大きな災害を経験したときに、誰もが気づくのは
幸せは特別なことではなくて、実に日々の生活の中にあるという事ではないだろうか。
自分のブログを読み直してみると、怒ったり慌てたり泣いたり笑ったり、実に小さいスケールで、人様からみれば“どうでもいいこと”ばかり。
それは、実に幸せな一コマと言える。
例えば、大切な父を亡くしたことは悲しく淋しいけれど、老いて死んでいくことは自然なことだ。突如として、人為的に命を奪われたわけではない。
残された人は十分に別れの時を持つことが出来たし、折に触れ偲ぶことが出来ている。
それは本当に幸せな事だろう。
たくさんの情報が飛び込んでくると、内容によっては心が乱され、心配し、不安になる。
でも、自分が安全な場所にいることがわかっている上での事だ。
ソファに座り、お茶を飲みながら『心配だ、ひどい、可哀想』と思ってる。そして、そのすぐ後には食事が美味しいとか不味いとかに心は飛んでいる。
それは守られていて幸せなことだと言えるだろう。
誰かにフラれたとか、嫌なことを言われたとか、上司が気に入らないとか、『なんで自分ばっかり』『自分は不幸だ』と嘆くことはあるけれど、明日、全てがゼロになる可能性をリアルに感じてはいない。
(もちろん例外はある。ひどいパワハラやひどいイジメにあっている人は悠長なことは言っていられないだろう)
5年前に『もうだめだ!終わった』という恐怖の経験をして、それは一年以上続いたけれど、わたくしの日々は終わってない。
それは幸せなことに違いない。
幸せは気づきにくい。
近すぎて見えにくい。
幸せに気づく時、それが誰かが不幸になった時や、自分が幸せを失った時では残念だ。
幸せは足元にある
青い鳥を思い出します
でも自分の幸せが誰かの不幸の上に成り立ってると思うと辛いな・・・(T_T)
別れがとても悲しかったり
(充分偲ぶことができたり)
いろいろあるなあと思います
けれどよくよく考えたら災害や戦いで明日があるかどうかわからない人々のこと考えた時
本当に恥ずかしい限りですね
いつも青い鳥を探してしまいます。
もし仮に青い鳥を捕まえても、別の青い鳥がいるのですね。
葉月
自分の何気ない日常が、誰かの不幸の上になりたっているとは考えたくないな…。
でも、想像力や理解しようとする力を磨かないといけないな。
葉月
自分が片腕をあげると、誰かや何かがその影響を受けるのでしょう。
どんな影響を与えているのか、見て聞いて考えていないといけない。でも直ぐに鈍感になっちゃう。
葉月
想像力や理解しようとする力、なんだと思います。一生懸命にその事を味わって感謝できるようになりたいです。
葉月