Noriko

しあわせさがし、穏やかで心豊かなライフスタイルを求めて・・・ささやかなブログです。

人生、波乱万丈。 My life is full of good and bad accidents.

2012-08-19 12:24:48 | music

これは、ブログに書くか、とても迷いました。でも、書く事にします。 ←今日の朝、、バルコニーから

今年の5月18日に私の6歳年下の弟が,薬物自殺しました。

My small brother got suicide on May 18 by taking tooya much pills.  He has mental disease for a long time, since he got bullying at high school and would not go to school.  He was very kind, compassionate, loving brother for me. He was 49 and got married about 3 years ago. However, I don't know the detail, his wife kicked him out of the house.  He had no place to go....he has a deep faith, and I suppose he chose to go to heaven to meet my mother who passed away 21 year ago. She was 58. ←my younger loving bother.

First, I blamed myself very much, why I could not help him to rise and keep living .....but my sons, friends told me not to blame myself but his faith chose to die to be in peace and serenity. 

I was so upset that I was all in tears and it took 3 months to accept his decision.

It is the song that I send him in heaven by Elton John titled "Your Song"http://www.youtube.com/watch?v=13GD78Bmo8s&feature=related

亡き弟に送る歌です。エルトン・ジョンの"Your Song"です。歌詞が書いてあるので。皆さんも一緒に歌ってみて下さい。

弟は、体が弱く、母は大切に育てました。心が純粋で、優しくて、私は、いつも弟の遊び相手でした。 あの頃、キックボクシングがはやっていて、私は、弟の為に、ボールを握って、弟が足でボールをける練習の相手をさせられました。

弟は、きっとキックボクシングで、強くなりたかったんでしょう。目を輝かせて、一生懸命蹴り続けました。ボールを持っている私は大変でした。 でも、弟が、これで自分に自信を持ってもらえるならと必死で長い間、ボールを持っていました。

弟は、11歳の時、父が広島の国鉄病院勤務になったので、私は、東洋英和女学院の寮に入りました。当時、短大しか東洋英和にはありませんでした。地方からの短大生が入居する、清楓寮と言うのが、今の、六本木のロアビルの斜向いにありました。敷地は広く、緑豊かで、煉瓦作りの立派な建物でした。

そこに、高校2年生(17歳)の時に、他の短大生と一緒に生活を共にしました。だから、実際、弟と暮らしたのは、ほんの11年間でした。

私は、東洋英和の短大に行くように父親に言われました。でも、私は、受験して4年生の大学に入りたかった。しかし、内科医の父の考えていた私の幸せのシナリオは、短大を卒業して、医者と見合いして、医者と結婚させる事でした。その頃は、ゆるぎなく、私には全く自由がありませんでした。それまで、父に反抗した事はなく、自分の意見や気持ちを伝えるという事さえ、私の中にありませんでした。ある意味、自己確立ができていなかったとも言えます。今から思うと、なぜ「私は4年生の大学に行きたい!!」と、言わなかったのだろうと不思議でなりません。だから、友人が、どんどん、入試で4年生の大学を目指しているのをとても羨ましく思いました。

私は、父の言うとおり東洋英和の短大の英文科に進みました。その頃、弟は、広島で、中学時代を過ごしていました。(その頃から、弟はいじめに苦しんでいたのだと思います。) 間もなく父が、新宿のJR総合病院の院長となり、東京に帰ってきました。私が、東洋英和女学院短大を卒業した時です。

その時、私は、父親に、生まれて初めて反旗の旗を振り、上智大学の3年への編入試験を受けました。親に隠れてです。ラッキーにも、合格し、上智大学の外国語学部、英語学年に入学しました。

私は、父親からは、勘当されました。だから私は、阿佐谷の風呂なしアパートを借りて、家庭教師のバイトを、東洋英和の雨宮先生に紹介して頂き、それで、生活費や学費を稼ぎました。勉強とバイトだけの大学生活でした。しかし、第29回「日米学生会議」に参加できたことは、とても有意義でした。

それまで、籠の鳥のように、両親の愛情を一杯受け、その愛情の重さで私は、つぶれそうでした。ですから、父から勘当されて、貧乏な一人暮らしを始めた時は、初めて「自由」になれたという、軽い清々しい思いで、寂しさなどこれっぽちもありませんでした。若かったからでしょう。何をしても楽しく、自由になんでも自分で決めて、時間やお金や空間を自分の意思で決められる生活は、楽しくてたまりませんでした。

この間、弟の修二ちゃんは、広島のの中学を卒業し、千葉の高校に入学していました。私は、上智大学の4年で、阿佐谷の風呂なしアパートから、世田谷の駒沢大学駅の風呂付マンションに住んでいました。勘当されていましたから、毎日、家庭教師のアルバイトと勉強で無我夢中でした。だから、両親や弟の住む家を訪ねる事はできませんでした。後で解ったことですが、その頃、弟は、千葉の高校で、すざましい、いじめに合っていたのです。登校拒否もあったようです。しかし、35年ほど前は、まだ「いじめ」は放任されていたし、「登校拒否」は、その生徒が怠慢と見られ、今のように社会問題にはなっていませんでした。 だから、両親は一生懸命弟を、励まし、何とか高校を卒業させました。特に母の苦労、悩みは人波ではなかったと思います。弟は生まれた時から、体が弱く母は本当に大切に弟を育てましたから、きっと、何が弟をそうさせたのか自分の育て方が悪かったのかと自分を責めたと思います。弟はとても優しい感受性の豊かな男の子でした。でも、それがある意味、気弱な性格に育ち、いじめに合っても、言い返したり先生にその事を伝える勇気や気持ちがなかったのだと思います。私も、似た面があるのでよく解ります。ただ、私は、東洋英和女学院で中学・高校を過ごし、そこでは、キリスト教の精神「敬神・奉仕」という、いじめなど全くない、ほんわかした、優しく自由な校風の中で育ったので、幸せでした。これは、両親と母校に感謝しています。

その後、弟は、パン屋さんに就職しました。 ところが、火を消し忘れ即首。母は、朝早くから、弟の為にお弁当を作り、仕事に送り出していました。でも、首は首です。木を取りなおして、他の就職先を探しては、人間関係でうまくいかず辞めては、就職を繰り返し・・ ちsh・・とうとう、弟は自分に全く自信を無くし、精神の病にかかってしまいました。統合失調症になりました。私が、それを知ったのは、結婚して2人の息子たちの子育てと仕事で忙しかった30代後半でした。

その頃、私は、上智大学を、1979年に卒業して、Rotary財団の大学院課程の奨学金の試験を受けていました。麹町ロータリークラブにお世話になりました。アメリカの大学院への留学に両親は、やはり、反対しましたが、広島の祖母の一言がなければ、留学しなかったでしょう。祖母はこう言いました。「今は、戦争の時代じゃない。平和になった。アメリカを敵国なんて時代じゃない。これからは、女だって、世界に羽ばたきなさい、背水の陣でいきなさい!」と。 上智大学中、第29回日米学生会議に参加した事は、多くのアメリカ人の大学生に出会い、色々なテーマで討論しながら、日本各地を旅行で来た事は、とても有意義でした。

上の写真は:   (ダブルクリックすると、拡大し、はっきり見れます。)

1私の留学を「背水の陣」で行ってらっしゃいと言ってくれた広島の祖母。

2 Hiroshima の原爆ドーム(小さな女の子は私) 

3、幼稚園の入学式で父と 

4 幼稚園で誕生会 

5 11歳の頃「こどもの国」で 

6 日米学生会議の時、長良川で鵜飼見物した時の私・・浴衣姿です(真中)

7 広島の祖母の家の縁側で、祖母と。私が来ている大島紬着物は、祖母の手作りです。

8 Rotary Club Convention (Maryland, Virginia and Washington D.C.)で、スピーチした私。私の左に少し映っているのが当時Rotary International のPresidentだった Mr. Tom Scogginsさんで、IBMの重役でした。)

後の3枚は留学中の私

そして、1979年、3月、上智大学を卒業して、夏の間は、Boston のHarvard University の寮に入り、9月にWashington D.C.のGorgetowun 大学の大学院に入学しました。 言語学科でした。 Social Linguisticsや Bilingual Education (日本語と英語のバイリンガル教育です。 TESOLという、世界中で英語を教えられる資格も取りました。←休み中に行ったフランスのパリ、ルーブル美術館の前で

その後、私は帰国して、直ぐに1981年4月ya、ソニー・プルデンシャル生命創立時の、平井社長と、安藤副社長の秘書となりました。

この頃、弟は、とてもとても自分の精神の病に苦しみ、信仰をもつようになりました。しかし、21年前、母が58歳で亡くなった時、弟は30歳でした。その後は、父が弟を一生懸命支援してきました。父は、母亡き後、再婚しましたが、再婚相手には弟の世話はさせず、週の3日以上は、一人暮らしをしていた弟のマンションで寝泊まりし、自分の病院での仕事もしていたのです。(その父が今84歳で、痴呆で老人ホームに入っています。父の介護が今の私の最大の喜びです。)

私は、その後暫くして、結婚して神戸に行きました。父は、母が亡くなり、本当に苦労の連続だったと思います。私には、神戸での出産、父は家庭に専念するようにと、悩みを一切私には言いませんでした。←割烹着姿の大好きだった母(ダブルクリックで拡大します。)

その父(昭和4年生まれ)、4年前、人間ドックの顧問を辞めてから、急激に痴呆が進み、とうとう私の事も解らなくなりました。

 

千葉の奥の養老ホームに入所している父は、今では、私の事も解ってくれるようになりました。片道2時間かかるので、持病を抱えて、自分が週に1度ヘルパーさんに2時間、看護師さんに一度一時間来ていてもらっている私にとって、父に会いに行く事は、一日がかりです。でも、先日も、父が好物のカステラと甘納豆を持っていったら「美味しい、美味しい、典子ちゃん!」と嬉しそうな笑顔を見ると、母に親孝行出来なかったぶん、父には悔いのないよう、出来るだけの事をしてあげたいと、心から思っています。

両親から、そして、周りの皆さまから、神様から、多くの恵を頂いてきて、今の私があります。アメリカに留学する時、広島の祖母が「今は、戦争は終わった。アメリカを敵国なんて言ってる時代じゃない、女だって、世界に羽ばたいたらいい。 背水の陣で、行ってらしゃい!」と、そっと背中を押してくれた言葉は一生忘れられません。

そして、1981年、ジョージタウン大学の、言語学修士修了と共に、世界中で英語を教えられる資格のTESOLを、取得しました。帰国後、六本木の母校、東洋英和女学院の前にある「国際教育会館」の図書館長だった、東ケ崎民代さんの渋谷の松濤のお宅で緒方貞子さんにお目にかかりました。今、私が一番尊敬する女性です。(生きている中で・・・歴史上には多くいますが。)

帰国して、直ぐに4月、ソニー・プルデンシャル生命(今のソニー生命)の社長と副社長の秘書として、就職しました。何の就職活動もせず、たまたまどこかの求人広告に出ていた記事を見て、なんとなく面接に行き、社長や副社長と会い、英語のやり取りや筆記試験で受かったのは、今から考えると本当にラッキーだったと思います。1981年、今のソニー生命がアメリカの最大生命保険会社、プルデンシャルと合弁会社創立の年です。青山一丁目のツインタワーに本社がありました。それまでの保険会社と違い、男性の営業マンが活躍、掛け捨ての保険を中心にした新しい型の会社でした。品川のソニーの本社に行き、盛田社長、井深重役など、ご挨拶に行ったものです。仕事は、楽しく、平井社長が日本生命、第一生命、安田生命など色んな会社の社長との会食の手配や、副社長の書いた原稿を英語に直してFaxでアメリカに送信したりと頼まれた事は、すべて勉強でした。 

そして、アメリカ留学中、知り合った元夫の(矯正歯科医)帰国を待ち、神戸で結婚。(元夫は、神戸の人でした。) 神戸での生活が始まりました。 子供の出産。育児。育英高等学校(1995年頃甲子園優勝)や、神戸大学、甲南大学、神戸松蔭女子大学など、無我夢中でした。

しかし、弟が30歳の時、最大の支援者だった母が亡くなり、父は、精神を患った、でも優しい弟の世話で苦労をしていたのです。今、84歳で痴呆で一時は私の事も解らなくなった父が、このころから20年余りの苦労を思うと胸が痛くなります。再婚相手は、全く弟の面倒をさせて苦労をかけたくなかった父の配慮は、普通の人にはできない事だと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

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5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
はじめて知りました (正路怜子)
2018-02-14 23:06:56
この秋、地元の公民館で正置友子さんの講演会をすることになり、あなたのブログに遭遇。いろいろ大変だったのね。神戸時代のことしか知らなかったので。元夫は元気ですか。孫が成長して神戸のお祖母ちゃんはどうしてますか。
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初対面だったし・・・ (河野典子)
2012-08-21 07:06:16
都マトンのお陰で、あのひと時は哀しみも癒えました。
とまとんとの出会いは神様のみ業だと思います。有難う、コメント。よかったら、この3つ前くらいの”The Rose”も聞いてみてね。
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のりちゃん! (とまとん)
2012-08-20 23:14:03
ブログを読んでびっくりしたわ!
だって、そのころ、のりちゃんに会ってたじゃん!
アンナ・ミラーズでパイ、食べてたじゃん。
本当に、そんなに悲しいことがあった後だったの?
そうだったの・・・
え・・・そうだったの・・・大変な時だったんだね。
全然しらなくてごめんね。

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淳ちゃん、有難う (河野典子)
2012-08-20 15:35:48
本当に、いとおしい弟だったんです。5月18日かが、毎日泣いて暮らしていました。音楽の道を目指していたのですが、結局斎野不足だったのでしょう。よく、ハガキは手紙を書いてくれ、CDやプレゼントを送ってくれていました。まだ49歳だと言うのに・・・・自殺の真実はまだ解っていません。でも、I have a faith...that makes me beliveve he is in peace in Heaven with my mother.
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Unknown (JUNKO)
2012-08-19 21:01:49
弟さん、今年の5月にお亡くなりになったの?
まだ、お父様に再会される前だったんですね。
辛さを飲み込んで、暮らしていかねばならない心中お察しします。
ほんとに典ちゃんの人生は波乱万丈ですね。
でも、いつもピュアな心を持って生きてる典ちゃんです。
人生は終わってみるまで判りません。
「終わりよければ全て良し」です。

弟さんのご冥福お祈りします。
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