修士論文を書くことや、そもそも修士課程や、博士課程やもっと言えばアカデミックの世界は、中に入って体験した人以外わかりにくい世界かもしれません。私自身もこの一年、何がなんだかわからずにとにかく言われるままに必死にこなしてきたというのが実情です。学者間で交わされる難解な言い回しの小難しい言葉と議論の連続は必ずしもすべてが社会に通用され還元されるかというとそうではありません。徐々にわかってきたことが、あくまで自分のための論文でありアカデミックの世界なのだ、ということです。高尚な究極の趣味とも言えます。自分の興味のあるテーマをとことん追求する、社会に認められた地位とお金を使って、という感じでしょうか。理系はそれがもう少し実際的な結果に結びつき人の命を救ったり環境改善に役立つこともあるのでしょうが、文系の研究とはあくまで自分ありきの自分の探求欲を満たすためのそしてそれが結果として社会に飛び出て役立つ可能性も無きにしも非ずといったところでしょうか。というのも、例えば私が勉強している言語学なんかも、ある学者は北アフリカのマイナーな言語の研究をしています。その成果発表を聴くのは同じく様々な言語を研究している学者や学生です。それは常に大学の一室で行われそこにはほぼアカデミックの関係者以外いません。
日本について何十年も研究している学者もたくさんいます。それは御巣鷹山の研究であったり、ある漢学者がテーマであったり、明治維新で活躍したある商家の家族の物語であったりと一般の日本人が知らないことを外国人である彼らが自分の人生の何十年もの時間をかけ解明している姿を目の当たりにすることは感動すら覚えます。
級友に言わせると、何のために誰のためにしているかということを考えてはいけないのがアカデミックの世界、だそうです。以前、政治学の生徒の論文を訳したのですが、一般人にはさっぱりの専門の政治用語と難解な文章の連続で訳すのに随分骨が折れました。アカデミックのさらに政治学を専攻している人にしか理解できない内容でした。書いた張本人もそれでいいと思って書いている節があり、私自身はこれまた一歩アカデミックの世界を理解したような気がしました。
写真は近くの公園のマリア像。
日本について何十年も研究している学者もたくさんいます。それは御巣鷹山の研究であったり、ある漢学者がテーマであったり、明治維新で活躍したある商家の家族の物語であったりと一般の日本人が知らないことを外国人である彼らが自分の人生の何十年もの時間をかけ解明している姿を目の当たりにすることは感動すら覚えます。
級友に言わせると、何のために誰のためにしているかということを考えてはいけないのがアカデミックの世界、だそうです。以前、政治学の生徒の論文を訳したのですが、一般人にはさっぱりの専門の政治用語と難解な文章の連続で訳すのに随分骨が折れました。アカデミックのさらに政治学を専攻している人にしか理解できない内容でした。書いた張本人もそれでいいと思って書いている節があり、私自身はこれまた一歩アカデミックの世界を理解したような気がしました。
写真は近くの公園のマリア像。