フィル、ベルリンに突入・・・。

わたしは、ひょっとすると小澤さんがフェスを振る最後に立ち会うことができた・・・などとおもって、翌日、武井さんとお茶して、松本を去ったのであるが・・・まさか!という耳を疑う話をきくことになるのである。

知人が聞いた22日の演奏会も、ほぼわたしが聞いた日とおなじような小澤さんの指揮ぶりだったようである。内容は手馴れた曲でもあるし、もちろん素晴らしく、でもやはり小澤さんの体調が気になったというメールがきた。

オペラの「子供と魔法」の指揮もほかの指揮者にかわってしまっていた。
ところが、24日、小澤さんは青山のスポーツクラブのプールに現れたのだった。
そのオーナーから聞いた話である。

それでわたしは胸をなでおろした。
小澤さんも、自分でコントロールしているのですねえ・・・と。
そういえば、以前小澤事務所で広報をしていた武満徹の娘さんがいたが、彼女によると、指揮キャンセルなどは、子供の登校拒否みたいなものなんだそうである。

小澤さんも、シンフォニー終わって、やっとほっとしたということでしょうか。

ともかく、また小澤さんが指揮する姿は見られそうです。






小澤征爾フェスティバル

2016年08月31日 20時08分49秒 | 日記
松本の小澤さんのフェスティバル。
夜7時開演のその日の午前中は、小澤さんが松本で宿泊するときに、大家さん?だったという大久保さんに会う。

大学の先輩との話から、わたしが小澤さんの評伝をかいているというと、「ぼくの高校時代の友人が、小澤さんに家をかしてるって、いってた」というところから紹介してもらった。

松本では大きな会社をいとなんでいるようである。
ホテルのロビーで待ち合わせて、そのままお昼がビュッフェになるところでお話しをきいた。

だいぶ長いあいだ小澤さんは、ほぼ一人で夏を過ごしていたようです。
手術をしてからは、大久保氏の会社が介護施設もやっていて栄養士や調理師がいるので、小澤の食事の管理までやっていたそう。

そもそも、大家さんではなくて、ホームステイとのこと。
かつて彼の父上のために新築した家が、ほとんど住まないうちに御他界。そこが空いていたそうで、ボランティア会長の「あおちゃんから家あいてたら貸してくれ。みんな収入のない人でもボランティアやっているんだから、そのくらいいいだろう」といわれたそうである。
つまり、家賃はなし、ということである。

最初は、外人の歌手が家族をつれてくるので、ホテルではないところに住みたいといったことから始まったらしい。奥さんは英語の勉強をふたたび始めた時期で、外人だったら提供してもいい、会話する機会もあるんじゃないか、というような条件を出したとか。

ところが、その家族が来なくなり、そのあとで、「オザワという人が住みたいといっていて、英語はほぼ完璧に話すんだが」というような提案があり、「どの楽器の人?」なんて、やりとりがあり、総監督というのがわかった次第。


オザワさんは、ともかくほっておいてくれ・・・という状態だったらしい。
家族が泊まることはなく、ボランティアのおばちゃんがきて、おかずをつくってチンをして食べられるようにするとか、自分で近くのスーパーによってきて、ご飯をたいて食べるとか・・・・。

敷地は1500坪とのことで・・・・つまりタングルウッドの自分の家のような雰囲気のなかで、オザワさんは譜面を読むなどs

セイジオザワ松本フェスティバル 初日

2016年08月22日 17時28分33秒 | 日記
8月17日、松本へ向かった。
以前から連絡をとっていたサイトウキネンフェスティバル時代に、一大ボランティア組織をつくりあげた青山さんと待ち合わせ。
高速バスが西塩尻インターあたりにきたら電話してくれ、といわれていたが、西塩尻がわからず・・・・・焦る。

さらに、バスで携帯電話お断り・・・の表示が!

青山さんとの待ち合わせがうまくいかないのでは、とそわそわ。。。
しかし、着いたとき電話して、ホテルにすぐにきてくれました。
すぐ。。。ほんとうにすぐで、荷物もとかぬまま、外出・・。

そもそもボランティアが、サイトウ・キネン・フェスを支えてきました!

青山さんは青年会議所会長をしていたころ、松本にできた市民ホールであるハーモニー・ホールにもかかわった方である。
どうやって、サイトウ・フェスでボランティアが組織され、どのように活動をつづけてきたのか、それはハーモニー・ホール時代にさかのぼっていた。

そもそもボランティアといえば、なんとなく介護などをイメージするが、音楽祭にボランティアという組織を持ち込んだのは、松本が日本ではじめてである。
松本って、日本で初めてが多いです。

鈴木メソードの鈴木鎮一さんが才能教育・・・いわゆる音楽教育とはいわず、情操教育として音楽教室をはじめたのも、そう。
松本民芸家具は、もちろん松本が発祥地。

青山さんとの会話は楽しく、喫茶店だけでは済まず、その後夕食も。
名産の馬肉(競馬好きとしてはちょっと心が痛みながら、肉の美味しさを競馬より先にしっていたわたし)、蜂の子、イナゴの佃煮(これらは初めて食した!)
自分で注文することはないと思うが、青山さんが注文し、えい!とおもって食べたら、美味しかった!

小澤さんも青山さんには全幅の信頼をおいていたよう。しかし、青山さんは3年前ぐらいに辞めてしまった。
なんでも市とごたごたしたとか。
そのとき小澤さんは、「僕にまかせて!そういうの僕得意だ」といったというのだが・・・。

小澤さんは、今年6月頃電話してきて、
「青山さん、またやってよ」といっていたらしいが、青山さんの復活は今年はなかったようです。

この晩は、夜の10時半ぐらいまで青山さんと・・・。
オリンピックをみて、午前一時ごろ就寝。

小澤フェスいよいよ開幕

2016年08月15日 18時29分26秒 | 日記
サイトウ・キネン・フェスティバル時代、長く公式ライターをつとめたのは、金井奈津子さんだ。
松本市と財団は、毎年の公演について公式記録というべき冊子を販売している。金井奈津子さんは、ヨーロッパの公演にもついていった。
わたしが斎藤秀雄の伝記をかき、小澤さんにも興味をもっているというので、事務局から金井奈津子さんやカメラマンの細萱博信さんを紹介された。
それはなんねんまえのことだっただろうか。

その後、金井さんのご紹介で軽井沢の元町長も取材させていただいた。
軽井沢では小澤さんが指揮セミナーをしたいという意向があって、軽井沢にホールを建設・・・予定で町長は動き、それが選挙の争点となったこともあった。
その町長は、金井さんの叔父さんでもある。

その金井さんが、今回、「幸せのための憲法レッスン」なる書物を上梓した。もともとは松本の美味しい店を紹介する本を書いたり、東京育ちの彼女は、楽しい・・・ことのみ。。。。とご自分でも「ノンポリみーはー」的なライターだったのだという。
ところが、ある日、偶然、信濃毎日新聞社主筆の中馬清福さんのコラムに吸い寄せられた。
彼女が憲法に興味を持った日だった。
彼女は中馬さんに憲法レッスンを請う。
取材の申し込みだ。
その申し出を、中馬さんは受けた!

そうして始まった「憲法をお茶の間に、中馬清福さんに聞く」はタウン誌に5年半もつづく連載だった。
まったくポリティカルでなかった金井さんが、憲法をまもることが、自分や家族の幸せをまもる術だときづいていく過程だったという。

なんか不安な世界情勢。日本をめぐる周辺国の動きも怪しい昨今。

そんな時宜を得て、彼女はこのたび「幸せのための憲法レッスン」を上梓したのだ。

彼女から10冊ほどもとめ、わたしは小澤征爾さんのお兄さんの俊夫さんに送った。
俊夫先生は、大江健三郎らと、「9条をまもる会」を牽引している。

わたしは征爾さんの伝記を書くにあたって、俊夫先生もお訪ねしたが、そのときはのっけから安倍内閣がつづくのは良くない・・という話だった。
一方で、父上は、満州にて日本陸軍のために働いた!
そもそも征爾というお名前でもわかるだろう。
満州事変をおこした板垣征四郎と、石原莞爾からとったものなのだから。

しかし、子供たちは違う思想に生きている!
「もっとも征爾が政治的な動きをするのは難しいだろうね。スポンサーがあるから」という俊夫先生の言葉。

対中国発言などは、小澤さんは朝日新聞紙上では行っている。でもそのニュアンスは、中国が母国、いや、生まれた国というニュアンスでの発言だった。

まあ、そのときどきの感性で動いているのだろうね。
日本フィル事件などのときには、ストライキをした楽員たちから離れたこともあったし。
でもこのストライキも、そもそも小澤さんは勧めるような発言もあったのです。それは拙著で明らかにしますね。

金井さんは、会えば以前通り金井さんながら、憲法を知ることによって、世界観がかたまったようです。

今後、中国、北朝鮮など、わたしたちは日本の将来をどうすべきか、考えなくてはいけない事態がきそうです。

フランス人は戦わずして、パリ陥落となった。。。」

でもわたしは、そのやり方は、国民を大切にしたやり方だったのではないか、などと、弱腰ながら思ってしまうのです。
最後は、パルチザンでナチスに対抗・・・それまで機をうかがってひそんでいた・・・そんなフランス人らしい小賢しさというか、そんな感性を日本人ももつべきではないかと。
特攻など、日本人は潔すぎる。
そういえば、オリンピックでも、サッカーワールドカップでも、日本人は審判の言葉にけっこう素直。

そういう国って、戦争にむかない・・・とわたしは思う。
9条があったために、なんとかここまで日本はやってこられたのではないか・・・。
そんなふうなことを考える2016年の夏です。











モーストリークラシック「鍵盤の血脈」井口秋子、朝比奈隆→小澤フェス松本

2016年08月08日 20時33分31秒 | 日記
本日、天皇陛下のお言葉がありましたが、井口基成はかつては「ピアノ界の天皇」と言われた人物。
今月は、井口基成の妻、「音楽界の女王」といわれた井口秋子について書き、さきほど校了となりました。
今月20日発売となるでしょう。


秋子先生の妹さんが、朝比奈隆御大と、小学校の同級生だったという話も盛り込みました。
御大は、けっこう筆まめだったのね。
わたしは、そのハガキを秋子先生の妹さん、後藤竹さんから見せていただきました!

秋子先生は学生時代から優秀だった・・・
なにしろ東京音楽学校の卒業式では総代で、それが基成が秋子さんを知った最初だというのですから・・・・。
秋子さんが音楽にかける執念は、家族の悲願でもあった・・・・そんなものを感じます。

「モーストリー・クラシック」をぜひお読みください。


さて、今年も、松本に行きます。
サイトウ・キネン・フェスティバルあらため、セイジ・オザワ・フェスティバル松本に。
総合コーディネーターで、小澤さん側近の武井勇二さんからチケットが送られてきました。

小澤さんも、ベルリンを振った後に体調くずし、5月には新日本フィルの特別演奏会に登場したものの、予定していた「子供と魔法」の指揮はやめることにしたもよう。
オペラ自体は短いのに、それをキャンセル・・・とは。。。練習がきつくなったのでしょうか。
もっとも、80歳いやこの9月には81歳。
小澤さんは、いつになっても青年っぽい雰囲気なので、そういうお歳にはとてもおもえないのですけれど、それが現実・・・。

シンフォニーだけを振るようです。