中丸美繪ブログ

「モーストリー・クラシック」で「鍵盤の血脈 井口基成」連載中。六年目。小澤征爾伝も脱稿間近。

祝!!!小澤さん、ベルリン・フィルを振るー村上春樹さんレポート

2016年05月25日 10時20分03秒 | 日記
小澤征爾さんがベルリン・フィルを振りました!
村上春樹さんが、その様子を文藝春秋に詳しくレポート!

わたしは小澤さんの伝記をかいていることもあり、喉から手が出るほど、ベルリンに行きたかったけれど、三月からひいている風邪が喘息ぎみで、行けず・・・。
でもおかげで、詳しくわかりました。

そういえば、小澤さんのお兄さんの俊夫さんに取材したとき、「征爾がもういちどベルリンかウィーン・フィルを振るのを見たい」といってらしたけれど、これが、とうとう実現したわけです。
その直前、小澤さんは、三月末、水戸室内をサントリーで振っていて、わたしは、まだ日本にいて、大丈夫なんですか、小澤さん!!!早く、ベルリンにいって、時差やら気候に体調合わせたほうがいいんじゃないですか、とおもったのですが。
予想どおり、本番前かなり体調わるかったようで、リハーサルはたいへんだったらしい。

そのあたり、
欧州には現地在住の情報提供者もいて、現地のことは詳しくわかりました!
     *
最近は便利な世の中になりました。
な、なんと、ベルリン・フィルのホームページからはいると、現地でのコンサートを聴く、見ることができるのです。
今回は、小澤さんの二日目のものがアップされていて、第1日目を詳細につたえてくれた村上さんの報告とやや違いますが、素晴らしいコンサートが聴けました。

そもそもこのコンサートは、村上さんは、友情?からか、明らかにしておりませんが、ズービン・メータの80歳の誕生日を記念して計画されていたものを、メータが予定を変更してきたため、小澤にアプローチしてきたというもの。

わたしの期待は、ベルリンなら、小澤さんもフルに振る!!というものでした。
というのは、過日、オペラ録音部門?(パフォーマンスでなく、録音賞とはどういうもの?)のグラミー賞を受賞した「子どもと魔法」が、サイトウ・キネン・フェスティバルで上演された2013年のときも、「小澤、完全復帰」といわれながら、この作品は1時間もないので、後半は「スペインの夜」というこれまた短い作品を、指揮者も交代して上演しました。

その後、小澤さんは、サイトウ・キネンで振るときは、前座の指揮者?をおくようになったり、新日本フィルでおこなわれた特別コンサートでも、やはりそうでした。
それまで何度かキャンセルがあったり、そういうことで、主催者側も小澤さんに振ってもらいたい、しかし、体力もまだないし、突然のキャンセルも困るということで、万が一のときには、もう一人の指揮者に振ってもらう、という安全策をとったわけです。なかなか考えます!
元気な小澤さんをともかくもファンに見せる、聴かせるための最良の手段だったというわけです。

そんなコンサートやら、オペラがずっと続いていました。
昨年から、サイトウ・キネン・フェスティバルは、恩師の名前でなく、セイジ・オザワ・松本フェスティバルとなりました。
この記念すべき第一回に、小澤さんはベルリオーズのオペラを振ることになり、今度こそが復帰と期待はふくらみました。

だ、だが、なんんと、6月末ごろのスイスの室内楽アカデミーあたりに風邪をひき、それがなかなかなおらず、奥志賀のセミナーに突入。
奥志賀のセミナーは、現地と東京オペラシティで、コンサートが開かれるのが慣例ですが、このコンサートの指揮もキャンセル。それで病院で検査しましょう、となったらしく、入院したのが7月末。
それは単なる風邪の症状だったようでしたが、そのとき風呂場で転んで、軽い骨折をしたというのです。

それで、オペラの指揮は別の代役で・・・・となった。
さらに、9月は・・・・バースデー・コンサートは、というと、ここではアルゲリッチの腕を支えに登場。
・・・・このあたりは、モーストリー・クラシック一月号を読んでください。
このベートーヴェンの「合唱幻想曲」は素晴らしかった。
なんでも、アルゲリッチはこの曲を演奏するのは、初めてで楽譜を見ていたが、さすがでした。
彼女は広島で秋山和慶指揮の広島交響楽団に招かれたあと、松本にむかったのでしたが・・・このときの彼女の話は、単行本になったときに書きますね。(中公より出版)
結局、昨年も、小澤さんがひとつのコンサート丸ごと振ることはできなかったわけです。

しかし、ベルリンでは、そんなこともなかろう、とわたしは想像していました。

実際には、
前半は、指揮者なし・・・モーツァルト「グラン・パルティータ」K361
 12人の管楽器奏者とコントラバスによる演奏です。これが村上さんは、「アンサンブルはあまりに緻密すぎて、ところどころで息苦しく感じられる。情より知が勝っている部分が多いからかもしれない。音楽としてはたしかに立派なのだけれど、その響きはモーツッァルトの魂のあり方から少し外れているのではないか」との感想でした。
ところがわたしには、この演奏がきわめてロマンチックに聴こえて、大感激してしまいました。テンポもかなり遅く、ドイツ人のもっているロマンチックな感性が全開。
この演奏で、わたしは、ベルリン・フィルのデジタルコンサートの常連になりたい、と思ったほどなのです。

休憩のあと、小澤さんの「エグモント」
これまた素晴らしい演奏で、10分あまりの指揮で、小澤さんは完全燃焼したといえるでしょう。聴衆のほうも。
もっとも、村上さん報告の第1日目=現地新聞には、観客の半分近くが日本人=と違って、登場したときから「これほど熱く歓迎される演奏家はまずほかにいないだろう」というほど、ではなかった。二日目は日本人が少なかった???
朝比奈隆が晩年に登場したときの風景をわたしは想像していたが、そういうものではなかったです。
意外とあっさり小澤さんは登壇し、演奏が始まりました。
しかし、これはすばらしかった。これまでの小澤さんのエグモントのなかでも!
小澤さんは「エグモント」がとっても好きで、山本直純さんの追悼記念コンサートでも指揮したい、といったらしい。
井上道義さんから、聞いた話だ。しかし、直純さんとエグモントは合わない・というので、なんとかご遠慮願ったということだったらしいが、結局、小澤さんは、本番はパスしたらしい。

そして、ベルリンでのメインは、「合唱幻想曲」だった。昨年の小澤フェスと同じ曲です。しかし、
アルゲリッチでなく、小澤さんのお友達のピーター・ゼルキンだったが、どうも、指が・・・・なにか、病気だろうか。
村上さんご報告第一日目はさんざんだったようだが、二日目も、ぎごちなさがある。

と、そういうわけで、小澤さんのベルリンも、またコンサートをまるごと振らなかったけれど、大感激のうちに、大いに会場をわかせ、歓迎されて終わったという次第である。
しかし、つぎのベルリンは???

うーん、それはちょっと難しいのではないかな・・・。やはり丸ごと振らないと・・・・。それともベルリンは前半、指揮者なし・・・でまた小澤さんを登場させてくれるでしょうか。

お孫さんができてから(娘さんが結婚)小澤さんは、急に元気になったといわれています。
今年のサイトウ・キネンは、あ、いや、小澤キネン。。といってもいいとおもいますが、松本は、どのようになるでしょうか?
とっても楽しみな夏です!


朝日新聞吉田さんの記事に追加 ニーベルングの指環

2016年03月01日 11時41分25秒 | 日記
朝比奈さんのニーベルングの指環は、日本で初めて、ワーグナーが指定した楽器編成で行われたものです。
この新日本フィルの演奏に感心した芸術院会員がいて、朝比奈さんは文化勲章に推されました。

朝日新聞 吉田純子さん 朝比奈から吉田へ

2016年03月01日 11時20分25秒 | 日記
朝日新聞の朝比奈さん連載も、終わったのです。これだけ13回も数えたことはよろこばしい。
吉田さんから、「中丸さんの朝比奈さんの評伝よみましたよ」といわれていて、お役にたてたということだろうとおもう。
そういえば、朝日の最終回は朝比奈さん、(わたしが取材させてもらっている当時は、編集者とは、御大とよんでました)御大が靴紐を結んでいるところ。

キャプションは「演奏が終わり普段着に。靴紐といっしょに心の緊張もほどけてゆく」
となっていました。
けど、御大は、東京で宿泊するのは、ホテル・オークラで晩年は、そのタキシード姿のまま楽屋口からハイヤーにのって、そのままホテルに帰っていました。
普段着になるのは、オークラでシャワーを浴びて、それからでした。

楽屋口には、御大のファンクラブである朝比奈会のかたがたが詰めていました。
この会は、非常にアーティストのことを真摯に考える会で、御大が若いときには懇親会もあったらしいが、長寿の御大に負担をかけまいと、晩年はそれをやめました。
そのかわりに・・・・・というか、かわりにならないけど、楽屋口外につらなり、拍手をして一瞬御大が姿をあらわして、手をあげて挨拶し、ハイヤーにのりこみ、車が発進し、その姿を見送る・・というそれだけの儀式に甘んじていたのでした。すごいなあ・・・朝比奈ファンは、と当時取材をしつづけていたわたしは感心したのでした。
いろいろな資料も提供していただきました。

さて、靴紐のことです。

靴紐について、わたしの本「オーケストラ、それは我なりー朝比奈隆 四つの試練」では書きました。
というのは、あるとき、楽屋にいたわたしは、御大の声をききました。
「自分でやらなくちゃだめだ」
それで、どういうことか、とあとで御大マネージャーの磯村さんにきくと、御大の靴の紐が一本、いつもより少し長めにむすばれていたために、それを踏んで転ぶといけないとおもった磯貝がなおそうと手をのばしたとき、朝比奈さんが発した一言だったというわけでした。
磯貝さんいわく「演奏前のピアニストが椅子の高さを最後にもういちどチェックするのと同じようなことなのです」
ふんふん、御大はそれほど靴紐のことを。。。

一方で、わたしは朝比奈の高校時代の友人から面白い靴紐の話をきいていました。
朝比奈さんは高等学校時代、サッカーの選手だったのはみなさん、ご存知のとおり。
その試合の前には、かならず靴紐を結び直す習慣があったというのです。

面白いですね。
サッカー選手から指揮者への変遷。でもその靴紐の儀式だけは、ずっと同じだったというわけです。

朝日新聞では、吉田さんが今度は吉田秀和さんについてとなりました。
朝比奈さんは、東京の批評家からは「関西の田舎侍」と言われていたのですが、それは吉田秀和さんが書いたものです。

さあ、どういう展開になるでしょうか。楽しみですね。
吉田秀和さんは、かつては美容師をしている妻がいました。しかし、離婚して、有名なドイツ人妻と・・・・。
お子さんは、その美容師さんとの間の方です。




朝日新聞連載 朝比奈隆!

2016年02月16日 10時31分23秒 | 日記
朝日新聞の夕刊文化欄で、吉田純子さんがずっとずーーーツと、朝比奈隆を連載している。
これまで、山本直純さんや岩城宏之さんもとりあげられてきたけれど、朝比奈だけが、ながーーーーーーーーーい!

とても嬉しい!
だって、わたしは、大阪フィルの人々が親しみと、尊敬と、ちょっと大阪的な皮肉をまじえて呼ぶ『オッサン』を敬愛しているからです。
だって、わたしは、朝比奈さんに会って、わたしにとっては、御大にあって、東京公演のたびに宿泊先のホテルオークラでお話しをきいて、朝比奈隆伝をかいたからです。

きのうは、朝比奈さんの「お蝶夫人」について吉田さんが書いていたけれど、それは演出家のほうに関心がいっていたようでしたね。

なぜ朝比奈さんがオペラを取り上げたのか。
小澤さんですら、オペラというものは、学生時代に勉強しなかったのですよ。
小澤さんは、「斎藤先生はオペラは教えてくれなかった」なんて、いっていた。

朝比奈は斎藤秀雄と同世代です。
その朝比奈さんがなぜ!????

それは戦時中に、御大が上海の交響楽団の指揮者になったから。
当時、上海は東洋一の文化都市。
イギリス人がいくところ、オペラハウスと競馬場を必ずつくる。
日本の中国進出によって、日本が上海のオーケストラを統括することになったのです。
そこで呼ばれたのが、朝比奈さん。
外務省は尾高尚忠を、海軍は山田和男(当時)を推薦してきた。しかし、交響楽団の責任者だった陸軍将校中川牧三が推薦したのが、朝比奈さんだったのです。
中川はイタリア留学を経験している声楽家。日本イタリア協会の会長でもあり、声楽コンクールも開催していましたね。ただの将校ではなく、情報将校、さらにロシア語もイタリア語も英語も・・・という知識人でもありました。
わたしも取材でおめにかかったけれど、上背のある、かっこいいおじさまでした。
朝比奈もかっこよかったけれど、あの時代の方々というのは、なんでかっこいいのかな。

というのは、ともかく、この知識人である中川さんの意見が通って、朝比奈が上海交響楽団の指揮者となったのです。
日本から連絡船と列車でやってきた朝比奈は、「乞食同然だった」と中川さん。
上海で最高のホテルに宿をとっていて、さっそく風呂をあびさてたけれど、朝比奈は西洋式の風呂の使い方も知らず、お湯が部屋にあふれてきて・・・。
「朝比奈くん、君、日本の風呂とは違うんだ。体は浴槽のなかで洗いたまえ」

しかし風呂から出てきた朝比奈について中川さんはこう語ってくれました。
「朝比奈くんは上海に到着した時とは違って、まるで天国から降りてきたような、りゅうとした紳士になっていました。楽員のまえにつれていくと、視線をそそぐ楽員たちの目の輝きがちがっていましたからね。これで成功したとおもった」と語ってくれました。

中川さんは自分の「撃ちはなった朝比奈という文化の玉」が的中したと、述べていました。

朝比奈が上海で得たものは、大きかったようです。
わたしには、

「あれがなかったら、今日の音楽家としてのわたしはないと思いますね。上海のオーケストラは当時、東洋一のレベルといわれてましたし、わたしは正規の音楽教育をうけたことはないでしょう。ですから、上海での経験はかけがいのないもので、あらゆる曲を指揮することができたし、いまのわたしのレパートリーはほとんどそこでみにつけたといってもいいんです」
と、謙虚なことをおっしゃていました。
ここでは、オペラも指揮し、朝比奈はシンフォニーとオペラはクラシックの両輪だと身を持って体験したのです。

ですから、帰国しても、当然のごとく、その時代の日本の指揮者の感覚とはちがって、当然のごとく、とりくんだ。
朝比奈は、「お蝶夫人」を振ると、いつも大泣きだったようですよ。」

それはどうして???

知りたいかたは、中央公論新社刊『オーケストラ、それは我なり、朝比奈隆 四つの試練」(中丸美繪著)を読んでください。

朝比奈さん!
ベートーヴェンやブルックナーを繰り返し、繰り返し、演奏したこと、今考えても、すばらしいです。
いまわたしは小澤さんを描いています。
あまりのちがいに、ほんとうに驚きます。

日本は短い西洋音楽の歴史のなかで、さまざまな指揮者を生み出したのだと、つくづく関心するこのごろ!!!




軽井沢スキーバス事故関連ー産経新聞の一面「産経抄」に日本航空一期生

2016年02月08日 13時13分06秒 | 日記

件名: 【産経新聞 1/22 朝刊】産経抄

2016/01/22 産経新聞 東京朝刊 1ページ 713文字
 「臆病者と言われる勇気をもて」。日本航空第2代社長、松尾静磨(しずま)の名言を実践したパイロットがいる。昭和41年3月、ハワイから羽田上空に来ていた日航機の機長は、悪天候に不安を感じて着陸をあきらめた。カナダの旅客機が空港で炎上したのは、その1時間後である


▼日航機はそのまま福岡に飛んだ。機長は翌日、自らの疲労を考慮して、他の機長に操縦を代わってもらい、客席に座って乗客とともに東京に帰ってきた。松尾が機長の対応を喜んだのは、言うまでもない(『日本航空一期生』中丸美繪(よしえ)著、白水社)


▼冒頭の名言を、ぜひとも思い出してほしいのが、バス業界である。長野県軽井沢町で、若者たちはなぜ、夢を断ち切られなければならなかったのか。スキーバスは転落事故を起こす直前、80キロを超えるスピードでS字カーブを走り抜けていた


▼バスの運行会社は、国の基準額を下回る運賃でツアーを受注していた。昨年末に採用した運転手は、「大型バスは苦手」と話していた。ずさんな安全管理の実態が次々に明らかになるなか、事故はその後も続く


▼東京都内の道路では、観光バスが中央分離帯に衝突し、運転手が逮捕された。「ぼーっとしていた」と供述している。兵庫県淡路市内を走行していた、70歳のツアーバスの運転手は、約10分間にわたり蛇行運転を行った。女性添乗員がハンドル操作を助けて停車しなければ、大事故につながっていたかもしれない


▼松尾は毎年元旦には、交通安全の川崎大師に参拝に行き、その足で羽田の整備工場の現場に向かっていた。評論家の大宅壮一はそんな松尾を、「祈りの気持ちをもつ人」と呼んだ。安さと便利さばかりが追求される昨今、「祈り」が忘れられている。

。。。。。。

井口基成伝 鍵盤の血脈 第二回・・・井口一族の消息、姉弟も、愛子先生のご子息も、ああ、いまは。

2016年01月27日 16時59分15秒 | 日記
毎年、年賀状がなかなか書けなくなりました。

怠惰というのもあるのですが、書いている仕事をしているので、オフのときはあまり書きたくない・・・というのもあって。

でも今年は、どうしても書かなくてはいけない状況となりました。
「モーストリー・クラシック」の連載、井口基成伝が始まったからです。

連載第一回の最後のところにも書きましたが、これはもうずうーーーーーーーーと長年温めてきたテーマでした。

井口家ご一同さまには、ほんとうにお世話になったのです。たださまざまな事情があって、出版にいたらないこととなり・・・・。

で、ほんとうに久方ぶりに、井口基成伝のためにファイルした名刺ブックを開きました。

唯一、女優の井口恭子さんとは毎年年賀状のやりとりがあって、数年前までは彼女の舞台などをときどき見にいったりしていたのでしたが、このところすっかりご無沙汰となっていたのでした。

連載第二回には、彼女のお父様、つまり井口基成の弟さんの証言も出てきます。
おばさまの証言も出てきます。
いとこのかたの証言も出てきます。

みなさま、お元気なのでしょうか?

基成先生のご長男は、かつて東京工業大学の教授をしてらして、インタビューは同大学の教授室でした。
その後、筑波大学にいらしたということですが、ご自宅のご住所を教えていただいてなかったのです。

「HANAKO物語」は二年前に出版された本で、80年代創刊時の編集長が書いたものですが、なんとこのなかに、基成先生の次男が登場していました。
体型がそっくりだったとのこと。
三軒茶屋にそれは、それは凝りに凝った酒をおいたバーを開いていたようです。

ほかにお嬢様がたもいらっしゃいます。

そういう、かつてインタビューさせていただいた方々に、お年賀状を出したのです。

その結果、そのまま返ってきてしまった年賀状もあって、わたしは、ど、どうしたらいいのか!、と思い悩んだ次第です。

基成は誕生したときには、家で「もとしげ」と呼ばれていた、そんな話もご姉弟から聞いたものでした。

東芝につとめていた基成の妹、愛子先生・・・中村紘子はじめ錚々たるピアニストを育てた・・・のご長男も、前立腺癌をわずらわれて、亡くなってしまいました。祈

遅すぎた・・・遅すぎたのです。


井口基成伝はじまるのです

2016年01月12日 11時01分31秒 | 日記
モーストリークラシックに、連載した「小澤征爾異聞」。
これが終わりました。
というか、本当は、同誌のエハラ編集長は、じつは、じつは、井口基成伝を書いてほしいといってきたのでした。
井口伝については、おおお、何年前になるのでしょうか?

数えるのも怖いほど、むかーーーーしから、取材をしていて、それが、まずは井口家の事情で、出版はちょっと先にしてくれ、とご親戚筋からいわれ、そのあと、今度は出版社の事情であとにまわされーーーー先に朝比奈伝でしょう。朝比奈さんがご存命なのだから、ということでーーーーといろいろな事情でのびてきたという経緯があります。

現在、わたしめは、小澤征爾伝を執筆中で、とても井口基成伝に頭がいかない・・・・!
と、申し上げると、むむむ、それじゃ、先に小澤さんいきますか・・・・・ということになり、連載がすぐに始まったという次第です。

この小澤征爾伝は、今年、中央公論より、タイトルを変えて出版予定です。

この小澤伝が終わるや、「では来月から井口伝、いいですね。おねがいします」
とエハラ編集長!
ええええ!!!
わたしの小さい仕事部屋。
そこには小澤サン関係の資料が散乱。
ここに井口先生資料をブレンド・・・・。もう、、、、ごった煮状態の仕事部屋です。

でも、なんとか始まりました。
第一回の書き出し。。。プロローグ。
単行本のときには、プロローグを最後に書くわたしは、七転八倒でしたよ。

そして、第二回。かつて使っていたワープロに書いた原稿など・・・も出てきまして、井口さんとの長ーい、おつきあいが思い起こされたのでした。

関係者のかたがた、お待たせしました。
井口家のご親戚ご一同も、ご協力いただきました。なかにはご逝去されたかたもいて、胸が痛みます。今後ともよろしくおねがいします。

小澤征爾異聞 最終回となりました。

2015年11月24日 13時02分30秒 | 日記
産経新聞発行の月刊誌「モーストリー・クラシック」で連載してきた、「小澤征爾異聞」が最終回となりました。

当初の予定を大幅にこえて、長い連載となりました。
わりあい読者の反応がよかったときいています。

編集部では毎月、アンケートをとってるようなのですが、一番面白い記事に選ばれてきたときいています。
もっとも、一番つまらないのに選ばれた回もあるようです。
それはそれで、書き手としては納得し、そういう過激な!?反応も喜ばしくおもっています。

おそらくあの回だと、いうことが想像できますので。
小澤さんの、これまで語られていなかった暗闇を書いた回が、そうだろう、と想像できるからです。

小澤さんは天皇、ぼくはいつまでたっても、首相どまり・・・といったのは、指揮者井上道義さんでした。
それほど小澤さんは神聖化されてまいりました。

わたしが朝比奈伝を書いたとき、ここまで書くのか、と、やはり、そのように感じた読者はいたはずです。
でも、わたしが朝比奈さんを大好きで、それなのに、さまざまなことを書いたということを、結局は朝比奈ファンも認めてくれたものです。
人間ですからね。人間くささがあるはずなのです。

そういうところが、ほんとうに愛おしい・・・とわたしは感じるのです。
それで、もっともっとその人物が好きになっていくのです。

人間はミステリー・・・それがわたしの執筆動機です。

小澤さんを探る旅は、来年までつづきました。

詳細は、来年発行予定の中央公論新社の単行本にご期待ください。

なお、来月からは、ピアニスト井口基成、妻秋子、妹愛子の評伝となります。


日本航空の聖火号 文藝春秋ー巻頭エッセイを書く

2015年11月09日 17時02分36秒 | 日記
今年「日本航空一期生」を出版したあと、いろいろな出会いがあった。取材中はもちろんだったが、出版後にはさらに多くの日本航空0Bのかたたちと出会い、また再会を果たすことができた。

4月、出版を記念してJAL一期生の会をしようと、提案してくれたのが鷹司信兼さんだった。
その後、その会に大勢参加してくださった、鶴丸会の会に呼んでいただいた。

鶴丸会の歴史は古いらしい。つまり一期生というようなパイロット、客室、整備の方々などが大勢会員になっているのだ。
其の席には、1964年の東京オリンピックの聖火号を操縦、客室サービスをした方々がいた。
その話を、11月10日発売の月刊文芸春秋の巻頭エッセイにわたしは書いている。

その後、さらに客乗0B会に招かれた。これは男性パーサー出身者だけでつくられた会です。
女性は、わたしと、志賀ごず江さん。志賀さんは、二年間スチューワーデスをして21歳でパーサーと職場結婚、専業主婦になるもその後、慶應の通信教育で四年間法学をまなび、なん、なん、なんと13年かけて1990年に司法試験に合格したというのだ。スチュワーデスの期はJALで「神話の一ケタ、化石の二ケタ、美貌の100期、知性の200期、体力の300期」といわれ、わたしが体力という最底辺にくらべて、志賀さんは、化石の方なのである。
すごい!一期生の小野悠子さん(本で第一番目に登場します)も、すごいタフなチャレンジを子育てのあとにしたかただが、JALの先輩がたというのは、ほんとうにど根性がある!!!感激しました!
また、そのほかにも、1980年代に飛んでいたわたしが面識のあるかたがたが、ずらり!
訓練所長だった成田さんも!
お隣でよくよくお話すれば、成田さんの義理の弟さんは、文学座のたかお鷹さんだというではないか!!!

司会の黒木さんもしゃべりもすごい!
さすがにあちこち講演をしまくっているかたである。
なに、癌になってしまったって!食道がん・・・それも話の明るいネタにしてしまってらっしゃるのは、もうもう尊敬にあたいします。

会長の入江さんも、ソフトな語り口ながら、確固たる芯を、当時から見せつけられてきました。栃木ご出身というのは、今回はじめてしったのですけれど。わたしも茨城、北関東のなまりはなかなかぬけませんです。
ご一緒にとんだ大先輩と、このように再会できたことが、ほんとうに嬉しくおもいました。
当時、編集者から勧められたときは、「あまりいい思いでないから。。。。」といって、ともかく最初はぐずぐずと筆が進まなかったわたしです・・・・。ありがとう、和気さん。




加藤武さん葬儀と、小沢征爾異聞

2015年10月06日 09時28分17秒 | 日記
モーストリー・クラシックに連載の「小沢征爾異聞」の原稿を送信。
今回は、小沢さんとウィーンフィルが主なところだ!

なぜ小沢さんは稀な演目をオペラでとりあげるのか?
ウィーンとはどんな歌劇場なのか?

そのあたりをまとめたつもりである。

原稿の合間を縫って、青山葬儀所でおこなわれた連載俳優の加藤武さんの葬儀にいく。文学座葬という連絡も白い封筒でもらった。加藤さんらしい、律儀なやりかたを彷彿とさせる。
杉村春子伝のときに取材させてもらって以来、おつきあいがあった。

荻窪に住んでいた頃、加藤さんと偶然にあうこともあった。
自転車にのって、駅周辺に買い物にくるのだ。
毎日?!・・・たしか、そういった!・・・・スポールクラブにかよっていて、若い女性や年取った女性たちといっしょにエアロビクスをしているのだといっていた。
今年の夏は暑かった。訃報をしったのは、そんな夏のさかり。
スポーツクラブのサウナで倒れたというのだ。
ばかな!!!!

あまりにも無念。
昨年は、「夏の盛りの蝉のように」で主演をつとめ、三越劇場にみにいった。こちらはひどい風邪をおしていったので、楽屋見舞いを受け付けにあずけてかえってきてしまった。
後日、礼状をいただいた。加藤さんは、いつも律儀な男性だった。
江戸っ子でもある。曲がったことがきらい。
北村和夫さんは、「竹を割ったような性格だから」といっていて、わたしがすぎむらさんの取材をしていて、加藤さんの名前をだすと、ちょっと大丈夫か、という心配をしてくれたのだ。カツ!!とやられるとおもったのだろう。
でも、加藤さんとの相性はよかった。
本出版後も、この本をサライの書評を担当しているというので、誌面で紹介しようといってくれた。

気象は江戸っ子、しかし、容姿は、どちらかというと洋風な武さん。
黒澤映画では大きな役が何回もついている。

そういえば、日経のかたたちがつくっていた文楽研究会に、わたしからお誘いしたこともあった。
そのあとの飲み会にも出席してくれて、住大夫師匠と、なんやかんや、と詳しい芸について、語り合っていた。
そのときの証拠写真は、わたしの宝物でもある。

杉村伝でお世話になった江守徹さんが、葬儀委員長だった。ちょっと口がおもく病の後遺症をおもわせたが、こころにぐっときた。演出家の西川信広さんは書いた弔辞を読んだが、そのエピソーどが面白かったが、なぜ読み間違えるか。緊張しているのでしょう。こういうところ、役者はちがいます。
文学座の葬儀は、杉村さんのときも、北村さんの弔辞が泣けてきた。役者がこころをこめてやるのだから、芝居以上のものが出てくるようだ。

わたしもいろいろなかたがたにおめにかかってきた。そういう始末、そういうおつきあいを、取材だけでなく、きちんとつづけていくのが、今後の夢なのです。
なぜかいつも仕事におわれております。
合掌