今年も年始の挨拶をかねて、親戚身内一同が入谷の
姉の家に集まった。新年を祝い食事をして最後には
百人一首をするのが恒例になっている。
姉の息子夫婦、娘夫婦に私ら夫婦と80歳を越えた
叔母に犬一匹が集まり飲んで食べて賑やかに過ごす。
去年行った旅先の録画などを見て一段落すると百人
一首のお時間となる。これは恒例となっていてこれを
しないと正月の気分が出ない。
80歳を越えた叔母など若い頃に散々やったらしく
結構札を取る。負けてなるかと、こっちも必死になって
やるからしまいには汗をかく。しかし、決まり字を
多く覚えていると見えて、タッチの差で取られてしまう。
一字札の「むすめふさほせ」などはなかなか取れない。
口惜しいが年季の差は如何ともしがたい。
死んだ母親や、やはりすでに亡くなってしまった一番
下の叔母さんと、何十年も前に毎年正月になると、身
内が深川の家に集まり百人一首を必死になってやった
のを思い出す。チラシに源平、と真冬だというのに大
汗をかいてやってものだ。
入谷と言えば由緒ある小野照崎神社の氏子になる。
その起源は古く、かつては上野照崎の地にあったが
江戸時代に寛永寺創設のため現在の場所に移された。
主祭神は平安時代の歌人小野篁(たかむら)である。
遣唐使の件で嵯峨天皇の怒りに触れ壱岐に流されて
しまう。その時に読んだ歌が百人一首にある。
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと
人には告げよ 海女の釣舟
お膝元の入谷で氏神様の歌の札を取り合うのもこれは
これで、何かの縁かとも思うが、ちと考えすぎかもしれない。
と、ここまで書いたら、江戸は天明の狂歌の名人大田
南畝に狂歌百人一首があるのを思い出した。
百人一首をパロデイーにしたようなもので、上の歌も
あるはずだ、と探したらやっぱりあった。
ここまでは 漕ぎ出でけれど ことづてを一寸
たのみたい 海士の釣舟
同じモノを頼むのでも何かこっちのほうが丁寧な気が
しますねえ。慇懃です。
小野篁のほうは後に参議になるような高貴な方で
位もずっと高いし、壱岐に流されるという恨みも
少しは含まれているのでしょう。八十島、なんて気の
遠くなるような表現ですし。今で言えば政府の役人
みたいな立場だからね、そこへ行くと南畝は御家人
だから気が楽なものだ。
「入谷と言えば」という題なのでついでにもう少し。
歌舞伎の好きなひとなら、直侍こと直次郎と三千歳の
登場する「雪暮夜入谷畦道」を思い起こすかもしれない。
これは、後半の話しで前半はお数寄屋坊主の河内山や
金子市乃丞が出る「天衣紛上野初花」となっている。
前半が河内山の強請の場、後半は直侍と遊女三千歳
との入谷での濡場という構成で、後半だけ上演される
ことも多い。
またついでだが、河内山が、もう少しで強請が上手く行く
というところで、北村大膳に正体を見破られてしまう。
このとき言う捨て台詞が「とんだところに北村大膳!」で、
年配のひとなら似た様な状況の時にこの言い回しを良く
使ったものだ。昔の映画、森繁の社長シリーズあたりで
森繁が、淡路恵子との浮気の現場に久慈あさみの本妻
が控えているシーンあたりで思わず言いそうだ。
ここから出来た小唄が「直侍」あるいは「春の雪解け」で、
直次郎と三千歳との逢瀬で流れるのは清元の名曲「忍
逢春雪解」、後から出来た小唄も清元からだが、哀調を
帯びた新内調子だ。
ずいぶん前に国立劇場で二代目尾上松緑で見たが、
息子の辰之助も親の大松緑も亡くなってしまった。
暗闇の丑松を誰が演じたのかもう忘れてしまったが
良い芝居だった。同じ日に松緑の「七つ面」も見た。
ついでだらけで余談が本題みたいになった。入谷で思い
出したのでつけ足しておきました。
もう何でも思い出したら書いておかないと忘れてしまう。
話題があっちこっちに飛ぶがお許しあれ。
姉の家に集まった。新年を祝い食事をして最後には
百人一首をするのが恒例になっている。
姉の息子夫婦、娘夫婦に私ら夫婦と80歳を越えた
叔母に犬一匹が集まり飲んで食べて賑やかに過ごす。
去年行った旅先の録画などを見て一段落すると百人
一首のお時間となる。これは恒例となっていてこれを
しないと正月の気分が出ない。
80歳を越えた叔母など若い頃に散々やったらしく
結構札を取る。負けてなるかと、こっちも必死になって
やるからしまいには汗をかく。しかし、決まり字を
多く覚えていると見えて、タッチの差で取られてしまう。
一字札の「むすめふさほせ」などはなかなか取れない。
口惜しいが年季の差は如何ともしがたい。
死んだ母親や、やはりすでに亡くなってしまった一番
下の叔母さんと、何十年も前に毎年正月になると、身
内が深川の家に集まり百人一首を必死になってやった
のを思い出す。チラシに源平、と真冬だというのに大
汗をかいてやってものだ。
入谷と言えば由緒ある小野照崎神社の氏子になる。
その起源は古く、かつては上野照崎の地にあったが
江戸時代に寛永寺創設のため現在の場所に移された。
主祭神は平安時代の歌人小野篁(たかむら)である。
遣唐使の件で嵯峨天皇の怒りに触れ壱岐に流されて
しまう。その時に読んだ歌が百人一首にある。
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと
人には告げよ 海女の釣舟
お膝元の入谷で氏神様の歌の札を取り合うのもこれは
これで、何かの縁かとも思うが、ちと考えすぎかもしれない。
と、ここまで書いたら、江戸は天明の狂歌の名人大田
南畝に狂歌百人一首があるのを思い出した。
百人一首をパロデイーにしたようなもので、上の歌も
あるはずだ、と探したらやっぱりあった。
ここまでは 漕ぎ出でけれど ことづてを一寸
たのみたい 海士の釣舟
同じモノを頼むのでも何かこっちのほうが丁寧な気が
しますねえ。慇懃です。
小野篁のほうは後に参議になるような高貴な方で
位もずっと高いし、壱岐に流されるという恨みも
少しは含まれているのでしょう。八十島、なんて気の
遠くなるような表現ですし。今で言えば政府の役人
みたいな立場だからね、そこへ行くと南畝は御家人
だから気が楽なものだ。
「入谷と言えば」という題なのでついでにもう少し。
歌舞伎の好きなひとなら、直侍こと直次郎と三千歳の
登場する「雪暮夜入谷畦道」を思い起こすかもしれない。
これは、後半の話しで前半はお数寄屋坊主の河内山や
金子市乃丞が出る「天衣紛上野初花」となっている。
前半が河内山の強請の場、後半は直侍と遊女三千歳
との入谷での濡場という構成で、後半だけ上演される
ことも多い。
またついでだが、河内山が、もう少しで強請が上手く行く
というところで、北村大膳に正体を見破られてしまう。
このとき言う捨て台詞が「とんだところに北村大膳!」で、
年配のひとなら似た様な状況の時にこの言い回しを良く
使ったものだ。昔の映画、森繁の社長シリーズあたりで
森繁が、淡路恵子との浮気の現場に久慈あさみの本妻
が控えているシーンあたりで思わず言いそうだ。
ここから出来た小唄が「直侍」あるいは「春の雪解け」で、
直次郎と三千歳との逢瀬で流れるのは清元の名曲「忍
逢春雪解」、後から出来た小唄も清元からだが、哀調を
帯びた新内調子だ。
ずいぶん前に国立劇場で二代目尾上松緑で見たが、
息子の辰之助も親の大松緑も亡くなってしまった。
暗闇の丑松を誰が演じたのかもう忘れてしまったが
良い芝居だった。同じ日に松緑の「七つ面」も見た。
ついでだらけで余談が本題みたいになった。入谷で思い
出したのでつけ足しておきました。
もう何でも思い出したら書いておかないと忘れてしまう。
話題があっちこっちに飛ぶがお許しあれ。
百人一首はいいですよねえ。
ここ数年してはおりませんし、今では二三十首ほどしか思い出せませんが・・・。
うちの子供たちは誰も興味を示さず、小さい頃には教えましたが頓挫しました。
“ここから出来た小唄が「直侍」あるいは「春の雪解け」で、直次郎と三千歳との逢瀬で流れるのは清元の名曲「忍逢春雪解」、後から出来た小唄も清元からだが、哀調を帯びた新内調子だ。”
いつもこのところで参ってしまいますねえ。
言葉としては、端唄も小唄も清元も新内も理解をしてはおりますが、ところが聴いて分からないし、聴くことがありません。
かつて時代劇などでは、新内流しなど良く出てきていたのでしょうが、楽曲的に覚えていない。
此処の文章が実感的に理解できたらと、いつもいつもちょっぴり悔しく思うことです。
着物と相場が決まっていたものです。
子供は凧揚げ、女の子は羽根つきと
絵に描いたような正月風景だったの
ですが、今はもう見られなくなり
殺風景な町風景の正月で味気ないです。
江戸時代のお座敷あたりの三味線音楽は
実際はどんなだったのでしょう?
行って見られるものなら見てみたい
ものですねえ。
文化文政あたりに飛んでいって見たい
です。
来月の節分には浅草の見番で芸者衆の
「お化け」が、変装大会のようなもの、
ありますが、吉原太鼓が見られると
よいのですが。それより日程的に行ける
かどうか・・・
実際はどんなだったのでしょう?
行って見られるものなら見てみたい
ものですねえ。”
全く同感です。
私は時々タイムマシンがあれば、隅田川を舟で上り下りして、江戸の町を眺めてみたいと考えます。
紙と木と土で出来た優しい家並みと、遠くにお城が見える風景を季節ごとに眺めたら素晴らしいでしょう。
ところで最近聞いた三味線の音色は、古典落語の出囃子です。
桂文楽なんて変わった調子の囃子で出て参りますね。
国立の小劇場で演じた時に、後の言葉が
出てこなくなり、その場で「勉強して
出直して参ります」と言って講座を
降りてそのまま引退していまった、という
潔い師匠でした。有名なエピソードですが。
何でしょう、出囃子は歌舞伎浄瑠璃の
野崎(村)あたりでしたかね。
昔は芝居からとった出囃子はそんなに
珍しくなかったのかも知れません。
明治生まれのひとならなおさらですねえ。
現代と江戸時代をトリップする時代小説
で文庫版になっているシリーズものが
ありました。思い出したらここに書き出して
おきますね。すいません、度忘れして
しまって。
お話は「大江戸千女暦」でした。
石川英輔作です。大江戸シリーズとしていくつか
シリーズ化されております。NHKの「お江戸でござる」
にも解説で石川氏は出ておりました。
お時間のある時でも御一読を。
出版元は講談社だと思いますが。
文庫モノです。
シリーズは一応六冊ほど読みました。
愉快な時代小説でしたね。
「大江戸生活体験事情」と言う本を女性と共著で書かれていますが、江戸時代の生活を実体験するという面白いものでした。
ところでまたまたすみません。
“何でしょう、出囃子は歌舞伎浄瑠璃の
野崎(村)あたりでしたかね。”
と言うのが分かりません。
私が聞いているのは、例によってipodですので、音だけなのです。
名人文楽の引退の逸話は書かれたものを読んだことはあります。
生も、当然動く桂文楽さんも観たことがありませんし、高座を知りません。
ですから、この部分のことが分かりません、あしからず。
さすがです。感服いたします。
面白い読み物でした。たしか主人公は
人形町あたりから江戸へ「転時」していた
と思います。いつも人形町を通るとどの辺で
飛んでいけそうかとついその気になります。
もとは人形浄瑠璃で、お染久松が野崎村を
出る事になる時に、後ろで三味線が連れで
曲が入ります。この時流れる曲、これが
「野崎」です。文楽師匠はこの出囃子は
誰か他の師匠から受け継いだのでないで
しょうか、恐らく。噺家の皆さんは結構
前の師匠から受け継いでいたりすることが
多いものですから。今度調べてみます。
そうだ、我が家にもCDで昔の噺家が
結構ありますので、何か関係あるもので
解説でもあるかどうか見ておきます。
ビデオもあるかも知れません。何せ
どこに整理してあるかすぐ忘れるクチな
もので、その上粗忽モノで、
落語を地で行くような生活をしています
ものですから・・・