かなり久しぶりに昔の自分を見た
昔のVTRなんだけど
20年くらい前
いやあ、10年一昔なんていうけど、20年だもんなぁ 二昔か ごめんそのままだね(笑)
しかし、まんざらバカにはできないのが、この昔の映像、実はこれがあるから、今俺がここにいるんだよね
人生はわからない 何かのきっかけで人生は大きく変わる
俺は大阪で生まれて、21歳までずっと大阪に住んでいた
その頃はまさか自分が東京に行くなんて考えてもいない
俺は今年40になるから、つまり大阪と東京で人生の約半々に追いついた
20年経って、初めて気持ち穏やかに振り返ることができる
18歳で初めて大阪ローカルのテレビに出て以来、21歳までの約3年間、関西ローカル番組に出まくった
別に芸能人になりたいとかじゃなくて
一人ぽっちで淋しかったから
なんでもいい 有名になれば、皆が俺に声をかけてくれる
淋しくない
俺なりに、どうすればよいか考えて、当時“アジャ”というニックネームでキワモノキャラを作り出した
例えるなら、今のIKKOに近いかな(笑)顔もなんとなく似てるし(笑)あそこまでガチなオカマではないけど、同じようにメークを施し、メーキャッパーという肩書きで、オカマぽいキャラクターだった 我ながら、当時にしては中々良い着眼だったと思う 途中からは空手も取り入れて、戦うメーキャッパーとしてそれなりにウケた
中途半端な芸人より、天然キャラの素人作戦
思惑は一応当たったみたいで、テレビ局は面白がって度々俺をテレビに出した
当時、誰もが俺を本当に天然だったと信じただろう
今だからちょっとだけ得意げに言うけど、芸を極めたプロも凄いが、天然の“フリ”を貫くのも中々凄いことなんですよ だって、楽屋でも常に天然でいなければならないのだから(笑)
余程徹しないと中々できるもんじゃないと、今だから自負する
そんなわけで、関西地区限定ではあるが、一応一瞬だけ有名人になった
街を歩けば、皆俺に振り返る 声もかけてくれる
天涯孤独でも淋しくなかった
天然キャラを維持するのは番組によってはキツい時もあったけど、テレビ局からオファーが来る度、誰かに必要とされてる気がして、嬉しかった
一瞬だけ話題になって、深夜の格闘技番組で半年間レギュラーも頂いた
そこで知り合った、柴田という男に、「一緒に東京で漫才をしないか」と誘われた
しかし敢えて素人だから今はウケてるわけで、プロの芸人というスタンスで果たして需要はあるのだろうか・・?
一抹の不安はあったが、その男とは当時親友と言ってもいいくらい仲がよかったから、どちらかというとその男に惚れて上京を決めた
あとは、心底人から必要とされたことが嬉しかったのもあったかも
仕事もやめ 人脈も捨てた その時付き合ってた彼女とも別れた
21歳の冬だ 裸一貫 確かクリスマスにバイクで凍えながら来たのを覚えてる
しかし、現実は甘くはなく、約1年漫才コンビで活動してみたが、やはり東京では一切通用しなかった というかやはり俺は“素人”だったから良かったのだ
今になって思えば、関西の時のように、テレビのディレクターさんやプロデューサーさんがしょっちゅうオファーをくれていたことは、本当に幸せなことだったんだ 当時の俺はほんの少し騒がれただけで天狗になっていて、そんな人脈の大切さに気付いていなかった
約1年で俺は解散を申し出た
一番の理由は
通用しなかったのを人のせいにするわけじゃないけど
売れないなら売れないなりに、好きなことをしたかったから
柴田さんは、台本から演出からすべて自分が仕切りたがった 黙って俺を信じて付いて来いというわけだ 関西で活動していた俺流のやり方は封印して、1年黙って付いていったが結果は出ず そして、活動スタイルにも相違を感じ今後続けていくのは難しいと判断した
俺が、いいとこのお坊ちゃんならまだしも、東京でバイトしながら自活して夢を追いかけることは中々生半可ではない その大切な権利、どうせなら自分の思うままに活かしたい それで成功しないなら納得だ
一番よくないのは失敗して人のせいにすること それだけは避けたかった
失敗したっていい 問題は、自分の納得のいくようにやったかどうかだ
このままでは後悔する 俺は別れを切り出した
彼は、どちらかといえば、「俺が逃げた」と判断したに違いない
まぁ、どうせなら喧嘩別れなんかしたくはない 仮にも一緒に上京した仲だし
俺は、謙虚に別れの理由を告げた 「柴田さんは悪くない、すべて自分が悪いのだと」
彼は今でもそう思っているだろう それでいい
しかし、俺は俺で、相当な覚悟が必要であった
なんせ、上京した目的をリセットすることになるのだから
新たに東京での生き方を見いださねばならない
柴田さんはとっとと関西の実家に戻った
しかし、俺には戻る場所など無いのだ 実家など無いのだから
どうせ大阪に戻ったって自活せねばならないのは同じ 部屋だって新たに探して借りねばならない 引越代だってかかるし
それに、上京する時に関西のテレビ局からのオファーは全て断って来た この世界、特に新人の内は一度仕事を蹴ったら二度とオファーは来ない
不義理なことして、今更またテレビに出して下さいとは言えない
ならばこのまま東京にいよう
風呂も無いアパートでの、まさにゼロからの再スタート
関西にいた頃の、どこに行っても声をかけてもらえたまがいなりにも人気者だったあの頃とはわけが違う
誰も俺を知らない 人脈も友達も恋人もいない
そして仮にも親友と思っていた相棒との決別
誰もいない
知らない東京の街で、まさに一人ぽっちだ
柴田さんは悪くない
誰も悪くない
なんだかんだ
最後は自分で決めた道なのだから
恐ろしい程の孤独感に苛まれながら
皿洗いのバイトからやり直した
正直きつかった でも頑張るしかない
皿洗いしながら、自分には何が出来るのかを考えた
すぐには見つからない とりあえずバイトを掛け持ちして自活しながらひたすら貯金した なにかが見つかって、それを始めるときにそなえて
ここからどうなったかは、東京で俺を知る人なら分かるよね 28歳の時に起業して以来、それなりに小さな夢は叶えてきた ある程度の自由も手に入れた
しかし“何かをみつけた時にそなえての貯金”はいまだに続いている
恐らく、本当の意味での“何か”はまだ見つかっていないのだと思う
まあ、そういうわけで、俺は今も東京にいる
そんな些細なきっかけで上京して、約19年が経った
今はその柴田という男に心から感謝している
別れた当初は、とんでもないことをしたと後悔もしたが
今は違う
まぁ、ここまでくるまで色々あったけどね
しかし、東京での第二の人生、我ながらそんな悪くは無い
大阪だったら、自分の人生、どうなっていただろう 考えただけでも恐ろしい
全く違う自分が存在していたんだろうな
仕事も違う 出会う人も違う
ちょっとしたミステリーだね 怖い怖い(笑)
実家を出たことない人や、生まれた街をでたことない人にとってはこのスリルは分からないだろうな
親の七光り人生の人にも
ひかれたレール人生の人にもね
さてさて
かくして、過去を振り返っていては再スタートなどできなかった当時の俺
上京してから今までの約20年間、自分の中でも完全に封印していた過去の履歴
約20年ぶりに紐解いてみました(笑) そこにはまるでタイムカプセルのように、若かった俺、弾けていた大阪での今とは全く別人の俺がいました
懐かしいのを通り越して、感慨深い
今まではどちらかといえば暗い過去として封印してきましたが、今だから、これが昔の自分ですと、胸をはって人に言える 今なら、恥ずかしくなんかない
だって今の俺が、ちゃんとここにあるから
そして、今の自分があるのは、それがあったからだから
興味のある人はユーチューブの俺のアカウントに入っておいで
けんめいなユーザーなら、俺のアカウントは分かるでしょ(笑)
今の俺とは考えられないキャラでどん引くとは思うけど(笑)
柴田さんとは、それ以来会ってはいない
メールも電話も無い
でもね、俺にはわかる
いつか再会することを
再会を目標に、お互い頑張っていくことを
いつか、お互いに本当に理想の自分になれた時に
再会は実現する
まだまだ 時間はかかる
多分、50歳くらいになるころかな(笑)
柴田さんは俺にこういった
「アジャ、お前は凄い お前となら成功する」
ある意味、俺を東京に導いた柴田さんは間違ってはいなかった
今だから言える
柴田さん ありがとう
昔のVTRなんだけど
20年くらい前
いやあ、10年一昔なんていうけど、20年だもんなぁ 二昔か ごめんそのままだね(笑)
しかし、まんざらバカにはできないのが、この昔の映像、実はこれがあるから、今俺がここにいるんだよね
人生はわからない 何かのきっかけで人生は大きく変わる
俺は大阪で生まれて、21歳までずっと大阪に住んでいた
その頃はまさか自分が東京に行くなんて考えてもいない
俺は今年40になるから、つまり大阪と東京で人生の約半々に追いついた
20年経って、初めて気持ち穏やかに振り返ることができる
18歳で初めて大阪ローカルのテレビに出て以来、21歳までの約3年間、関西ローカル番組に出まくった
別に芸能人になりたいとかじゃなくて
一人ぽっちで淋しかったから
なんでもいい 有名になれば、皆が俺に声をかけてくれる
淋しくない
俺なりに、どうすればよいか考えて、当時“アジャ”というニックネームでキワモノキャラを作り出した
例えるなら、今のIKKOに近いかな(笑)顔もなんとなく似てるし(笑)あそこまでガチなオカマではないけど、同じようにメークを施し、メーキャッパーという肩書きで、オカマぽいキャラクターだった 我ながら、当時にしては中々良い着眼だったと思う 途中からは空手も取り入れて、戦うメーキャッパーとしてそれなりにウケた
中途半端な芸人より、天然キャラの素人作戦
思惑は一応当たったみたいで、テレビ局は面白がって度々俺をテレビに出した
当時、誰もが俺を本当に天然だったと信じただろう
今だからちょっとだけ得意げに言うけど、芸を極めたプロも凄いが、天然の“フリ”を貫くのも中々凄いことなんですよ だって、楽屋でも常に天然でいなければならないのだから(笑)
余程徹しないと中々できるもんじゃないと、今だから自負する
そんなわけで、関西地区限定ではあるが、一応一瞬だけ有名人になった
街を歩けば、皆俺に振り返る 声もかけてくれる
天涯孤独でも淋しくなかった
天然キャラを維持するのは番組によってはキツい時もあったけど、テレビ局からオファーが来る度、誰かに必要とされてる気がして、嬉しかった
一瞬だけ話題になって、深夜の格闘技番組で半年間レギュラーも頂いた
そこで知り合った、柴田という男に、「一緒に東京で漫才をしないか」と誘われた
しかし敢えて素人だから今はウケてるわけで、プロの芸人というスタンスで果たして需要はあるのだろうか・・?
一抹の不安はあったが、その男とは当時親友と言ってもいいくらい仲がよかったから、どちらかというとその男に惚れて上京を決めた
あとは、心底人から必要とされたことが嬉しかったのもあったかも
仕事もやめ 人脈も捨てた その時付き合ってた彼女とも別れた
21歳の冬だ 裸一貫 確かクリスマスにバイクで凍えながら来たのを覚えてる
しかし、現実は甘くはなく、約1年漫才コンビで活動してみたが、やはり東京では一切通用しなかった というかやはり俺は“素人”だったから良かったのだ
今になって思えば、関西の時のように、テレビのディレクターさんやプロデューサーさんがしょっちゅうオファーをくれていたことは、本当に幸せなことだったんだ 当時の俺はほんの少し騒がれただけで天狗になっていて、そんな人脈の大切さに気付いていなかった
約1年で俺は解散を申し出た
一番の理由は
通用しなかったのを人のせいにするわけじゃないけど
売れないなら売れないなりに、好きなことをしたかったから
柴田さんは、台本から演出からすべて自分が仕切りたがった 黙って俺を信じて付いて来いというわけだ 関西で活動していた俺流のやり方は封印して、1年黙って付いていったが結果は出ず そして、活動スタイルにも相違を感じ今後続けていくのは難しいと判断した
俺が、いいとこのお坊ちゃんならまだしも、東京でバイトしながら自活して夢を追いかけることは中々生半可ではない その大切な権利、どうせなら自分の思うままに活かしたい それで成功しないなら納得だ
一番よくないのは失敗して人のせいにすること それだけは避けたかった
失敗したっていい 問題は、自分の納得のいくようにやったかどうかだ
このままでは後悔する 俺は別れを切り出した
彼は、どちらかといえば、「俺が逃げた」と判断したに違いない
まぁ、どうせなら喧嘩別れなんかしたくはない 仮にも一緒に上京した仲だし
俺は、謙虚に別れの理由を告げた 「柴田さんは悪くない、すべて自分が悪いのだと」
彼は今でもそう思っているだろう それでいい
しかし、俺は俺で、相当な覚悟が必要であった
なんせ、上京した目的をリセットすることになるのだから
新たに東京での生き方を見いださねばならない
柴田さんはとっとと関西の実家に戻った
しかし、俺には戻る場所など無いのだ 実家など無いのだから
どうせ大阪に戻ったって自活せねばならないのは同じ 部屋だって新たに探して借りねばならない 引越代だってかかるし
それに、上京する時に関西のテレビ局からのオファーは全て断って来た この世界、特に新人の内は一度仕事を蹴ったら二度とオファーは来ない
不義理なことして、今更またテレビに出して下さいとは言えない
ならばこのまま東京にいよう
風呂も無いアパートでの、まさにゼロからの再スタート
関西にいた頃の、どこに行っても声をかけてもらえたまがいなりにも人気者だったあの頃とはわけが違う
誰も俺を知らない 人脈も友達も恋人もいない
そして仮にも親友と思っていた相棒との決別
誰もいない
知らない東京の街で、まさに一人ぽっちだ
柴田さんは悪くない
誰も悪くない
なんだかんだ
最後は自分で決めた道なのだから
恐ろしい程の孤独感に苛まれながら
皿洗いのバイトからやり直した
正直きつかった でも頑張るしかない
皿洗いしながら、自分には何が出来るのかを考えた
すぐには見つからない とりあえずバイトを掛け持ちして自活しながらひたすら貯金した なにかが見つかって、それを始めるときにそなえて
ここからどうなったかは、東京で俺を知る人なら分かるよね 28歳の時に起業して以来、それなりに小さな夢は叶えてきた ある程度の自由も手に入れた
しかし“何かをみつけた時にそなえての貯金”はいまだに続いている
恐らく、本当の意味での“何か”はまだ見つかっていないのだと思う
まあ、そういうわけで、俺は今も東京にいる
そんな些細なきっかけで上京して、約19年が経った
今はその柴田という男に心から感謝している
別れた当初は、とんでもないことをしたと後悔もしたが
今は違う
まぁ、ここまでくるまで色々あったけどね
しかし、東京での第二の人生、我ながらそんな悪くは無い
大阪だったら、自分の人生、どうなっていただろう 考えただけでも恐ろしい
全く違う自分が存在していたんだろうな
仕事も違う 出会う人も違う
ちょっとしたミステリーだね 怖い怖い(笑)
実家を出たことない人や、生まれた街をでたことない人にとってはこのスリルは分からないだろうな
親の七光り人生の人にも
ひかれたレール人生の人にもね
さてさて
かくして、過去を振り返っていては再スタートなどできなかった当時の俺
上京してから今までの約20年間、自分の中でも完全に封印していた過去の履歴
約20年ぶりに紐解いてみました(笑) そこにはまるでタイムカプセルのように、若かった俺、弾けていた大阪での今とは全く別人の俺がいました
懐かしいのを通り越して、感慨深い
今まではどちらかといえば暗い過去として封印してきましたが、今だから、これが昔の自分ですと、胸をはって人に言える 今なら、恥ずかしくなんかない
だって今の俺が、ちゃんとここにあるから
そして、今の自分があるのは、それがあったからだから
興味のある人はユーチューブの俺のアカウントに入っておいで
けんめいなユーザーなら、俺のアカウントは分かるでしょ(笑)
今の俺とは考えられないキャラでどん引くとは思うけど(笑)
柴田さんとは、それ以来会ってはいない
メールも電話も無い
でもね、俺にはわかる
いつか再会することを
再会を目標に、お互い頑張っていくことを
いつか、お互いに本当に理想の自分になれた時に
再会は実現する
まだまだ 時間はかかる
多分、50歳くらいになるころかな(笑)
柴田さんは俺にこういった
「アジャ、お前は凄い お前となら成功する」
ある意味、俺を東京に導いた柴田さんは間違ってはいなかった
今だから言える
柴田さん ありがとう