私の人生初の海外旅行体験は、1990年3月、チェコスロバキアと東ドイツ行でした。
前の年の秋に、ベルリンの壁が崩壊し、当時の東西冷戦の下、「東側」陣営に属していた中東欧諸国で、ドミノ倒しのように共産党独裁政権が軒並み瓦解していくという、劇的な歴史の変化を肌で感じてみたいと思い、消滅間近であった「東側」即ち共産圏の国を、旅先に選びました。
古きヨーロッパの面影が色濃く残る中欧諸国には、常々魅力を感じていました。
しかし、第二次世界大戦後の東西冷戦という政治情勢により、これらの諸国はソ連の衛星国として共産化してしまい、旅行者にとっても、ビザ取得や様々な制限・禁止事項、スパイの嫌疑等抑圧的な共産主義体制への恐怖感等、気ままに旅を楽しむことができなくなっていました。
そこへ、「鉄のカーテン」の向こう側での共産主義体制崩壊のニュース…憧れていた地域への渡航のチャンスと共に、体制変革の渦中の空気に直接触れるという、これを逃せば二度と体験できないであろう、貴重な機会ではないかと、共産主義体制の残滓がまだ残っていた当時に、旅立ちを決意しました。
第二次世界大戦の戦火を免れた、美しい百塔の街プラハ(Praha)を擁する、チェコスロバキア社会主義共和国(Československá socialistická republika/ČSSR)と、第二次世界大戦後にベルリン(Berlin)を分断した、東西冷戦の象徴でもある「ベルリンの壁」によって存続してきた、「東ドイツ」ことドイツ民主共和国(Deutsche Demokratische Republik/DDR)をメインに巡った、初めての海外旅行でした。
興味深く、貴重な体験も幾つか得ることができた、この旅の忘れ難い思い出を、結構細かなコメントを付けていたアルバムを引っ張り出して、写真をスキャンしながら、のんびり綴ろうと思います。
宜しければ、気長にお付き合いください。
<チェコスロバキア>
<プラハ>
初海外旅行の記念すべき最初の画像は、今はなき香港・啓徳空港から、滑走路端を眺めた1枚。
この旅では、日本とヨーロッパとの往復は、香港乗り継ぎのキャセイパシフィック航空(Cathay Pacific)を利用しました。
1990年当時、まだ国際線が乗り入れていた大阪国際空港(伊丹空港)から、台北経由香港行のフライトで、まずは香港へ到着。
フランクフルト行の出発まで、確か6時間以上の乗り継ぎ時間があったため、トランジットで香港の街へ出てもよかったのですが、うっかりトランジットの順路の方へ進んでしまいました。
気付いた時には、既に引き返し不可能なエリアに入ってしまっていて、仕方なく、空港内をあちこち見物していました(^^;)
香港の街中に位置していた、啓徳空港。
滑走の端のすぐ外側はもう市街地で、ビルなどの建物が林立しています。
そのすぐ頭上を、1機の飛行機が、有名であった「香港カーブ」を描きながら、滑走路へ向けてアプローチしていたのが、目に入りました。
空港の特殊な立地から、大きくカーブしながらの着陸を強いられた啓徳空港。
続々と飛来してくる大型機でも、例外なく建物すれすれの高度で、機体を大きく傾けながら空港へと進入していく、ダイナミックな光景を楽しむことができました♪
私が大阪から搭乗してきたキャセイ機(ボーイング747-400のジャンボ機でした)も、こうして啓徳空港へとアプローチ、着陸したはず;
「香港カーブ」のシーンの動画を、YouTubeから借りてきました。
通常時でも難しい着陸といわれてきたのに、更に横風に煽られると、上の動画のような凄まじい力技で強引にタッチダウンを決める一部始終を、眺められてきたのですね…。
機内の人は、こうしたシーンを見ることができなくて、幸いであったのかもしれませんね;;
下の動画は、綺麗なカーブを描いたターンからの、美しいランディング。
暮れゆく、啓徳空港の眺め。
滑走路や誘導路等を彩る灯火が、灯り始めていました。
着陸したのは、エールフランスのジャンボ機のようですね。
21世紀の今日から改めて振り返ってみると、いかにも一昔前の前世紀然とした雰囲気(撮影当時は、その「前世紀」であった訳ですがw)に包まれていた、啓徳空港のターミナルビル内の様子。
機能性重視といった感じの、シンプルで飾り気のない、直線的なインテリアを改めて眺めてみると、当時はその時の「今風」に感じていたデザインが、すっかりレトロなムードを纏っているように見えてなりませんw
低い天井も、今では却って印象深く感じられてしまいます。
そこここに普通に置かれている灰皿にもまた、時代を感じさせますね。
すっかり夜の帳が下りた後、乗り継ぎ便の西ドイツ(1990年当時は、まだドイツ統一前であり、東西ドイツが存在していました)・フランクフルト(Frankfurt am Main)行のフライトに搭乗して、香港を出発。
いよいよ、ヨーロッパへ向け、飛び立ちました!
香港を夜出発したキャセイパシフィック航空のフランクフルト行のフライトは、翌朝フランクフルト空港(Flughafen Frankfurt am Main)へ到着。
ヨーロッパ内の移動では、鉄道を利用しましたが、フランクフルト発プラハ行の国際列車との接続の関係で、この日はフランクフルトに1泊し、翌日プラハへ赴くことにしていました。
…ということで、フランクフルト到着日は、終日時間が空くこととなり、フランクフルトから南へ、電車で1時間程で着く古い大学都市、ハイデルベルク(Heidelberg)を訪れることに。
ハイデルベルクの駅は、旧市街から少々離れていて、確か駅から旧市街まで、バスで移動した憶えがあります。
旧市街の広場からは、ドイツ最古の大学と共に、ハイデルベルクのランドマーク的存在の、ハイデルベルク城(Heidelberger Schloss)を仰ぎ見ることができました。
威風堂々とした佇まいの、ハイデルベルク城です!
今度は、ハイデルベルク城の建つ高台へ上って、ハイデルベルク旧市街を見渡します♪
初めて目にした、古きヨーロッパの街並みの俯瞰に、大感激w
その美しいパノラマに、しばし見入っていました。
ハイデルベルク市街を貫く、ネッカー川(Neckar)のゆったりとした流れも、この眺めに雄大な広がりを感じさせてくれます。
ドッシリと重厚感を漂わせて聳える、城門塔(Torturm)。
時計を組み込んでいるので、時計塔(Uhrenturm)とも呼ばれています。
ハイデルベルク城は17世紀末まで、神聖ローマ帝国の君主を選出する特権を有した選帝侯の1人である、ライン宮中伯(Pfalzgraf bei Rhein)の居城でした。
由緒正しい古城の、ハイデルベルク城。
ドイツで最も著名な城の1つであるとのことでした。
ドイツらしく、質実剛健な意匠の建物が多かったハイデルベルク城にあって、華やいだ装飾を施されたファサードを持つ城館の、フリードリヒ館(Friedrichsbau)。
光と影とが描き出した、明暗のコントラストが、この城の景観を、一層印象的に見せてくれます。
この古城をひとしきり巡って、再び旧市街へ。
バスで駅へと引き返し、日暮れ時の中を、フランクフルトへと戻りました。
長年憧れていたプラハへの出発を翌朝に控えて、気分も高揚したまま、早い目に床に就きます。
翌朝、宿泊したホテルにほど近かった、フランクフルト中央駅(Frankfurt Hauptbahnhof)にて。
ホームに入線していた列車の、各乗降扉口に掲げられていた、行先案内標です。
シンプルに、始発駅と終着駅、経由地のみを記載した、スッキリとしたデザインが印象的でした。
今日の現状は分かりませんが、当時フランクフルト発でプラハ行の昼行直通列車は、朝にフランクフルト中央駅を出発して、その日の夕刻にプラハ本駅(Praha hlavní nádraží/Praha hl.n.)へ至る、この急行列車の1日1本限りでした。
「PRAHA(プラハ)」や「CHEP(ヘプ)」といった、当時は共産圏として長年理解していた国の都市名を見るにつけ、共産党の支配は崩壊したとはいえ、やはり、「これから『鉄のカーテン』を越えるのか…」という緊張感を実感しました;
列車名はチェコ語で、「ZÁPADNÍ EXPRES(ザーパドニー・エクスプレス)」―直訳すると、「西急行」でしょうか…プラハから西を目指す列車に、相応しい名称です^^
「EXPRES」と、最後の「S」が1つだけ…というところが、ミソですねw
フランクフルトからプラハまで、所要時間約10時間という、1日がかりでの移動となります。
「ZÁPADNÍ EXPRES」は、フランクフルト中央駅を出発後、一路東を目指して走り続け、国境を越えてプラハ本駅へと至ります。
車内にも、行先や経由地の案内が、掲げられていました。
私が乗車しているのは、フランクフルト発プラハ行の、「Ex 251列車」の方。
上記の2つ目の地図上には、ここに掲載されていた経由駅を、マークしています。
Schirnding(シルンディンク)とCheb(ヘプ)との間が、東西冷戦時代にヨーロッパをイデオロギーで分断した「鉄のカーテン」の中でも、対立していた東西両陣営が、中立国等の緩衝国を挟まず直接接して対峙していた、という重要な部分であった、西ドイツ(ドイツ連邦共和国/Bundesrepublik Deutschland)とチェコスロバキア(Československo)との国境です。
シルンディンクまでが西ドイツ、ヘプからがチェコスロバキアとなります。
列車で陸路国境を越え(もちろん人生初の体験)、遂にチェコスロバキア入国!!
チェコスロバキア側の最初の停車駅ヘプで、パスポートやビザ(ČESKOSLOVENSKÉ VÍZUM)のチェック後、入国スタンプが押されました。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
入国スタンプには、この当時のチェコスロバキアの正式国名であった、「チェコスロバキア社会主義共和国(Československá socialistická republika)」の略称「ČSSR(チェー・エス・エス・エル)」が、記されています。
そして、この旅へ出発する前に東京の駐日チェコスロバキア大使館で申請・取得したビザ(チェコスロバキア入国には、観光目的でも、当時はまだビザが必要でした)にある国章も、獅子の頭上には王冠ではなく星があるという風に、間もなく消滅が確実な共産主義の残滓を、辛うじて留めていました(国章は実際には、1989年に別のデザインに改められていました)。
因みに、この旅をした1990年3月初旬から数週間後の3月下旬、正式国名が「チェコスロバキア連邦共和国(Československá federativní republika チェコ語)/チェコ=スロバキア連邦共和国(Česko-Slovenská federatívna republika スロバキア語)」と改称されました。
しかし、改称前から続いてきた、いわゆる「ハイフン戦争」の大論争は、この改称後も収まらず、結局、翌月の1990年4月に、「チェコおよびスロバキア連邦共和国(Česká a Slovenská Federativní Republika チェコ語/Česká a Slovenská Federatívna Republika スロバキア語/ČSFR チェー・エス・エフ・エル)」へと、国名が更に改称されることとなりました。
その後、1993年1月1日に、このチェコスロバキア連邦を構成していたチェコ共和国(Česká republika)とスロバキア共和国(Slovenská republika)は、連邦を解消して、それぞれが単独の主権国家として独立。
国家としての「チェコスロバキア」は、消滅しました。
閑話休題。
ヘプでの停車中に、国境警備隊(つまり秘密警察;;)と思しき制服に身を固め、自動小銃を肩にしたチェコスロバキアの係官が、客車のコンパートメントをまわって、乗客のパスポートを1人1人念入りにチェックして、入国スタンプを押印。
氷の如く凍てついた、厳しい表情でのパスポートチェック…急激に民主化されても、法律や一般社会での様々なシステムは追いついていけないため、共産主義時代そのままの、厳格なチェックがなされていて、コンパートメントには緊張感溢れる空気に包まれてました。
チェックが終わり、係官が去ると、引き続いて恰幅のいい中年女性が、重たいコンパートメントのガラス扉を「バーン!」と勢いよく開けて登場(パスポートチェックの係官よりも強そうでしたw)。
彼女は銀行の係官で、「強制両替」のためにやって来たのでした。
チェコスロバキアは共産主義時代、強制両替の制度があり、日額20米ドル又は30ドイツマルク(懐かしい欧州最強通貨w)を滞在日数分、チェコスロバキア通貨のコルナへ両替しなければなりませんでした。
私は10日間の滞在予定でビザを取得していたので、ビザを確認されるなり、300ドイツマルクを強制的に両替させられました。
当時、1ドイツマルク≒90円、観光客用のボーナスレートで1コルナ≒4円であったので、90÷4×300=6,750コルナ(27,000円相当額)を、この強制両替で取得。
西ドイツでは、更にドイツマルクに有利な実勢レートで両替できましたが、コルナはチェコスロバキア国外からの持ち込みやチェコスロバキア国外への持ち出しは厳禁(つまり、手持ちのコルナはチェコスロバキア国内で使い切らなければならない)とされ、見つかれば没収でした(共産主義時代から有名無実化されていたようですが)。
共産主義時代から、諸物価が非常に低い価格に抑えられてきた国で、強制両替で得たこの6,750コルナを使い切るのは、かなり大変そう…;
精々散財しようと、心に誓いましたw
既に西欧では、シェンゲン協定により、一部の国を除き国境通過が自由化されていた1990年当時、東西両陣営を隔てていた国境はまだ、相変わらずの厳重な統制下にあり(国境線と思しき場所には、鉄条網もまだ設置されていました)、緊迫した国境越えを体験しました。
プラハへ到着し、プラハ滞在中の宿を決め、旅装を解いて一息つく頃には、すっかり日が暮れて、外は真っ暗になっていました。
現代風の、直線的な街明かりを、宿泊した部屋から見渡すことができました。
入国にはビザが必要、強制両替等、共産主義時代の制度がそのままで、観光しやすい環境とは言い難かった、当時のチェコスロバキア。
慢性的に不足状態であった、プラハのホテル事情も同様で、日本国内から予約できたのは、極少数の高級ホテルのみ。
当然外貨払いで、非常にお高いホテル代;
リーズナブルなホテル探しは、実質的にプラハ入りしてからでないと、不可能な状況でした。
そのホテル探しも、宿泊を専門に扱う国営旅行社(チェドック/Čedok)のオフィスが、プラハ市内ではプラハ本駅近くに1ヶ所あるのみ。
夕方にプラハへ到着して、一目散に向かったのが、クローズ時間が迫ったそのオフィスで、当然ながら、私と同じ境遇の旅行者で溢れ返っていました。
また、共産主義国の唯一の旅行社(国営)ということから想像できるとおり、スタッフの接客も、木で鼻をくくった対応(-_-#)
カウンターでのやり取りも、ひと言「No room」と、取り付く島もありませんでした。
オフィス近くの路上で、「さて、どうしようか…」と思案し始めた矢先、英語で「部屋を探しているのか?」と声を掛けられ、「Yes」と答えると、「プライベート・ルームに泊まらないか?」とのこと。
「地球の歩き方」等のガイドブックで、その存在は知っていた、「プライベート・ルーム」の客引きでした。
ホテル不足の状況に乗じて、当時の中東欧諸国で横行していた、一般の人々が、自宅やアパート等の空き部屋を、当局に無許可で貸し出していた「プライベート・ルーム」。
早い話が、今日話題となっている「民泊」ですね…。
当たり外れが大きく、当然リスクも高かった「プライベート・ルーム」でしたが、背に腹は代えられず、1泊23ドイツマルク(約2,000円、ドイツマルクで支払い)の条件で、交渉成立。
この人に連れられ、プラハ本駅から地下鉄(Metro)のC線に乗車して20分程…「Budovatelů(ブドバテルー)」という駅で下車、地上へ上がると…プラハ郊外の高層団地群でした。
(「Budovatelů」という駅名は、ソ連又は共産主義に由来して命名されたものであったようで、その後、「Chodov(ホドフ)」という駅名に改称されています)
比較的築年数も新しい感じの高層アパートの1室を、1泊2,000円程度で丸々借りることができたのは(元々住居なので、キッチン、バス、トイレももちろん完備!)、望外の幸運でした^^
当時は、本当に一般の人々が、手持ちの遊休物件を外国人旅行者等に貸出していたようで、ラッキーな結果論でしたが、リスクの懸念は杞憂でした。
貸出す人は、体よくドイツマルクや米ドル等の外貨を獲得することができたので、比較的綺麗な物件を貸し出していたようです。
個人的なプライベートビジネスのような体裁であったので、ギラついた商売っ気もなく、良心的な印象を受けた、「プライベート・ルーム」でした。
プラハ郊外の周囲一帯にわたり、高層団地群が広がっている印象を受けました。
到着時は既に真っ暗となっていて、周辺の様子は分りませんでしたが、中層階であった部屋からの眺めは、良さそうです♪
結局、居心地の良さとリーズナブルな料金から、6泊したプラハ滞在を全て、こちらでお世話になってしまいました!
宿泊した「プライベート・ルーム」の画像は、後日別記事にてアップします。
まさか、1泊2,000円という破格の料金でプラハに滞在、それも、共産主義社会ではステータスでもあった、高層アパートに宿泊することになろうとは、全く想像もしていなかったので、この「プライベート・ルーム」の思い出は、今なお鮮烈な記憶として、脳裏に焼き付いています。
伝統的なヨーロッパの建築が現存することで魅かれたプラハでしたが、全く異なる側面も体験することとなり、幸先良く始まったプラハ滞在。
翌日からは、憧れ続けてきた街を、気の向くままに訪ね歩きます!
<初海外1990 チェコスロバキア&DDR-02>>
前の年の秋に、ベルリンの壁が崩壊し、当時の東西冷戦の下、「東側」陣営に属していた中東欧諸国で、ドミノ倒しのように共産党独裁政権が軒並み瓦解していくという、劇的な歴史の変化を肌で感じてみたいと思い、消滅間近であった「東側」即ち共産圏の国を、旅先に選びました。
古きヨーロッパの面影が色濃く残る中欧諸国には、常々魅力を感じていました。
しかし、第二次世界大戦後の東西冷戦という政治情勢により、これらの諸国はソ連の衛星国として共産化してしまい、旅行者にとっても、ビザ取得や様々な制限・禁止事項、スパイの嫌疑等抑圧的な共産主義体制への恐怖感等、気ままに旅を楽しむことができなくなっていました。
そこへ、「鉄のカーテン」の向こう側での共産主義体制崩壊のニュース…憧れていた地域への渡航のチャンスと共に、体制変革の渦中の空気に直接触れるという、これを逃せば二度と体験できないであろう、貴重な機会ではないかと、共産主義体制の残滓がまだ残っていた当時に、旅立ちを決意しました。
第二次世界大戦の戦火を免れた、美しい百塔の街プラハ(Praha)を擁する、チェコスロバキア社会主義共和国(Československá socialistická republika/ČSSR)と、第二次世界大戦後にベルリン(Berlin)を分断した、東西冷戦の象徴でもある「ベルリンの壁」によって存続してきた、「東ドイツ」ことドイツ民主共和国(Deutsche Demokratische Republik/DDR)をメインに巡った、初めての海外旅行でした。
興味深く、貴重な体験も幾つか得ることができた、この旅の忘れ難い思い出を、結構細かなコメントを付けていたアルバムを引っ張り出して、写真をスキャンしながら、のんびり綴ろうと思います。
宜しければ、気長にお付き合いください。
<チェコスロバキア>
<プラハ>
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初海外旅行の記念すべき最初の画像は、今はなき香港・啓徳空港から、滑走路端を眺めた1枚。
この旅では、日本とヨーロッパとの往復は、香港乗り継ぎのキャセイパシフィック航空(Cathay Pacific)を利用しました。
1990年当時、まだ国際線が乗り入れていた大阪国際空港(伊丹空港)から、台北経由香港行のフライトで、まずは香港へ到着。
フランクフルト行の出発まで、確か6時間以上の乗り継ぎ時間があったため、トランジットで香港の街へ出てもよかったのですが、うっかりトランジットの順路の方へ進んでしまいました。
気付いた時には、既に引き返し不可能なエリアに入ってしまっていて、仕方なく、空港内をあちこち見物していました(^^;)
香港の街中に位置していた、啓徳空港。
滑走の端のすぐ外側はもう市街地で、ビルなどの建物が林立しています。
そのすぐ頭上を、1機の飛行機が、有名であった「香港カーブ」を描きながら、滑走路へ向けてアプローチしていたのが、目に入りました。
空港の特殊な立地から、大きくカーブしながらの着陸を強いられた啓徳空港。
続々と飛来してくる大型機でも、例外なく建物すれすれの高度で、機体を大きく傾けながら空港へと進入していく、ダイナミックな光景を楽しむことができました♪
私が大阪から搭乗してきたキャセイ機(ボーイング747-400のジャンボ機でした)も、こうして啓徳空港へとアプローチ、着陸したはず;
「香港カーブ」のシーンの動画を、YouTubeから借りてきました。
通常時でも難しい着陸といわれてきたのに、更に横風に煽られると、上の動画のような凄まじい力技で強引にタッチダウンを決める一部始終を、眺められてきたのですね…。
機内の人は、こうしたシーンを見ることができなくて、幸いであったのかもしれませんね;;
下の動画は、綺麗なカーブを描いたターンからの、美しいランディング。
暮れゆく、啓徳空港の眺め。
滑走路や誘導路等を彩る灯火が、灯り始めていました。
着陸したのは、エールフランスのジャンボ機のようですね。
21世紀の今日から改めて振り返ってみると、いかにも一昔前の前世紀然とした雰囲気(撮影当時は、その「前世紀」であった訳ですがw)に包まれていた、啓徳空港のターミナルビル内の様子。
機能性重視といった感じの、シンプルで飾り気のない、直線的なインテリアを改めて眺めてみると、当時はその時の「今風」に感じていたデザインが、すっかりレトロなムードを纏っているように見えてなりませんw
低い天井も、今では却って印象深く感じられてしまいます。
そこここに普通に置かれている灰皿にもまた、時代を感じさせますね。
すっかり夜の帳が下りた後、乗り継ぎ便の西ドイツ(1990年当時は、まだドイツ統一前であり、東西ドイツが存在していました)・フランクフルト(Frankfurt am Main)行のフライトに搭乗して、香港を出発。
いよいよ、ヨーロッパへ向け、飛び立ちました!
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香港を夜出発したキャセイパシフィック航空のフランクフルト行のフライトは、翌朝フランクフルト空港(Flughafen Frankfurt am Main)へ到着。
ヨーロッパ内の移動では、鉄道を利用しましたが、フランクフルト発プラハ行の国際列車との接続の関係で、この日はフランクフルトに1泊し、翌日プラハへ赴くことにしていました。
…ということで、フランクフルト到着日は、終日時間が空くこととなり、フランクフルトから南へ、電車で1時間程で着く古い大学都市、ハイデルベルク(Heidelberg)を訪れることに。
ハイデルベルクの駅は、旧市街から少々離れていて、確か駅から旧市街まで、バスで移動した憶えがあります。
旧市街の広場からは、ドイツ最古の大学と共に、ハイデルベルクのランドマーク的存在の、ハイデルベルク城(Heidelberger Schloss)を仰ぎ見ることができました。
威風堂々とした佇まいの、ハイデルベルク城です!
今度は、ハイデルベルク城の建つ高台へ上って、ハイデルベルク旧市街を見渡します♪
初めて目にした、古きヨーロッパの街並みの俯瞰に、大感激w
その美しいパノラマに、しばし見入っていました。
ハイデルベルク市街を貫く、ネッカー川(Neckar)のゆったりとした流れも、この眺めに雄大な広がりを感じさせてくれます。
ドッシリと重厚感を漂わせて聳える、城門塔(Torturm)。
時計を組み込んでいるので、時計塔(Uhrenturm)とも呼ばれています。
ハイデルベルク城は17世紀末まで、神聖ローマ帝国の君主を選出する特権を有した選帝侯の1人である、ライン宮中伯(Pfalzgraf bei Rhein)の居城でした。
由緒正しい古城の、ハイデルベルク城。
ドイツで最も著名な城の1つであるとのことでした。
ドイツらしく、質実剛健な意匠の建物が多かったハイデルベルク城にあって、華やいだ装飾を施されたファサードを持つ城館の、フリードリヒ館(Friedrichsbau)。
光と影とが描き出した、明暗のコントラストが、この城の景観を、一層印象的に見せてくれます。
この古城をひとしきり巡って、再び旧市街へ。
バスで駅へと引き返し、日暮れ時の中を、フランクフルトへと戻りました。
長年憧れていたプラハへの出発を翌朝に控えて、気分も高揚したまま、早い目に床に就きます。
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翌朝、宿泊したホテルにほど近かった、フランクフルト中央駅(Frankfurt Hauptbahnhof)にて。
ホームに入線していた列車の、各乗降扉口に掲げられていた、行先案内標です。
シンプルに、始発駅と終着駅、経由地のみを記載した、スッキリとしたデザインが印象的でした。
今日の現状は分かりませんが、当時フランクフルト発でプラハ行の昼行直通列車は、朝にフランクフルト中央駅を出発して、その日の夕刻にプラハ本駅(Praha hlavní nádraží/Praha hl.n.)へ至る、この急行列車の1日1本限りでした。
「PRAHA(プラハ)」や「CHEP(ヘプ)」といった、当時は共産圏として長年理解していた国の都市名を見るにつけ、共産党の支配は崩壊したとはいえ、やはり、「これから『鉄のカーテン』を越えるのか…」という緊張感を実感しました;
列車名はチェコ語で、「ZÁPADNÍ EXPRES(ザーパドニー・エクスプレス)」―直訳すると、「西急行」でしょうか…プラハから西を目指す列車に、相応しい名称です^^
「EXPRES」と、最後の「S」が1つだけ…というところが、ミソですねw
フランクフルトからプラハまで、所要時間約10時間という、1日がかりでの移動となります。
「ZÁPADNÍ EXPRES」は、フランクフルト中央駅を出発後、一路東を目指して走り続け、国境を越えてプラハ本駅へと至ります。
車内にも、行先や経由地の案内が、掲げられていました。
私が乗車しているのは、フランクフルト発プラハ行の、「Ex 251列車」の方。
上記の2つ目の地図上には、ここに掲載されていた経由駅を、マークしています。
Schirnding(シルンディンク)とCheb(ヘプ)との間が、東西冷戦時代にヨーロッパをイデオロギーで分断した「鉄のカーテン」の中でも、対立していた東西両陣営が、中立国等の緩衝国を挟まず直接接して対峙していた、という重要な部分であった、西ドイツ(ドイツ連邦共和国/Bundesrepublik Deutschland)とチェコスロバキア(Československo)との国境です。
シルンディンクまでが西ドイツ、ヘプからがチェコスロバキアとなります。
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列車で陸路国境を越え(もちろん人生初の体験)、遂にチェコスロバキア入国!!
チェコスロバキア側の最初の停車駅ヘプで、パスポートやビザ(ČESKOSLOVENSKÉ VÍZUM)のチェック後、入国スタンプが押されました。
(画像クリックで、別ウィンドウが開きます)
入国スタンプには、この当時のチェコスロバキアの正式国名であった、「チェコスロバキア社会主義共和国(Československá socialistická republika)」の略称「ČSSR(チェー・エス・エス・エル)」が、記されています。
そして、この旅へ出発する前に東京の駐日チェコスロバキア大使館で申請・取得したビザ(チェコスロバキア入国には、観光目的でも、当時はまだビザが必要でした)にある国章も、獅子の頭上には王冠ではなく星があるという風に、間もなく消滅が確実な共産主義の残滓を、辛うじて留めていました(国章は実際には、1989年に別のデザインに改められていました)。
因みに、この旅をした1990年3月初旬から数週間後の3月下旬、正式国名が「チェコスロバキア連邦共和国(Československá federativní republika チェコ語)/チェコ=スロバキア連邦共和国(Česko-Slovenská federatívna republika スロバキア語)」と改称されました。
しかし、改称前から続いてきた、いわゆる「ハイフン戦争」の大論争は、この改称後も収まらず、結局、翌月の1990年4月に、「チェコおよびスロバキア連邦共和国(Česká a Slovenská Federativní Republika チェコ語/Česká a Slovenská Federatívna Republika スロバキア語/ČSFR チェー・エス・エフ・エル)」へと、国名が更に改称されることとなりました。
その後、1993年1月1日に、このチェコスロバキア連邦を構成していたチェコ共和国(Česká republika)とスロバキア共和国(Slovenská republika)は、連邦を解消して、それぞれが単独の主権国家として独立。
国家としての「チェコスロバキア」は、消滅しました。
閑話休題。
ヘプでの停車中に、国境警備隊(つまり秘密警察;;)と思しき制服に身を固め、自動小銃を肩にしたチェコスロバキアの係官が、客車のコンパートメントをまわって、乗客のパスポートを1人1人念入りにチェックして、入国スタンプを押印。
氷の如く凍てついた、厳しい表情でのパスポートチェック…急激に民主化されても、法律や一般社会での様々なシステムは追いついていけないため、共産主義時代そのままの、厳格なチェックがなされていて、コンパートメントには緊張感溢れる空気に包まれてました。
チェックが終わり、係官が去ると、引き続いて恰幅のいい中年女性が、重たいコンパートメントのガラス扉を「バーン!」と勢いよく開けて登場(パスポートチェックの係官よりも強そうでしたw)。
彼女は銀行の係官で、「強制両替」のためにやって来たのでした。
チェコスロバキアは共産主義時代、強制両替の制度があり、日額20米ドル又は30ドイツマルク(懐かしい欧州最強通貨w)を滞在日数分、チェコスロバキア通貨のコルナへ両替しなければなりませんでした。
私は10日間の滞在予定でビザを取得していたので、ビザを確認されるなり、300ドイツマルクを強制的に両替させられました。
当時、1ドイツマルク≒90円、観光客用のボーナスレートで1コルナ≒4円であったので、90÷4×300=6,750コルナ(27,000円相当額)を、この強制両替で取得。
西ドイツでは、更にドイツマルクに有利な実勢レートで両替できましたが、コルナはチェコスロバキア国外からの持ち込みやチェコスロバキア国外への持ち出しは厳禁(つまり、手持ちのコルナはチェコスロバキア国内で使い切らなければならない)とされ、見つかれば没収でした(共産主義時代から有名無実化されていたようですが)。
共産主義時代から、諸物価が非常に低い価格に抑えられてきた国で、強制両替で得たこの6,750コルナを使い切るのは、かなり大変そう…;
精々散財しようと、心に誓いましたw
既に西欧では、シェンゲン協定により、一部の国を除き国境通過が自由化されていた1990年当時、東西両陣営を隔てていた国境はまだ、相変わらずの厳重な統制下にあり(国境線と思しき場所には、鉄条網もまだ設置されていました)、緊迫した国境越えを体験しました。
プラハへ到着し、プラハ滞在中の宿を決め、旅装を解いて一息つく頃には、すっかり日が暮れて、外は真っ暗になっていました。
現代風の、直線的な街明かりを、宿泊した部屋から見渡すことができました。
入国にはビザが必要、強制両替等、共産主義時代の制度がそのままで、観光しやすい環境とは言い難かった、当時のチェコスロバキア。
慢性的に不足状態であった、プラハのホテル事情も同様で、日本国内から予約できたのは、極少数の高級ホテルのみ。
当然外貨払いで、非常にお高いホテル代;
リーズナブルなホテル探しは、実質的にプラハ入りしてからでないと、不可能な状況でした。
そのホテル探しも、宿泊を専門に扱う国営旅行社(チェドック/Čedok)のオフィスが、プラハ市内ではプラハ本駅近くに1ヶ所あるのみ。
夕方にプラハへ到着して、一目散に向かったのが、クローズ時間が迫ったそのオフィスで、当然ながら、私と同じ境遇の旅行者で溢れ返っていました。
また、共産主義国の唯一の旅行社(国営)ということから想像できるとおり、スタッフの接客も、木で鼻をくくった対応(-_-#)
カウンターでのやり取りも、ひと言「No room」と、取り付く島もありませんでした。
オフィス近くの路上で、「さて、どうしようか…」と思案し始めた矢先、英語で「部屋を探しているのか?」と声を掛けられ、「Yes」と答えると、「プライベート・ルームに泊まらないか?」とのこと。
「地球の歩き方」等のガイドブックで、その存在は知っていた、「プライベート・ルーム」の客引きでした。
ホテル不足の状況に乗じて、当時の中東欧諸国で横行していた、一般の人々が、自宅やアパート等の空き部屋を、当局に無許可で貸し出していた「プライベート・ルーム」。
早い話が、今日話題となっている「民泊」ですね…。
当たり外れが大きく、当然リスクも高かった「プライベート・ルーム」でしたが、背に腹は代えられず、1泊23ドイツマルク(約2,000円、ドイツマルクで支払い)の条件で、交渉成立。
この人に連れられ、プラハ本駅から地下鉄(Metro)のC線に乗車して20分程…「Budovatelů(ブドバテルー)」という駅で下車、地上へ上がると…プラハ郊外の高層団地群でした。
(「Budovatelů」という駅名は、ソ連又は共産主義に由来して命名されたものであったようで、その後、「Chodov(ホドフ)」という駅名に改称されています)
比較的築年数も新しい感じの高層アパートの1室を、1泊2,000円程度で丸々借りることができたのは(元々住居なので、キッチン、バス、トイレももちろん完備!)、望外の幸運でした^^
当時は、本当に一般の人々が、手持ちの遊休物件を外国人旅行者等に貸出していたようで、ラッキーな結果論でしたが、リスクの懸念は杞憂でした。
貸出す人は、体よくドイツマルクや米ドル等の外貨を獲得することができたので、比較的綺麗な物件を貸し出していたようです。
個人的なプライベートビジネスのような体裁であったので、ギラついた商売っ気もなく、良心的な印象を受けた、「プライベート・ルーム」でした。
プラハ郊外の周囲一帯にわたり、高層団地群が広がっている印象を受けました。
到着時は既に真っ暗となっていて、周辺の様子は分りませんでしたが、中層階であった部屋からの眺めは、良さそうです♪
結局、居心地の良さとリーズナブルな料金から、6泊したプラハ滞在を全て、こちらでお世話になってしまいました!
宿泊した「プライベート・ルーム」の画像は、後日別記事にてアップします。
まさか、1泊2,000円という破格の料金でプラハに滞在、それも、共産主義社会ではステータスでもあった、高層アパートに宿泊することになろうとは、全く想像もしていなかったので、この「プライベート・ルーム」の思い出は、今なお鮮烈な記憶として、脳裏に焼き付いています。
伝統的なヨーロッパの建築が現存することで魅かれたプラハでしたが、全く異なる側面も体験することとなり、幸先良く始まったプラハ滞在。
翌日からは、憧れ続けてきた街を、気の向くままに訪ね歩きます!
<初海外1990 チェコスロバキア&DDR-02>>
危険な着陸空港で有名な啓徳空港は懐かしいですが正直ここで発着したくありません^^;あのカーブを描いての着陸は確かに横風にあおられたらパイロットも手に汗握るでしょうね。
1990年の空港写真、確かに今見るとレトロ感満載!でもあの頃はそれが最新なんですものね、面白い。
今はドイツからチェコなんて車でスッと行けるのに、この時代はビザから準備してとても大掛かりな旅だったのですね。強制両替なんてあったのですね!
1990年3月は何してたかな?と振返ると夫と出会ったまだ若きティーンエイジャーで、共産国への関心はゼロ、と言うより頭に無かったです。
CNNでベルリンの壁が崩れる映像を連日見ていた記憶がありますが自分の生活(圏)では遠い国の話でした。その後のユーゴ紛争の時は既に祖父がアメリカから帰国していたので関心事でしたが【あの離れ島】では特に問題なく過ごしてました。
当時ドイツですら今後自分の仕事全般が関わるなんて夢にも思ってなかったです。マルク時代懐かしい~。
現時点の旧東欧と言っても都市部は西欧文化に感化され、古き良き風情はもうだんだんと無くなってきてしまってますね。かろうじてまだビザの要るロシアと思ってみても既にソ連無き今、モスクワなんて西欧と変わらないですものね。
続きも楽しみです♪
当時のアルバムに、結構細かくコメントをかいていたので、それを丸写しすればいいか…等と軽く思っていましたが、いざ記事を書き始めると、不思議な位に、27年前の思い出が、それこそあれやこれやと、記憶の底から続々と湧き上がってきたのには、自分でもビックリでした!
お陰で、丸写しでこれまでの記事より早く楽に書き上げられると思った目算が見事に崩れて、却って時間が掛かってしまいました(爆)
啓徳空港のスリリングな着陸も、体験したいことの1つでして、それでわざわざキャセイパシフィック利用にしたことも、記事を書いている最中に思い出したことの1つでした。
当時はまだイギリス領であった香港…空港だけでも、エキゾチックな「東洋の真珠」の雰囲気を、敏感に感じていました♪
空港の建物は、実のところ、流石に少々当時でもガタが出始めていたかな…スタッフの綺麗なお姉さんが、タイトスカート一杯に足を開いて踏ん張るようにして、渾身の力でスムーズに開かない搭乗ゲートの扉を開けている様子とか、退屈しなかった啓徳空港でのトランジット時間でしたw
旅先選定でも、へそ曲がりぶりを発揮して、人気の西欧ではなく、体制崩壊で不安定な中東欧を選びましたが、ビザや観光情報収集のために、東京のチェコスロバキアや東ドイツの大使館にまで足を運んだことも、今ではいい思い出です^^
無事に出てこられるだろうか…とか、当時はちょっとドキドキしながら訪れたのも、思い出話のちょっとしたいいネタになってくれていますw
因みに、当時のプラハや東ベルリンでたまに耳へ入ってきた日本語は、何故か関西弁が多かったです(^^;)
この当時は、中東欧に縁のある人は、情勢の動向に不安であったことでしょうが、同時に、やっと西側と自由な往来が叶うという期待も、抱いていたと思います。
この激動の時期の空気に、直に触れる機会を得て、本当に良かったと思います!
この旅先をチョイスした、当時の自分を褒めてやりたい位www
「ビロード離婚」と言われたチェコスロバキアとは正反対となってしまった、ユーゴスラビア内戦時のkikiさんのご心配、お察ししますが、とにかく平和となって、本当に良かったですね。
島全体が知り合いのような、素敵な「あの島」へは、いつの日か必ず再訪したいです!
kikiさんの仰るとおり、その後の中東欧は、あっという間に西欧化に席巻されてしまいましたよね。
途中で他の旅行記に中断されるかもしれませんが、最後まで綴るつもりですので、共産主義と自由主義とが混ざり始めた、束の間の体制変革の過渡期にあった中東欧の旅の思い出話に、宜しかったらお付き合いくださいね(^o^)
かく言う私も初の海外旅行はニュージーランドでいきなり南半球でしたが…(笑)
90年と言うと今から27年前ですよね。
いくらメモをしてあると言っても、こんな細かいことまでよく覚えていらっしゃいますね。
私は10数年前のギリシャ在住時代の思い出を書きたいと思っても、記憶は既に霧の中です。
啓徳空港、懐かしい。
90年代は一年に一度ぐらい香港に遊びに行っていたので、毎回このスリルを楽しんでました。
最初は飛行機の翼が捥げるんじゃないか…と心配したけれど、慣れるとこれが楽しくなるんですよ。
プラハを訪れたのは18年ぐらい前だと思います。
懐かしい風景、楽しみにしています。
共産主義から民主化へ変わり始めた過渡期という、とても興味深い時期に赴いたせいか、結構記憶に残っているとは思っていましたが、記事を書き始めると、当時の記憶がよりはっきりと、次々に思い出してくるのには、我ながら驚きました!
とはいえ、何分昔のことなので、新しい旅行記に先を譲りながら、ゆっくり記憶を手繰りつつ、ノンビリ更新していこうと思います^^
啓徳空港、私もそのスリルのことは聞いていたので、この機に体験しようと、「わざわざ」キャセイを選んで、香港経由にしましたw
着陸直前のゾクゾクは、最高でした!
プリントされた写真をスキャンしながら、以後更新していきますので、どうぞ気長にお付き合いくださいませ。